今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 <巨人2-4中日>(20日)東京ドーム 18:00開始(試合終了)

 巨人先発:高橋尚成、豊田、上原 − 阿部
 中日先発:中田賢一、岩瀬 − 谷繁
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 1回表、荒木、井端、森野で三者凡退。
 1回裏、清水、谷、小笠原で三者凡退。
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 2回表、ウッズ、中村紀、李で三者凡退。
 2回裏、李ゴロ、二岡ソロ(巨人1-0中日)、阿部ゴロ、脇谷三振。

 3回表、平田、谷繁、中田で三者凡退。
 3回裏、ホリンズ見逃し、高橋尚フライ、清水三振で三者凡退。
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 4回表、荒木フライ、井端死球、森野H、ウッズ3ラン(巨人1-3中日)、
 中村紀H、李三振、平田2塁打(2死2.3塁)、谷繁敬遠、中田三振。
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 4回裏、谷四球(WPで2塁へ)、小笠原タイムリー(巨人2-3中日)、李三振
 (李とウッズ睨みあい)、二岡三振、阿部四球(2死1.2塁)、脇谷(WP2.3塁)
 あわや逆転3ランかと思う大ファールの後、脇谷三振。
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 5回表、荒木、井端、森野で三者凡退。
 5回裏、ホリンズ三振、高橋尚三振、清水フライで三者凡退。
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 6回表、ウッズ(FFを小笠原捕り損なう)三振、中村紀、李で三者凡退。
 6回裏、谷H、小笠原大フライ、李大フライ、二岡大フライ(3本共塀際)。
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 7回表、平田F、谷繁ソロ(巨人2-4中日)、中田H、荒木ゴロ、井端ゴロ。
 7回裏、阿部ライナー、脇谷三振、ホリンズH、高橋尚に代打・木村拓H、
 (清水と守備交替の)矢野捕邪飛。(乗り切れない原ジャイアンツ、無念)

 8回表、(豊田登板)、森野三振、ウッズ見逃し、中村紀、で三者凡退。
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 8回裏、谷H、小笠原三振、李死球(1死1.2塁)、二岡三振、(中田→岩瀬)
 阿部三振。
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 9回表、(上原登板)、李三振、藤井見逃し、谷繁ゴロで三者凡退。
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 9回裏、代打・大道H、ホリンズ・フライ(代走・古城戻れず併殺)、木村拓三振。
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 勝利投手 [中日] 中田(1勝0敗0S)
 敗戦投手 [巨人] 高橋(0勝1敗0S)
 セーブ [ 中日 ] 岩瀬(0勝0敗3S)
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 ※ 中日がプレイオフ5連勝で日本シリーズ進出を決めました。
 レギュラーシーズンでも中々出来なかった5連勝を、この時期に決めた。
 ◇ 国東市 妙徳山 泉福寺(大分県国東市国東町横手馬場1913)
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 曹洞宗妙徳山泉福寺は永和元年(1375年)大友一族の田原氏能が、母・無伝尼公(後光厳天皇の第三女)の発願により、無著妙融禅師を開山として創立したといわれています。
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 その後、天正9年(1581年)8月、豊後国主・大友義鎮(よししげ、後の宗麟)の兵火によって講堂を焼失するも、幸いにも室町中期から末期の唐様仏殿の様式を遺す大雄殿(仏殿)、開山堂等の主要な建物は難を免れ、その後、慶長10年(1605年)中津城主・細川忠興公によって再建されました。
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 明治4年までは、九州曹洞宗の総本山、根本道場として栄え、常住の僧侶も五百人を越えていたことが記録されている。今日も立派な建物が数棟あり、往時の格式の高さがうかがえます。また、それぞれの建物は屋根つきの渡り廊下で結ばれております。
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 泉福寺には、国重要文化財である開山堂(無著禅師墓塔)、宋板宏智録六巻、仏殿や県指定有形文化財の山門、『正法眼蔵聞書抄』31巻(道元禅師の孫弟子・経豪禅師筆と伝えられる)などの多くの文化財があります。
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 ※ 近年、無着成恭師が住職となられております。


 ◇ 無着成恭(1927年、山形県南村山郡本沢村の沢泉寺に生まれる)

