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平成19年5月6日(日)立夏:大関栃東(30)が引退決意。高血圧と脳梗塞既往症で明日引退会見。 5月6日、鑑真忌 唐の高僧で、日本に渡り律宗を開いた鑑眞の763(天平宝字7)年の忌日。 (拝観した時、5メートル程の距離があり良く見えず、NHKの方がいいと思った) 若葉して 御目の雫(しづく) ぬぐはばや 芭蕉 芭蕉が初夏の青葉あふれる奈良唐招提寺の鑑真座像を拝した時に詠んだ句。 芭蕉45歳の句作。「雫」は、「若葉」の「縁語」になっており「涙」の意味を 含めています。或いは見えぬ瞼に望郷の面影が宿っていたのかも知れません。 ○ 鑑眞(がんじん、688年〜763年)奈良時代の帰化僧。日本律宗の開祖。 ◇ 鑑真と戒律 唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家、道岸、弘景について、 律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とくに僧尼が遵守すべき戒律を伝え 研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万 人以上の人々に授戒を行ったとされる。揚州の大明寺の住職であった742年 日本から唐に渡った僧・栄叡、普照から戒律を日本へ伝えるよう懇請される。 仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。 戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを 「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒 である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つ とされるが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が 行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。しかし奈良時代 に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性 が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐、戒律 の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。 栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが誰も渡日を希望する 者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意、それを聞いた弟子21人 も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたが尽く 失敗した。 ◇ 日本への渡海 最初に渡海しようとしたのは742年冬。このときは、渡海を嫌った弟子が 港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放され 鑑真は留め置かれた。2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航し たが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなった。再度、 出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目 も失敗に終わる。 その後、栄叡は病死を装って出獄に成功、江蘇・浙江からの出航は困難だと して、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかしこの 時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴え出た。その ため、官吏に出航を差し止めされ、四たび失敗。 748年、栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れ、懇願すると、鑑真は5回目 の渡日を決意。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ 向かい出航したが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南 島へ漂着。鑑真は当地の大雲寺に1年以上滞留し、海南島に数々の文化・医薬 の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡がのこされている。 750年、鑑真一行は揚州へ戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地 で栄叡が死去。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留 された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより 両眼を失明してしまう。(完全には失明していなかったとする説もある) 752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに、遣唐使藤原清河らが 訪れ、日本への渡海を約束した。しかし当時の玄宗皇帝は鑑真の才能を惜しみ 渡日を許さなかった。そのため、753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の 藤原清河は鑑真の同乗を拒否。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を 乗船させた。11月16日に遣唐使船が出航、程なくして暴風が襲い清河の大使船 は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日、薩摩坊津に 無事到着し、実に10年の歳月を経て、仏舎利を携えた鑑真はついに宿願の渡日 を果たすことができた。 ◇ 日本での戒律の確立 754年(天平勝宝6)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待 を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒につき全面的に一任され東大寺 に住することとなる。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼 まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて 常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5)に日本の東西 で登壇授戒が可能となるよう大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置 され、戒律制度が急速に整備されてゆく。 758年(天平宝字2)、淳仁天皇の勅により大和上(だいわじょう)に任じ られ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律 を伝えられる配慮がなされた。 759年(天平宝字3)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建 し、戒壇を設置。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの 知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組む。 763年(天平宝字7年)唐招提寺で入寂。死を惜しむ弟子の忍基は鑑真の 彫像を造る。今日まで唐招提寺に伝わる「国宝唐招提寺鑑真像」であり、これ が日本最初の肖像彫刻とされる。また、779年(宝亀10)、淡海三船により 鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され鑑真の事績を知る貴重な史料となる。 ※ その昔、中国の当代きっての高僧が、極東の地・日本へ国禁を犯してまで渡海するであろうか? と言う疑問は古くからありました。とは言え鑑真さんは日中友好のいわば、象徴的存在でもありまして、余り詮索しないようになってるみたい。当時、戒壇の権威づけには、どうでも高僧の将来が不可欠であった。 ※ 1962年のこの日、大阪朝日放送で、『てなもんや三度笠』の放送が開始されました。毎週、欠かさず楽しみに見た番組。初めて新鮮なギャグに接し、生番組の面白さを満喫。
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