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平成19年5月4日(金)昨日:前大阪府知事、横山ノックさんが咽頭癌のため死去。
人気絶頂期の昭和43年、トリオを解散し、参院選に初当選。選挙期間中は、自転車で走り回り、「横山ノックに投票するかどうかなんて、どうでもええんです。とにかく、悪い事をせん人を選んで」というアピールと知名度で当選。のちに、大阪府知事に当選し、堕ちた。享年75。
5月4日、狭山事件で、被害者の遺体が発見される。
1963年5月4日、埋められた少女の遺体が発見されました。
狭山事件は1963年(昭和38年)5月1日に起きた高校一年生の少女誘拐殺人事件に際し、被差別部落出身の青年(当時24歳)が5月23日に逮捕された。 元「受刑者(無期懲役)」と弁護団及び支援者は部落差別に基づいた冤罪であるとして再審請求をしている。
○誘拐殺人事件のあらまし
1963年5月1日、埼玉県狭山市で、川越高校入間川分校別科一年生の富裕な農家の少女(四女、当時16歳)が、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明となった。
午後7時40分頃、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見。その中には、「子どもの命が欲しかったら、2日夜12時、佐野屋の前に20万円の金を持ってこい」との脅迫状が入っていた。
脅迫状には「警察に話したら子どもは殺す」と書かれてあったが、長男はためらわずに駐在所に届け出る。その後、駐在所から狭山署に連絡された。警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られた。
翌2日夜、次女(当時23歳)は身代金の受け渡し場所として指定された佐野屋の前で、20万円に見せかけた偽造紙幣を持って犯人を待つ。次女は犯人と二言、三言会話したが、犯人は張り込みに気づいて逃げてしまう。
この時、警察官は40人で張り込んでいたにもかかわらず、犯人が逃走してから慌てて追いかけると言う大失態を演じてしまった。上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。近い内にも事件を解決できるかもしれない」と言い、中勲捜査本部長も「犯人は土地カンがある事は今までの捜査でハッキリしている。近日中にも事件を解決したい」と強気の発言を繰り返した。
3日早朝よりの捜査によって、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑で発見。捜査官は足跡の臭いを警察犬に追わせたが、小川の近くで追跡が困難になった。その足跡や匂いが消えた場所から程遠くないところに養豚場があった。
そこで警察は「犬がその近辺で臭いを追えなくなったのは、犯人が養豚場に関わりある者だから」と考えた。その養豚場の経営者や家族それに従業員は狭山市内の被差別部落の出身者であった。この段階から、狭山事件は被差別部落民との関わりを持つ。
4日午前10時半、強姦殺害された少女の遺体が雑木林から麦畑に出たところの、農道に埋められていたのが発見された。同日夜、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が少女宅で司法解剖した。
死因は首を絞めたことによる窒息死。少女は生前姦淫されていた。精液の血液型はB型だった。死亡推定時間は、少女が最後に食事したときから、最低3時間を経過したころと推定された。
1963年は東京オリンピックを翌年に控え、日本が敗戦国から脱却し、先進国に肩を並べようとする高度経済成長期(池田内閣)。同年3月31日には戦後最大の誘拐事件といわれた「吉展ちゃん事件」で犯人を取り逃がしていた警察は、面目まる潰れの状態であり、狭山での誘拐犯人取り逃がしには、日本国中から避難の声が上がっていた。
死体が発見された4日には、柏村信雄警察庁長官が辞表を提出、引責辞任。埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させるも、捜査は難航。遺体が発見されて2日後の5月6日、被害者宅で以前に作男をしていた事もある運送会社の従業員(B型)が謎の自殺を遂げる。
同6日、特捜本部は、養豚場の経営者からスコップ紛失届を入手する。警察は養豚場に出入りしていた被差別部落の住民に的を絞り、特命捜査班を組織して被差別部落民に対し見込み捜査を開始した。
当時、国家公安委員長であった篠田弘作は「犯人に死なれてはたまらない。必ず生きたまま捕らえる」と発表。(埼玉新聞5月7日)。
同日、捜査本部は、「運送会社の従業員にはアリバイがあった」と発表して捜査を打ち切る。11日午後5時ごろ、狭山市入間川東里の小麦畑で農作業をしていた人がスコップを発見した。このスコップは養豚場から盗まれたものだった。そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じ物という鑑定結果が出た事から、遺体を埋めたときに使ったスコップと断定された。
5月23日、被差別部落の青年(当時24)が喧嘩や上衣の窃盗等の微罪で別件逮捕された。青年は事件の3ヶ月ほど前まで養豚場に勤めていた。青年の血液型はB型である。また、青年とその家族が住んでいた狭山市内の被差別部落は、被害者の少女の遺体が埋められていた場所の近くだった。
