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◇ 国東市 妙徳山 泉福寺(大分県国東市国東町横手馬場1913)
曹洞宗妙徳山泉福寺は永和元年(1375年)大友一族の田原氏能が、母・無伝尼公(後光厳天皇の第三女)の発願により、無著妙融禅師を開山として創立したといわれています。
その後、天正9年(1581年)8月、豊後国主・大友義鎮(よししげ、後の宗麟)の兵火によって講堂を焼失するも、幸いにも室町中期から末期の唐様仏殿の様式を遺す大雄殿(仏殿)、開山堂等の主要な建物は難を免れ、その後、慶長10年(1605年)中津城主・細川忠興公によって再建されました。
明治4年までは、九州曹洞宗の総本山、根本道場として栄え、常住の僧侶も五百人を越えていたことが記録されている。今日も立派な建物が数棟あり、往時の格式の高さがうかがえます。また、それぞれの建物は屋根つきの渡り廊下で結ばれております。
泉福寺には、国重要文化財である開山堂(無著禅師墓塔)、宋板宏智録六巻、仏殿や県指定有形文化財の山門、『正法眼蔵聞書抄』31巻(道元禅師の孫弟子・経豪禅師筆と伝えられる)などの多くの文化財があります。
※ 近年、無着成恭師が住職となられております。
◇ 無着成恭(1927年、山形県南村山郡本沢村の沢泉寺に生まれる)
1948年、山形師範学校卒業。
山形県南村山郡山元村(現上山市山元)山元小中学校(僻地1級校)に赴任。
6年間勤務し、国語教育として生活綴り方運動に取り組む。クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が文部大臣賞を受賞。
1951年、クラス文集を『山びこ学校・山形県山元村中学校生徒の生活記録』(青銅社)として刊行、ベストセラーとなり、1952年には今井正監督によって映画化されました。しかし、無着先生と生徒らを取り巻く環境は、ここから激変することになります。今ほどではないものの、マスコミの取材攻勢に山形の寒村では、上を下への大騒ぎとなる。やがて、貧しい山村での「恥」を世間に晒したと言う反感を買って、無着先生は追われるように村から出てゆく。その後の生徒らにも悲喜こもごもの出来事が待ち受けていた。
1953年、駒澤大学仏教学部に編入、卒業。明星学園教諭に就任。のち、教頭になる。科学的・体系的な言語の教育に没頭し、『続・山びこ学校』として当時の指導の成果をまとめた。1964年にスタートしたTBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者を28年間務める。
1983年、明星学園退職。1987年、一鍬山福泉寺(千葉県多古町)住す。2003年、泉福寺(大分県国東町横手)に転任する。2004年、山形県上山市立山元小中学校にて、石碑「山びこ学校」の除幕。碑文に「きかんしゃの子どもはいつも力を合わせよう」とある。2006年、山元小学校、閉校。
※ 無着師は現在、マスメディアへの露出を極力避けて老妻と泉福寺でひっそりと暮らしている由。永六輔曰く、「今の世だからこそ、無着さんは積極的に発言して欲しいのに本当に残念」。境内の落書きに、こんな一文があったとか。「住職はかなりの気分屋。気分がいいと開山堂(国指定重文)を見せてくれる。見せてくれる条件は、1、若い女性がいること2、一杯機嫌でいること。この2つが重要な条件です」。
◇ 『遠い「山びこ」(無着成恭と教え子たちの四十年)』佐野真一 :著
一躍、時の寵児となった無着成恭と、名もない教え子たちが歩んだ
その後の人生は明暗を分けた。
『波』(新潮社、2005年5月号)の評論:柳田邦男
(子どもが実存を凝視した時代)
歳月は傲慢である。ジャーナリズムもまた傲慢である。両者は相互に共犯者となって、この国の人々が忘れてはならない出来事やある人物が生きた証を、容赦なく廃屋のように、遠い忘却の彼方に埋没させていく。いつも、新しい事件や話題の人物を追いかけることばかりに熱中しているものだから、生きる人間の人生街道のディテール描写や出来事の全体像の構築といった作業は、積み残されていく。(中略)
「山びこ学校」という“事件”は、昭和二十年代、戦後の経済も社会も教育も不安定だった時代に、東北は山形県の貧困にまとわりつかれた山村・山元村の山元中学校を舞台に、青年教師・無着成恭を主人公にして展開されたものだ。だが、そう言い切ってしまうと、“事件”の多重な構造が見えにくくなってしまうので、佐野氏の『遠い「山びこ」』にそって、“事件”のいわば発展段階を次のように書き出してみる。
