今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成19年5月12日(土)昨日:扇千景参院議長が政界30年で幕、7月参院選不出馬。

 昭和52年7月、参院初当選。「今期をもって議員生活に終止符を打ちたい」と述べ、政界引退することを正式表明。女優25年、政界30年「のんびりする時間が欲しい」。

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 1939年5月12日、ノモンハン事件(ハルハ川戦争)が起こる。

 1939年5〜9月、満州国(中国東北地方)とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境ノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争事件。日本は関東軍1万5000名を動員したが、8月ソ連の空軍・機械化部隊の反撃によって壊滅的打撃を受け、独ソ不可侵条約も締結されたために停戦。

 この事件(戦争)で軍部の対ソ開戦論は後退。モンゴルでは紛争の起きた地点を流れる川の名から、ハルハ川戦争と呼ぶ。

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 ノモンハン事件は日本軍にとって永く恥辱の汚名を負った戦いであり、その真相は今日でもあまり明らかになってはいない。昭和天皇は、どんな負け戦に対しても、お言葉があったが、ノモンハン事件については黙殺した。生きて虜囚の辱めを受けず、の戦陣訓に追われるような形で、数十の兵士らは、日本への帰国をあきらめ、現地で余生を終えたとも言われる。

 かつて、司馬遼太郎が作品に仕上げようと意図しさまざまな資料集めを始めると、有形無形の圧力を感じ、ついに断念したと語っていた。その真意は分からないが、軍部にとっては未だ封印したい恥部との意識があるのか。


 ◇ 壊滅的敗北ではあるが、決して一方的な敗退ではなかった。

 ノモンハン事件の戦闘経過についての日本語文献は、主として日本側の資料に頼って書かれている。当時の日ソ両国が公表した情報はまったく信用されていなかったが、中立的な観察者・研究者の間では、日本軍が殆どなすところなく惨敗したという見方が有力であった。 この見方は戦後、日本軍が受けた甚大な損害が明らかになって広く定着する。

 ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開され、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という、意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。

 これはソ連軍にとっても大損害であり、ノモンハン戦が一方的なものだった、という見方は改められた。ただし戦闘の経過を見ると、ソ連軍が日本軍に対して苦戦したのは7月初旬までの段階であり、逆に8月の大攻勢以降はソ連側の一方的勝利であったことは間違いないと考えられる。

 日本では辻政信らが、ノモンハン戦で日本は負けてなかったと唱えていた。本当は勝てた筈だったが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとする。しかし、実際には関東軍は、近代戦の主力となる戦車・重砲・航空機に、重大な損失を被っており、とてもこれ以上の戦闘継続などできる状態ではなかった。

 ソ連側が2正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約により後顧の憂いを断つなど、この戦争に国家的な対応をとったのに対し、日本軍は関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎など一部の参謀の近視眼的な独断専行による対応に終始。そのため、外交・戦略・動員・兵站など前線での戦闘以前の段階で、日本軍はソ連軍に圧倒されていた。

 この「戦争」で露呈された日本軍の補給の貧弱さや航空戦力の軽視は、第二次大戦になっても改まらず、日本陸軍はノモンハン以上の失敗を繰り返すことになる。

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 「戰歿者慰霊碑建設趣意書」に曰く、

 ノモンハン事件は 昭和十四年五月 滿洲國と外蒙古との國境 ノモンハン附近に於て 越境問題に端を發し 約五ヶ月に亘り 炎熱不毛の草原で 戰史に希な激戰を繰り返し 惨烈悲壮な苦闘を重ね 遂に國境防衛の重責を完うした。

 この間一万二千余柱の戰死者を出し、廣島縣出身者も多数に及んだので、この度 歩兵第七十一聯隊、野砲兵第十三聯隊、輜重兵第二十三聯隊等 関係諸部隊の戰友が遺族と共に英霊の武勲を永久に顕彰する爲に 縁深い廣島の聖地に慰霊碑を建立したのである。

 昭和五十二年五月吉日 廣島ノモンハン會


 ◇ 近年明らかになった旧ソ連の「軍事機密」に依れば…

 かの「ノモンハン事変」の真相は、日本がソ連側と互角以上の戦いをしていた。
 ソ連側の死傷者は、日本軍のおよそ1.5倍。その事実は長く隠されてきた。

 日本軍の死傷者 17,405名
 ソ連軍の死傷者 25,655名

 日本側の戦闘参加者は2万人だから、ほぼ壊滅状態。そして生き残った下士官の大半は、ピストル自決を遂げる。一方、ソ連側は20万人が加わり、大量の航空機、速射砲、戦車等が投入された。両軍を比較すれば、ソ連側の戦力は日本の10倍であったにも拘わらず、ソ連の死傷率たるや、日本の1.5倍だった。

 ※ 半藤一利氏の「ノモンハンの夏」(1998年、第7回山本七平賞受賞作)は、この事実を踏まえてはいない。 とまれ、圧倒的な優位にあったソ連軍が、かほどに苦戦した出来事は、スターリンの脳裡に深く刻まれ、日本軍恐るべし、の思いをなさしめ、日本軍敗戦の土壇場まで満州への突入を躊躇せしめた。

 ※ 生殺与奪の権を握る参謀本部、関東軍。これらのエリート集団が暴走する時、地獄が出現する。目先の前線にとらわれ、大局的戦略を欠く暴挙が日本軍を窮地に追い込んでゆく。 慰霊鎮魂は顕彰にあらず、その死を衷心より悼む、この一点に尽きるべし。

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