今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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5月9日、泡鳴忌

 平成19年5月9日(水)「真榊料」奉納:野党が問題化して国益になるとは思えない。

 安倍首相が4月下旬の靖国神社の春季例大祭に、神前に「真榊料」を奉納したことについて、野党は8日、「姑息な態度だ」などと一斉に批判。(わが国の姑息曖昧は、言わば家風。)


 ◇ 5月8日 <広島4−16中日> (福山市民球場、10.127人)

 大味なゲームだったが、序盤は中日らしい野球。朝倉にようやく2勝目。
 本塁打=ウッズ13号(2ラン)、中村紀6号(3ラン)、井端2号(3ラン)



 5月9日は、泡鳴忌です。1920年(大正9)の忌日、岩野泡鳴。

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 ○ 岩野泡鳴〔ほうめい、明治6年(1873年)〜大正9年(1920年)〕

 明治大正期の詩人、小説家。兵庫県洲本市出身。明治学院、仙台神学校に学ぶ。詩人として文壇入り、後に小説家に転進。田山花袋、島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍。作者の主観を移入した人物を描く一元描写論を主張し、田山花袋の平面描写論と対立した。

 一時期、蟹の缶詰工場を作るために、樺太に渡るが事業に失敗する。活動的な人物だったが無計画な面もあった。明治期の文学全集には、必ず登場する作家ではあるが、今では如何にも退屈な感は否めない。(青年時代に、全集物の一巻として読んだ時には、興味深かった。)

 代表作として小説に、「耽溺」「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「断橋」など、評論に、「神秘的半獣主義」、詩集に「闇の盃盤」など。享年48。死の直前、医者に、「これからいいものを書くぞ」と語ったという。

 ※ ペンネームの泡鳴は、生地・阿波の鳴門をもじったものとか。


 『耽溺』岩野泡鳴

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 あわてたところで、だめなものはだめだから、まず書きかけた原稿を終ってしまおうと、メレジコウスキの小説縮写をつづけた。

 レオナドの生涯は実に高潔にして、悲惨である。語らぬ恋の力が老死に至るまで一貫しているのは言わずもあれ、かれを師とするもののうちには、師の発展のはかばかしくないのをまどろッこしく思って、その対抗者の方へ裏切りしたものもあれば、また、師の人物が大き過ぎて、悪魔か聖者か分らないため、迷いに迷って縊死したのもある。また、師の発明工風中の空中飛行機を、まだ乗ってはいけないとの師の注意に反して、熱心の余り乗り試み、墜落負傷して一生の片輪になったのもある。そして、レオナドその人は国籍もなく一定の住所もなく、きのうは味方、きょうは敵国のため、ただ労働神聖の主義をもって、その科学的な多能多才の応ずるところ、築城、建築、設計、発明、彫刻、絵画など、ことに絵画はかれをして後世永久の名を残さしめた物だが、ほとんどすべて未成品だ、を平気で、あせることなくやっている間に、後進または弟子であってまた対抗者なるミケランジェロやラファエルなどに圧倒されてしまった。

 僕はその大エネルギと絶対忍耐性とを身にしみ込むほど羨ましく思ったが、死に至るまで古典的な態度をもって安心していたのを物足りないように思った。デカダンはむしろ不安を不安のままに出発するのだ。こんな理屈ッぽい考えを浮べながら筆を走らせていると、どこか高いところから、
「自分が耽溺しているからだ」と、呼号するものがあるようだ。またどこか深いところから、「耽溺が生命だ」と、呻吟する声がある。

 いずれにしても、僕の耽溺した状態から遊離した心が理屈を捏ねるに過ぎないのであって、僕自身の現在の窮境と神経過敏とは、生命のある限り、どこまでもつき纏って来るかのように痛ましく思われた。筆を改めた二日目に原稿を書き終って、これを某雑誌社へ郵送した。書き出しの時の考えに従い、理屈は何も言わないで、ただ紹介だけにとどめたのだ。これが今月末の入費の一部になるのであった。

 その夕がた、もう、吉弥も帰っているだろうと思い、現に必要な物を入れてある革鞄を浅草へ取りに行った。一つは、かの女の様子を探るつもりであった。雷門で電車を下り、公園を抜けて、千束町、十二階の裏手に当る近所を、言われていた通りに探すと、渡瀬という家があったが、まさか、そこではなかろうと思って通り過ぎた。二階長屋の一隅で、狭い古い、きたない、羅宇や煙管の住いそうなところであった。かのお袋が自慢の年中絹物を着ているものの住所とは思えなかった。しかし、ほかには渡瀬という家がなさそうだから、跡戻りをして、その前をうろついていると、、実は、気が臆してはいりにくかったのだ、