(1)昭和二十三年四月に旧制師範学校を卒業したばかりの無着が、自らの故郷の山元中学校に赴任し、一クラスしかない一年生四十三人に、村や家や自分の現実を直視した作文――佐野氏によれば「貧しい山村にしがみついて生きるほか術のない子供たちが、いかに生きるべきかを必死で自問した生活記録」――を書かせ、それらを無着と生徒たちが一緒になって編集し、ガリ版刷りの作文集「きかんしゃ」を次々に作っていた約三年間。
(2)作文の一つが文部大臣賞を受賞するなど、「きかんしゃ」の作文の数々が全国的に注目を集めるようになったことから、中央の出版社が「きかんしゃ」の作文を抜粋して、単行本『山びこ学校』を出版(昭和二十六年三月)したところ、ベストセラーとなり、無着が一躍マスコミの寵児となるとともに、学校と子どもたちがマスコミの取材攻勢にさらされるようになった時期。
(3)無着が昭和二十七年の衆議院選挙で地元日教組の社会党候補者の応援活動をしたり、とくに日教組幹部一行に加えられてウィーンでの世界教員会議(昭和二十八年七月)に参加した際に、予定外のソ連入りするという行動をとったりしたことから、地元で「アカ」呼ばわりされるようになり、結局、村を追われる形で教職を辞め、上京するまでの時期。
この変遷を見ると、「山びこ学校」という“事件”は、敗戦によって戦後民主主義が導入され、経済的貧困の中で現場の教師たちがそれぞれに生活に密着した教育の取り組みを試行錯誤していた時期から、昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争を契機に、国による教育の統制化の揺り戻しへという変動が、濃厚に関連していることがはっきりとわかる。
もし無着がマスコミや日教組の神輿に乗らずに、ひたすら地道に子どもたちと向き合う(1)の段階の現場実践を貫いたなら、あるいはたとえ『山びこ学校』を単行本化しても、無着が子どもたちをマスコミ攻勢から守ることを重視したなら、「山びこ学校」は“事件”ではなく、教育と子どもたちの可能性を考えさせる、さらに豊かな記録となったに違いない。
佐野氏の『遠い「山びこ」』は、無着と四十三人の教え子たちの今日に至る四十年を、一人一人を探し訪ねて来し方を聞き取ることまでして検証し、政治思想や教育理論にとらわれずに、“事件”の全体像を明らかにしたものだが、再読してなお私の胸に惻々と響いてきたのは、やはり子どもたちの村や親や自分の生活を見る眼と文章表現の鮮烈さだった。
当時代表的な作文として喧伝された江口江一少年の「母の死とその後」、うさぎを殺す自分の心をリアルに描いた平吹光雄少年の「うさぎ」をはじめ、〈雪がコンコン降る/人間は/その下で暮しているのです〉といった詩の数々。それらを読むと、いのちとダイレクトに響き合う言葉の表現というものは、たとえ子どもの作文や詩であっても、苦難に満ちた自らの生存の状況を肉眼で凝視したところから湧き出てくるのだと実感する。
子どもたちがIT革命によってバーチャルなコミュニケーションに漬かっている今、「山びこ学校」の作文や詩の数々には、言葉と考える力の発達について、厳しく問いかけるものがある。
※ 無着成恭師が怒ってます。「俺は、宗教者こそ真の教育者であるべきだと思っている。寺のやるべきことは弟子を育成することだ。口をすっぱくして弟子を教育しなければならない。日本中のお寺が本気で子弟教育をすれば、日本は必ず変る」。
※ 私は、親こそが吾が子の教育者であり、宗教教育は親でしか出来ないことだと思っています。日本中の親たちが本気で吾が子の躾をすれば、日本は必ず変わります。今の親たちの優先順位1位は、一体なんなのでしょうか?
◇ 国東市・大光寺の文殊・普賢菩薩、宗派を超え開眼供養(2008年3月17日)
国東市国見町の大光寺で17日、文殊と普賢の二菩薩の開眼供養があった。同寺は臨済宗だが、曹洞宗で同市国東町の泉福寺住職無着成恭師(80)が導師として供養を実施。宗派を超えた儀式は珍しく、県内各地や神戸、福岡などから約120人が集まった。
大光寺は1274年に創建。1996年から年6回ずつ文化講演会を開き、無着師を講師に招くなど交流を深めてきた。無着師はラジオ「全国こども電話相談室」の回答者を約30年間担当したことで知られる。
両菩薩は別府市の笠置三男さん(71)と国見町出身の親族が寄贈し、檜造りで高さ約110センチ。両菩薩は釈迦如来の脇侍で文殊は知恵、普賢が行をつかさどり、本堂に釈迦三尊がそろった。この日は無着師が筆を振りかざして点眼。檀家らも焼香して両菩薩に魂が吹き込まれた。大光寺の代表役員武多成道さん(68)は「開眼が幅広い交流の縁になれば」と話した。
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