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平成19年5月21日(月)昨日:松本人志監督映画「大日本人」がカンヌで好評価。 初監督の映画「大日本人」(6月2日公開)が20日、第60回カンヌ国際映画祭の監督週間で公式上映された。世界先行上映という異例の形でのデビュー。地元観客からの絶賛の声に、北野武監督に対しても「勝ちたい」と闘志を燃やしていた。 サルコジネタは逆効果:「きっと新しいフランスの大統領も気に入ってくれるでしょう」とリップサービスのつもりが、若い観客たちは、反サルコジ派が多かったようで、会場からは一声にブーイング。その後の評価だけに、ちょっと見てみたい気もします。 1938年5月21日、岡山県西加茂村で、病苦と失恋に苦しむ22歳の青年が祖母を含む村民30人を殺害、自身も銃で自殺。これを題材に横溝正史が『八つ墓村』を執筆。 犯人は2歳で父と、3歳で母と死別。祖母の元で姉と育てられたが、相当の資産もあり比較的裕福だった。11歳の時、祖母の出生地である西加茂村に一家で移る。この頃から家が傾くが、中の下の生活ながら祖母の溺愛の下、小学校に通学。欠席は年間数十日に達するなど生まれつき虚弱だったが、頭脳は明晰で成績は常に優秀。体育が不得意であったためクラスでの成績は2番が多かったが、学科では首位であったといわれた。 成長するに従いわがままとなり、病気を理由に家業を怠け青年団・部落隣人との交渉をさけるようになる。姉が嫁いでからは更に陰鬱さを増し、肺尖カタルと診断され自宅療養中、父母が肺結核で死亡したことを聞き、自分も遺伝であろうと思いこむ。結核は不治の病と思われていた。結核のために親しい女も彼を避け、陰口を叩くと思い込むなど精神分裂病の兆候が表れ、社会をひがみ、近隣の婦女に関係を強いて、去られると逆恨みした。 彼は、自分は正しいと固く信じ、いつしか報復を考えるようになった。不動産を担保に、猟銃を購入。狩猟と称し、山中に入り松を人間と見立てて胸部・腹部に当たる高さを猛獣用実弾で打ち抜く訓練を続けた。この頃から常に「殺してやる」「生かしておかぬ」などと、口ばしるようになり、昭和13年3月12日、近隣の者から駐在所へ「説諭してほしい」と申告があり、本署から警察官2名が派遣されたこともあった。 1938年(昭和13年)5月21日未明の1〜3時頃に事件はおきた。 頭の両側に2個の棒型懐中電灯を固定し、胸にも自転車用の角型電灯を吊った犯人は、腰に日本刀を差し込み、懐に短刀、猟銃・弾薬袋を持ち、巻脚地下足袋という装備で村人を襲撃した。まず、送電線を切断した上で完全な暗闇となった部落内、過半数の家々を襲う。祖母の首を大斧で切断、幼児・老婆の見境なく発砲・刺殺し、午前3時ごろに逃走した。 当時西加茂駐在所が不在のため数キロ隔てた津山警察署加茂駐在所に、村人の一人が届出たのは午前二時四十分、最初の通報では十数名の即死者との事だったが最終的には30名の死者、重傷1名軽傷2名にのぼった。 津山署・付近の警察、消防組青年団約2千名の大包囲陣による山狩りが夜明けとともに開始されたが、午前十時半、西加茂村大字楢井字仙之城の山林中台地で、銃を自分の心臓に当て足のつま先で引き金を引き自殺した犯人を発見。装備を解き、血に染まったシャツを新しい物に着替えていた。逃走途中の民家でもらい受けた雑記帳紙片に姉宛ての遺書が書かれていた。司法省刑事局報告には、「我が国のみならず、海外に於いても類例なき多数殺人事件である」とある。 ◇ 犯人の遺書(犯行前に用意したもの) 非常時局下の国民として、あらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき発刺と活動している中に、僕は一人幻滅の悲哀をいだき、寂しく此の世を去っていきます。 姉上様、何事も少しも御話しせず死んでいく僕、何卒御許しください。自分も強く生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども、不治の病と言われる結核を病み、大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き、遂に生きて行く希望を失ってしまいました。 たった一人の姉さんにも、生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで、不幸なるものとして何卒御許し下さい。僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど、取るに取れぬ恨みもあり、周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。 病気になってからの僕の心は、全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり、病気は悪くなるばかり、僕は世の冷酷に、自分の不幸な運命を毎日のように泣いた。泣き悲しんで絶望の果て僕は世の中を呪い、病を呪い、そして近隣の鬼の様な奴も。 僕は遂に、かほどまでつらくあたる近隣の者に、身を捨てて少しではあるが、財産をかけて復讐をしてやろう思うようになった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか、それ以後の僕は全く復讐に生きていると言っても差し支えない。 そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日まで至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讐を断行します。けれど後に残る姉さんの事を思うと、あれが人殺しの姉弟と世間のつめたい目の向けられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない。どうか姉さん御ゆるしの程を。 僕は自分がこのような死に方をしたら、祖母も長らえては居ますまいから、ふびんながら同じ運命につれてゆきます。道徳上から言えば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれど、なにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。けれど僕は出来れば、母のそばにゆぎたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。何しろ二、三歳で両親に死別しましたから、親は恋しいです。それから、少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険が二つ、五十銭ずつ毎月はいるやつがあるのですがもらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。 ああ僕も死にたくはないけれど、家のことを思わぬではないけれど、このまま暮していたらどうせ結核にやられるべきだろう。そうしたら、近隣の鬼のような奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうして、もかなり丈夫で居る今の間に恨みはらすべきです。復讐々々すべきです。 では取急ぎ右、死する望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんは驚かれるでしょう。すみませんがとうかお許し下さい。こういうことは日本国家の為、地下に居ます父母には甚だすまぬ事ではあるが仕方がありません。兄さんによろしく 五月十八日、之を記す ※ 岡山県吹屋の広兼邸。映画のロケに使われた。 ◇ 姉宛のの遺書(事件直後に認めた文章) おなじ死んでも、これが戦死、国家のために戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるのでしょう。どうか姉さんは病気を一日も早く治して、強く此の世を生きて下さい。僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます。 死するに当たり一筆、書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたず、うたいでもよい者もうった。時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ。まことにすまぬ。二歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど後に残る不びんを考えて、ついああした事を行なった。楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした。まことにすみません。 涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、許して下さい。つまらぬ弟でした。この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決して墓をして下さらなくてもよろしい。野に腐れれば本望である。病気四年間の社会の冷淡、圧迫にはまことに泣いた。親族が少なく愛と言うものの我が身にとって少ないにも泣いた。社会も少しは身寄りのないもの、結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた。今度は強い人に生まれてこよう。
実際、僕も不孝な人生だった。今度は幸福に生れてこよう。思う様にはゆかなかった。もはや夜明けも近づいた、死にましょう。 |

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