今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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大垣日大、準優勝

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 2007年4月3日、逆転で常葉菊川が初優勝

 第79回選抜高校野球大会の決勝戦は、常葉学園菊川(静岡)が大垣日大(岐阜)に
 6−5で勝ち初優勝。静岡県勢の優勝は1978年の浜松商以来、29年ぶり。

 48年ぶりの東海勢対決となった決勝戦は、大垣日大が序盤から終始リードをしたが、
 4対5で迎えた8回裏、常葉学園菊川が2点加え逆転、そのまま逃げ切った。

 大垣日大は希望枠で春夏通じて初出場での決勝戦進出となり、その健闘は瞠目に値。
 大垣は、終盤のエラーと森田の2被本塁打が痛かった。


 大垣日大 220001000−5
 常葉菊川 11100012×−6

(大垣) 森田(完投)
(菊川) 戸狩(2回途中で降板)─田中


 ☆ 花冷えの甲子園球場に沸き立つは 希望枠出場の我ら大垣

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 平成19年4月3日(火)本日:関テレ・千草社長の辞任が正式承認の見通し。

 先月30日、菅総務相は関西テレビの千草宗一郎社長を総務省に呼び、放送法に違反したとして総務相名で警告。千草社長は記者団に対し「検証番組をしっかりと放送した上で責任を明らかにしたい」と述べ、番組終了後に社長を辞任する考えを事実上表明。関テレは社長の後任人事を本格化させるとともに、再発防止の具体策作成に着手した。

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 総務相は「放送法違反の状態が再度生じる場合は法令に基づき厳正に対処する」と述べ、「電波停止」などの行政処分も含めた厳しい姿勢で臨むことを強調。関テレに再発防止策を1カ月以内、実施状況を3ヶ月以内に報告するよう求めた。

 関テレは今日、臨時取締役会を開き千草社長の辞任を承認する見通し。今夜午後10時から約70分の検証番組を放送。後任社長は関テレ内部からの昇格が有力視されているが、役員の多くが今回の問題で処分を受けており、調整は難航。 放送局に対する総務相名の警告では昨年6月、TBS系の健康情報番組で放送した内容を試した視聴者が健康被害を訴えた問題で、TBSに出したケースなどがある。

 今夜午後10時「私たちは何を間違えたのか…検証あるある大事典」(フジ系列)

 ※ 「私たち」とは、関テレのみならず、全てのマスメディアであり、視聴者たる私たち自身のことでもある。メディア・リテラシーに無関心であってはならない。



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 1948年4月3日、韓国で済州島(チェジュド)四・三事件(蜂起)が起きる。

 南北分断を決定づける、南朝鮮の単独選挙に反対する済州島の南朝鮮労働党員ら数百人が武装蜂起し、これを鎮圧する軍・警察が、その過程で島民を虐殺した事件。蜂起に無関係の島民も多数弾圧されたため、人口20数万の島で、1954年までに1万5000〜3万人が犠牲になったとも、約8万人の島民が犠牲になったとも言われる。米軍政・李承晩政権の出来事。 難を逃れる為、日本へ亡命する者が多く、済州島出身の在日朝鮮人は10万余に及ぶとか。


 ◇ 盧武鉉大統領、55年ぶりに公式謝罪 済州島四・三事件 (2003/11/01)

 朝鮮半島が日本の支配から解放された後の1948年、韓国・済州島で島民が軍・警察に大量虐殺された「済州島四・三事件」について、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は31日、「過去の国家権力の過ちに対し、大統領として遺族と島民に心からおわびする」と述べ、事件から55年ぶりに初めて政府として謝罪した。

 歴代政権は「左翼反乱への正当な公権力行使」と規定。韓国社会で長くタブー視されてきたが、金大中前政権以降、見直しが進んでいた。盧大統領は「多くの人が罪なく犠牲になった。歴史の過誤を反省し真の和解につなげる」とし犠牲者の早期の名誉回復を進める考えを示した。一方では、保守団体の一部は、「鎮圧の必要性を無視した一方的謝罪」と反発した。

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 ◇ 金石範(キム・ソクポム)という作家

 1925年、大阪市生まれ。14歳の時、半年余りを済州島で過ごし、民族的自覚を持つ。1948年に起こった「済州島四・三事件」をテーマにした『鴉の死』で作家活動に入り、全7巻の長編『火山島』で、大佛次郎賞と毎日芸術賞を受賞。主著に『満月』、評論集『転向と親日派』、金時鐘との対談集『なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか』。一貫して済州島四・三事件を小説のテーマに取り上げている。


 ◇ 消し去られた地名・猪飼野

 1923年(大正12)、済州島と大阪との間に直通航路が開通されたことで、済州島出身者を多く大阪に移住させるきっかけとなった。日本の植民地下、土地を奪われ、仕事を失った人びとは、日本本土の下層の労働力として移住を余儀なくされた。(定期連絡船の名を、「君が代丸」と称した)

 その一部は大阪生野区の平野運河開削工事に従事、やがて家族と共に猪飼野辺り一帯に定住することになった。当時、そのあたりは都市の外郭部であり、市内で家を借りる事のできない朝鮮人らが、かろうじて居を定めることのできた地区だった。1928年(昭和3)、大阪府にいた4万5千人の朝鮮人のうち1万人がこの界隈に住んだ。それが、1960年代に入ると在日朝鮮人の約4分の1近くを占める13万人が大阪に住み、その大半が東大阪方面おもに生野区に生活の基盤を築きあげるようになったといわれる。

 祖国を離れざるを得なかった人々が、着の身着のままで住み着き、蔑視と差別、貧困の中でもたくましく、そして朝鮮の伝統を守りながら生きてきたのが、猪飼野であった。1973年2月1日、この地名は町名変更により消滅した。日本書記にも登場する由緒ある地名であるにもかかわらず。


 ※ 青年の頃、ご近所に済州島出身の方がいた。両親から聞いた話で明瞭ではないが、時たま、済州島の事を話す時、すごく深刻な面持ちになるそうだ。普段は快活な方だけに歴史的事実を知らなかった両親にも、四・三事件の悲惨さが伝わったようだった。

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