 1948年、山形師範学校卒業。
 山形県南村山郡山元村(現上山市山元)山元小中学校(僻地1級校)に赴任。

 6年間勤務し、国語教育として生活綴り方運動に取り組む。クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が文部大臣賞を受賞。
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 1951年、クラス文集を『山びこ学校・山形県山元村中学校生徒の生活記録』(青銅社)として刊行、ベストセラーとなり、1952年には今井正監督によって映画化されました。しかし、無着先生と生徒らを取り巻く環境は、ここから激変することになります。今ほどではないものの、マスコミの取材攻勢に山形の寒村では、上を下への大騒ぎとなる。やがて、貧しい山村での「恥」を世間に晒したと言う反感を買って、無着先生は追われるように村から出てゆく。その後の生徒らにも悲喜こもごもの出来事が待ち受けていた。

 1953年、駒澤大学仏教学部に編入、卒業。明星学園教諭に就任。のち、教頭になる。科学的・体系的な言語の教育に没頭し、『続・山びこ学校』として当時の指導の成果をまとめた。1964年にスタートしたTBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者を28年間務める。

 1983年、明星学園退職。1987年、一鍬山福泉寺(千葉県多古町)住す。2003年、泉福寺(大分県国東町横手)に転任する。2004年、山形県上山市立山元小中学校にて、石碑「山びこ学校」の除幕。碑文に「きかんしゃの子どもはいつも力を合わせよう」とある。2006年、山元小学校、閉校。
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 ※ 無着師は現在、マスメディアへの露出を極力避けて老妻と泉福寺でひっそりと暮らしている由。永六輔曰く、「今の世だからこそ、無着さんは積極的に発言して欲しいのに本当に残念」。境内の落書きに、こんな一文があったとか。「住職はかなりの気分屋。気分がいいと開山堂(国指定重文)を見せてくれる。見せてくれる条件は、1、若い女性がいること2、一杯機嫌でいること。この2つが重要な条件です」。


 ◇ 『遠い「山びこ」(無着成恭と教え子たちの四十年)』佐野真一 :著
  一躍、時の寵児となった無着成恭と、名もない教え子たちが歩んだ
  その後の人生は明暗を分けた。

 『波』(新潮社、2005年5月号)の評論:柳田邦男
   (子どもが実存を凝視した時代)

 歳月は傲慢である。ジャーナリズムもまた傲慢である。両者は相互に共犯者となって、この国の人々が忘れてはならない出来事やある人物が生きた証を、容赦なく廃屋のように、遠い忘却の彼方に埋没させていく。いつも、新しい事件や話題の人物を追いかけることばかりに熱中しているものだから、生きる人間の人生街道のディテール描写や出来事の全体像の構築といった作業は、積み残されていく。(中略)

 「山びこ学校」という“事件”は、昭和二十年代、戦後の経済も社会も教育も不安定だった時代に、東北は山形県の貧困にまとわりつかれた山村・山元村の山元中学校を舞台に、青年教師・無着成恭を主人公にして展開されたものだ。だが、そう言い切ってしまうと、“事件”の多重な構造が見えにくくなってしまうので、佐野氏の『遠い「山びこ」』にそって、“事件”のいわば発展段階を次のように書き出してみる。

(1)昭和二十三年四月に旧制師範学校を卒業したばかりの無着が、自らの故郷の山元中学校に赴任し、一クラスしかない一年生四十三人に、村や家や自分の現実を直視した作文――佐野氏によれば「貧しい山村にしがみついて生きるほか術のない子供たちが、いかに生きるべきかを必死で自問した生活記録」――を書かせ、それらを無着と生徒たちが一緒になって編集し、ガリ版刷りの作文集「きかんしゃ」を次々に作っていた約三年間。

(2)作文の一つが文部大臣賞を受賞するなど、「きかんしゃ」の作文の数々が全国的に注目を集めるようになったことから、中央の出版社が「きかんしゃ」の作文を抜粋して、単行本『山びこ学校』を出版(昭和二十六年三月)したところ、ベストセラーとなり、無着が一躍マスコミの寵児となるとともに、学校と子どもたちがマスコミの取材攻勢にさらされるようになった時期。

(3)無着が昭和二十七年の衆議院選挙で地元日教組の社会党候補者の応援活動をしたり、とくに日教組幹部一行に加えられてウィーンでの世界教員会議(昭和二十八年七月)に参加した際に、予定外のソ連入りするという行動をとったりしたことから、地元で「アカ」呼ばわりされるようになり、結局、村を追われる形で教職を辞め、上京するまでの時期。