「おや、先生」と、吉弥が入り口の板の間まで出て来た。大きな丸髷《まるまげ》すがたになっている。「………」僕は敷居をまたいでから、無言で立っていると、「まア、おあがんなさいな」と言う。

 見れば、もとは店さきでもあったらしい薄ぐらい八畳の間の右の片隅に僕の革鞄が置いてある。これに反対した方の壁ぎわは、少し低い板の間になっておやじの仕事場らしい。下駄の出来かけ、桐の用材などがうっちゃり放しになっている。八畳の奥は障子なしにすぐに居間であって、そこには、ちゃぶ台を据えて、そのそばに年の割合いにはあたまの禿げ過ぎた男と、でッぷり太った四十前後の女とが、酒をすませて、御飯を喰っている。禿げあたまは長火鉢の向うに坐って、旦那ぶっているのを見ると、例の野沢らしい。

 僕はその室にあがって、誰れにもとつかず一礼すると、女の方は丁寧に挨拶したが、男の方は気がついたのか、つかないのか、飯にかこつけて僕を見ないようにしている。吉弥はその男と火鉢をさし挟んで相対し、それも、何だか調子抜けのした様子。

「まア、御飯をお済ましなさい」こう、僕が所在なさに勧めると、
「もう、すんだの」と、吉弥はにッこりした。
「おッ母さんは?」
「赤坂へ行って、いないの」
「いつ帰りました?」
「きのう」
「僕の革鞄を持って来てくれたか、ね?」これはわざと聴いたのだ。
「あすこにある、わ」と、指さした。
「あれが入り用だから、取りに来ました」
「そう?」吉弥は無関係なように長い煙管をはたいた。

 こんな話をしているうちに、跡の二人は食事を済ませ、家根屋の持って来るような梯子を伝って、二階へあがった。相撲取りのように腹のつき出た婆アやが来て、
「菊ちゃん、もう済んだの?」と言って、お膳をかたづけた。
 いかにも、もう吉弥ではなく、本名は菊子であった。かの女は男の立った跡へ直り、煙管でおのれの跡をさし示し、
「こッちへおいで」という御命令だ。
 僕はおとなしくその通りに住まった。
 二階では、例の花を引いている様子だ。
「あれだろう?」僕がこう聴くと、
「そうよ」と、菊子が嬉しがった。

 馬鹿な奴だとは思ったが、僕はもう未練がないと言いたいくらいだから、物好き半分に根問いをして見た。二階にはおやじもいるし、他にまだ二人ばかりいる。跡からあがった(それも昼ごろから来ていたという)女は、浅草公園の待合○○の女将であった。
 菊子の口のはたの爛れはすッかり直ったようだが、その代りに眼病の方がひどくなっている。勤めをしている時は、気の張りがあったのでまだしも病毒を押さえていられたが、張りが抜けたと同時に、急にそれが出て来たのだろう。井筒屋のお貞が言った通り、はたして梅毒患者であったかと思うと、僕は身の毛が逆立ったのである。井上眼科病院で診察してもらったら、一、二箇月入院して見なければ、直るか直らないかを判定しにくいと言ったとか。

 かの女は黒い眼鏡を填めた。僕は女優問題については何も言わなかった。十二、三歳の女の子がそとから帰って来て、「姉さん、駄賃おくれ」と、火鉢のそばに足を投げ出した。顔の厭に平べッたい、前歯の二、三本欠けた、ちょっと見ても、愛相が尽きる子だ。菊子が青森の人に生んで、妹にしてあると言ったのは、すなわち、これらしい。話しばかりに聴いて想像していたのと違って、僕が最初からこの子を見ていたなら、ひょッとすると、この子を子役または花役者に仕上げてやりたいなどいう望みは起らなかったばかりか、吉弥に対してもまた全く女優問題は出なかったかも知れない。今一人、実の妹を見たかったのであるが、公園芸者になっているから、そこにはいなかった。

「先生がいらッしゃるじゃないか? ちゃんとお坐り」こう菊子が言ったので、子は渋々坐り直した。「けいちゃん、お前、役者になるかい?」「あたい、役者なんか厭だア」と、けいちゃんというのがからだを揺すった。僕は菊子がその子をも女優にならせるという約束をこの通り返り見ないでいても、それを責める勇気はなかった。

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