その部落には養豚場関係者が多く住んでいた。また警察は逮捕当日から、「筆跡などで青年が犯人であることに確信がある」と発表する一方で「彼が犯人だという確信はあるか」との記者の質問には、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は、「これが白くなったら、もう他にロクな手持ちはない」と洩らしたと言う。
6月17日、本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄)で再逮捕する。
6月21日、青年は少女が持っていた鞄を捨てた場所の地図を書かされ、この「自供」に基づいて鞄が「発見」される。6月23日、青年が単独犯行を「自白」する。
7月2日、青年の「自供」に基づき、腕時計を捨てたとされる場所の付近から、時計が「発見」される。
犯人とされた青年が後に主張した内容によると、警察と検察による非合法かつ徹底した暴力的取り調べに執拗に晒され「罪を認めなければ一家の稼ぎ手である兄を逮捕するぞ」などといった脅しを受け「10年で出してやるから、男の約束だ」という口約束を信じ込まされて、ついには嘘の自白を強要させられたとのことである。
7月9日、当時の浦和地方裁判所(現:さいたま地方裁判所)に「強盗強姦死体遺棄」で起訴。一審で青年は犯行を終始認め、1964年3月11日、浦和地裁は青年に対し、死刑の判決を言い渡した。この間、青年はひと言も否認の言葉を漏らさなかった。
翌3月12日、青年は控訴。9月10日、東京高裁で控訴審の第1回公判が開かれる。この時、青年は冒頭、「刑事さんから、別件だけでも10年の懲役だが、犯行を認めれば10年で出してやると言われ信じた」「この事は弁護士にも話してない」「お手数をかけて申し訳ないが、私は殺っていません。」と、公判で初めて無実を主張、一審で認めた犯行を全面否認。以来「無実」を訴え続ける。
1969年11月、被差別部落出身学生による、「狭山差別裁判糾弾」を掲げた浦和地裁占拠闘争が始まり、この頃から部落解放同盟が本格的に狭山裁判に乗り出すことになる。解放同盟による全国大行進が行なわれ、公正裁判要求の署名は三百万人を超え、文化人や地方議員による公正裁判を求める声明・決議が相次いで出された。
1970年12月、部落解放同盟中央本部が『狭山差別裁判』を発行。1971年5月29日には、「狭山差別裁判に対する公正裁判要求、青年の即時釈放」を求める百万人署名運動など、裁判に対する外部からの圧力が高まった。
1974年10月31日、東京高等裁判所は無罪要求に盛り上がる世論にも関わらず、弁護団の主張をことごとく斥けて、「無期懲役」の判決を下す(寺尾判決)。
弁護団は新証拠をあげて上告するも、1976年8月16日、無期懲役が確定、9月8日千葉刑務所に入所。弁護団は異議申立て、再審請求を提出するが門前払いとなり、尽く棄却・却下される。
1994年12月21日、31年7ヶ月の受刑者としての期間を経て、「仮出獄」する。関東地方更生保護委員会が受刑者の仮出所を公表したが、これは極めて異例なこと。
2005年3月16日、最高裁第一小法廷は第二次再審請求の特別抗告を棄却。
◇『狭山事件の真犯人』 殿岡駿星・著
事件は1963年(昭和38年)5月1日、埼玉県狭山市で起きた埼玉県立川越高校入間川分校別科1年生の女子高校生中田善枝さん(当時16歳・本文では仮名・松田善枝さん)の誘拐殺人事件「狭山事件」で、容疑者として市内に住む石川一雄さんが、同年5月23日に逮捕され、一審で死刑判決、二審で犯行を否認して10年間かかって審理し無期懲役、その後、最高裁で無期懲役が確定しています。石川さんは無実を訴えていますが、いまだに再審の開始は決定しておりません。
著者の殿岡駿星は元朝日新聞記者、1968年に浦和支局に赴任、当時から狭山事件の取材をしてきましたが、それらの資料から大胆に真犯人X氏の正体に迫り、ドキュメントタッチの推理小説として世に問います。著者はかつて1990年に晩聲社から「犯人・狭山事件より」を出版して、事件の真相を追及しましたが、未だに石川さんの無実の決定が出ていませんので、今回はそれを書き直しさらに深く真犯人に迫った内容にした。(書籍紹介)
この度、狭山事件についての本として初めて真犯人に迫る内容の「狭山事件の真犯人」を出版しました。冤罪を訴えている石川一雄さんの無実を論理的に推理し証明したつもりです。これまで、検察も裁判所も…だれもが気付かなかった真犯人を浮き彫りにしました。多くの人たちが石川さんの無実を証明する本を出していますが、この本の場合は事件のほとんどのデータから分析して真犯人の存在を示し、逆説的に石川さんの無実を証明しており初めてのことです。多くの方にこの本を読んでいただき、世論の力で一日も早く石川さんの無実を勝ち取ることを願っております。よろしくお願いします。(著者コメント)
殿岡駿星(とのおかしゅんせい)1942年、静岡県浜松市に生まれる。1968年、朝日新聞入社・記者として浦和支局勤務。その後、北海道報道部から東京本社編集局・出版局勤務。2002年、定年退職。現在、東京都中央区在住。
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