 この変遷を見ると、「山びこ学校」という“事件”は、敗戦によって戦後民主主義が導入され、経済的貧困の中で現場の教師たちがそれぞれに生活に密着した教育の取り組みを試行錯誤していた時期から、昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争を契機に、国による教育の統制化の揺り戻しへという変動が、濃厚に関連していることがはっきりとわかる。

 もし無着がマスコミや日教組の神輿に乗らずに、ひたすら地道に子どもたちと向き合う(1)の段階の現場実践を貫いたなら、あるいはたとえ『山びこ学校』を単行本化しても、無着が子どもたちをマスコミ攻勢から守ることを重視したなら、「山びこ学校」は“事件”ではなく、教育と子どもたちの可能性を考えさせる、さらに豊かな記録となったに違いない。

 佐野氏の『遠い「山びこ」』は、無着と四十三人の教え子たちの今日に至る四十年を、一人一人を探し訪ねて来し方を聞き取ることまでして検証し、政治思想や教育理論にとらわれずに、“事件”の全体像を明らかにしたものだが、再読してなお私の胸に惻々と響いてきたのは、やはり子どもたちの村や親や自分の生活を見る眼と文章表現の鮮烈さだった。

 当時代表的な作文として喧伝された江口江一少年の「母の死とその後」、うさぎを殺す自分の心をリアルに描いた平吹光雄少年の「うさぎ」をはじめ、〈雪がコンコン降る/人間は/その下で暮しているのです〉といった詩の数々。それらを読むと、いのちとダイレクトに響き合う言葉の表現というものは、たとえ子どもの作文や詩であっても、苦難に満ちた自らの生存の状況を肉眼で凝視したところから湧き出てくるのだと実感する。

 子どもたちがIT革命によってバーチャルなコミュニケーションに漬かっている今、「山びこ学校」の作文や詩の数々には、言葉と考える力の発達について、厳しく問いかけるものがある。
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 ※ 無着成恭師が怒ってます。「俺は、宗教者こそ真の教育者であるべきだと思っている。寺のやるべきことは弟子を育成することだ。口をすっぱくして弟子を教育しなければならない。日本中のお寺が本気で子弟教育をすれば、日本は必ず変る」。

 ※ 私は、親こそが吾が子の教育者であり、宗教教育は親でしか出来ないことだと思っています。日本中の親たちが本気で吾が子の躾をすれば、日本は必ず変わります。今の親たちの優先順位1位は、一体なんなのでしょうか?


 ◇ 国東市・大光寺の文殊・普賢菩薩、宗派を超え開眼供養(2008年3月17日)

 国東市国見町の大光寺で17日、文殊と普賢の二菩薩の開眼供養があった。同寺は臨済宗だが、曹洞宗で同市国東町の泉福寺住職無着成恭師(80)が導師として供養を実施。宗派を超えた儀式は珍しく、県内各地や神戸、福岡などから約120人が集まった。

 大光寺は1274年に創建。1996年から年6回ずつ文化講演会を開き、無着師を講師に招くなど交流を深めてきた。無着師はラジオ「全国こども電話相談室」の回答者を約30年間担当したことで知られる。

 両菩薩は別府市の笠置三男さん(71)と国見町出身の親族が寄贈し、檜造りで高さ約110センチ。両菩薩は釈迦如来の脇侍で文殊は知恵、普賢が行をつかさどり、本堂に釈迦三尊がそろった。この日は無着師が筆を振りかざして点眼。檀家らも焼香して両菩薩に魂が吹き込まれた。大光寺の代表役員武多成道さん(68)は「開眼が幅広い交流の縁になれば」と話した。

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 平成19年10月20日(土)昨夜:セCS第2戦、G4番李が2併殺、D李は絶好調。

 <巨人4−7中日>(19日)東京ドーム
 第1戦は高橋由が5タコ、昨夜は李が2併殺の大ブレーキ。ここにきて2週間のブランクが問題視されるが、さにあらず。落合ドラゴンズが短期決戦のゲームに、しっかりと対応してきた成果が顕れたもの。レギュラーシーズンとは違うゲームスタイルが、原ジャイアンツには無いと言う事。


 10月20日は、『きけわだつみのこえ』が出版された日です。
 1949年10月20日、戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版されました。


 ◇『きけ わだつみのこえ』
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 第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。1947年に出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年に出版された。

 BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問として、渡辺一夫、真下信一、小田切秀雄、桜井恒次が関わった。

 この刊行収入を基金にして、戦没学生記念・わだつみ像が製作され、立命館大学で展示されています。
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 学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募しました。応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄さんのものが採用されました。藤谷氏の応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか/いかれるか/はたもだせるか/きけはてしなき/わだつみのこえ」という短歌が添付されていた。この詩は本書の巻頭に記載されています。

 「わだつみ」は戦没学生をあらわす普通名詞のように使われますが、「わたつみ(わだつみ)」は海神(Father Neptune)を意味する古語です。
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 ◇『母へ最後の手紙』林市造 京大経済学部学生
   昭和20年4月12日、特別攻撃隊員として沖縄にて戦死、享年23。
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 お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときが来ました。親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん。この歌がしみじみと思われます。ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。

 私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから。
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 ◇『情けある母の哀訴嘆願』 平井聖 東北大法学部学生
   昭和20年7月9日仙台にて爆死、享年20。

 またしても母の転科をすすむるますます激しくなった。ただひとりの息子、その成長ばかりを願ってきた母は、わが子をみすみす戦場に死なせるのはけだし“願わざるのはなはだしき”ものであろう! この憂いその心配はまるで狂気のごとく、母としてはほとんど泣かんばかりの真剣な態度で自分に哀訴するのであった。説き去り説き来たりためつなだめつ一生懸命説得するのであった。

 最初理科方面への転向慫慂は、「将来大学を出よ」との打算的な考えにすぎなかったようであるが、今や母親の本能は敏感に 我が子の血の臭いを嗅いでいる! 的確に“死”の予想をしていたようであった。もちろん飛行機に乗れば当然生命はなく、「仙台青葉師団」の戦闘幹部にでもなれば、これまた当然生還の目算は立たぬのである。そぞろ母親は感慨深く、「お前の性格からしても猪突猛進してついには生命を失くすであろう」という。いかに我が性格はわざわいなるかな、自分もそう思っていたところをズバリ言い当てられたので愕然とした。しみじみ自分の一徹な性格をば嘆く!

 しかもこの若さにおいて散ることこそ、自分の最も本望とするところ、だが両親の考えは、一概に自由主義思想の残滓的感情とばかりはいい切れない。心中で泣いて合掌しながらも表面ではただただ微笑をたたえて、情けある母の哀訴嘆願に対さねばならない。この矛盾そしてこのジレンマ、自分は二つの相反した魂の葛藤に、心苦しくも泣き、果ては慟哭したのであった! お母さん、お気持ちはようくわかります。しかし時代とわれわれの教養がお言葉にそうのを許さないのです。どうぞ先立つ不幸はおゆるしください。

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 ◇ 雨の神宮外苑「学徒出陣壮行会」 昭和18年(1943年)10月21日

 明治神宮外苑の国立競技場で2万5千人の学生の出陣壮行会が行われた。戦況悪化に伴い、20歳以上の学生の兵役免除が解除され、戦地に赴くことになったもの。見送る女子学生ら約5万人

 文部省から通達された壮行会の目的は、「学生たちに戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚する」とあった。そのため大観衆が集められることになり、女子学生や旧制高校生らが動員された。これら若き人々の胸中や如何。東條首相の訓示、そして出陣学生代表の答辞、最後には「海ゆかば」の大合唱で壮行会の幕を閉じた。この壮行会の出陣学生のうち、戦死した者約三千人。

 東條英樹は敗戦後、家族らに「一切語る勿れ」と言い遺して、絞首台に消えた。

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 ◇ 皇后さま、73歳の誕生日

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 皇后さまは20日、73歳の誕生日を迎えられた。宮内記者会の質問に文書で回答し、「祖母として幼い者と接する喜びには、親として味わったものとも違う特別のものがある」と4人の孫たちへの思いを綴った。皇居で朝の散歩中、実を付けたジュズダマの茂みを見つけ、天皇陛下と少しだけ実を採ったといい、「毎年集めると、いつか針の持てるようになった愛子と首飾りを作って遊べるかもしれません」と成長した愛子さまの姿に思いを馳せた。

 高校生、中学生となった秋篠宮家の眞子さま、佳子さまのお姉さまぶりには、「小さなお母さんのよう」「十分に手加減を知った無造作さで、抱いたり着替えさせたりしている姿や、小さな愛子が、自分よりさらに小さい悠仁のかたわらでそっと手に触っていたりする姿を本当に好もしく、かわいく思います」と記しています。


 【参照】10月20日、群青忌・野村秋介自決
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/22048134.html

 【参照】10月20日、いよいよ明日、日本シリーズ(2006年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/22089830.html

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