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平成19年6月12日(火)昨日:葬式代が無く、妻をマンション屋上に冷蔵庫遺棄。 大阪府守口市の屋上に放置された冷蔵庫から中川ミツ子さん(58)の遺体が見つかった事件で、司法解剖の結果、死因は衰弱死の可能性が高いことが分かった。府警捜査一課などは、死体遺棄容疑で逮捕した夫の和美容疑者(59)から、死亡の経緯などについて聴く。 和美容疑者は「妻は2、3年前から喘息で通院し、2月から病状が悪化して寝たきりになっていた」と供述。さらに「妻に病院に行くように勧めたが、断られた」と話しているという。夫婦の生活が苦しかったため、ミツ子さんが病院に行くのを遠慮した可能性があるとみている。 ※ だからと言って、もう少し分別があったろうに… 645年6月12日、蘇我入鹿が暗殺されました。(乙巳<いっし>の変) 乙巳の変は「大化改新」の幕開けとなった蘇我氏に対する政変を指します。この日、朝鮮三国(百済・新羅・高句麗)からの使者の謁見の儀式に呼ばれた蘇我入鹿は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌足)の策略により剣を取りあげられ、そして皇極天皇が大極殿(おおあんどの、宮の正殿)に出御され、次期天皇の最有力候補であった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が傍らに侍する中、入鹿の叔父の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が三国の上表文を読み上げた。 この間に、宮の門は中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の指示で閉じられ、皇子は長槍(ながきほこ)を手に殿の側に隠れ、鎌子は弓矢でこれを守り、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)の二人が入鹿を斬る役目であったが、おじけづいて中々斬り込めない。 上表文も末尾に近づき、石川麻呂は冷や汗を流し声も震えていた。そのため、入鹿が不審に感じたのを見て取った中大兄は子麻呂とともに躍り出て斬りつけた。入鹿は皇極天皇に救いを求めたが中大兄皇子が蘇我入鹿の謀反の罪状を奏上、それを聞いた帝は退出された。 その後、入鹿は子麻呂や網田らにより斬殺される。古人大兄は自邸に逃げ、中大兄は飛鳥寺に陣を構え、入鹿の遺体をその父の蝦夷(えみし)に送り届けた。蘇我氏側に立とうと漢(あや)氏たちが武装して集合したが中大兄の派遣した将軍巨勢徳陀(こせのとこだ)の説得で解散。翌日、蝦夷は自宅に火を放って自刃。繁栄を極めた蘇我氏の本流はここに滅びた。「大化の改新」が幕を開ける。(「日刊なら情報」より) 当時のわが国は、物部氏と蘇我氏の二大実力者によって治められており、天皇の権力は名目程度でした。その物部氏が587年に滅亡してからは、いよいよ蘇我氏が権勢を誇ることになります。592年には、崇峻天皇を暗殺してしまいます。後継の天皇には自身の身内を后に仕立てました。(後年、清盛がこれを真似た?) ◇ 桑田が夢のメジャー初登板 A・ロッドに被弾、2回2失点(6月11日) 前日パイレーツに昇格した桑田真澄投手(39)は当地でのヤンキース戦で五回から 大リーグ初登板し、ロドリゲスに本塁打されて2回2失点。 「約20年ですか、夢が実現できた。チャンスをいただけたのは本当にうれしかった。野球の神様に心の中で有難うございますって、感謝してます」、2点のリードを許した5回。左翼ブルペンから真新しいユニホームの背番号18が小走りでマウンドに上る。滑り出しは完璧だった。7番からの下位打線を直球と変化球で巧みにかわし、11球で3者凡退。6回は簡単に2死を取りながらアブレイユに四球。直後の初球、甘いスライダーをロドリゲスに本塁打される。「初球ボールから入るつもりが、ど真ん中に吸い込まれてしまった」。 松井秀には、「投げにくかった」と四球を与えたが、後続を断った。2回1安打2失点。最速は140キロ。悔しさは残るが「アウトは6個ともいい感じで投げられた」。3月下旬の春季キャンプで右足首を負傷。開幕1軍を逃した。それから約2カ月半、不屈の精神で昇格を目指し、この日を迎えた桑田。「目標を持って、それに向かって努力するのが僕のスタイル。引き続き次の目標に向かって努力していきたい」。 ◇ 西武10連敗、涌井でも止まらず(6月11日) <横浜5−2西武> 甲府(35年ぶりの甲府開催公式戦) 西武の連敗ストッパー、唯一の希望の光・涌井も逆転負け。 球団1年目の1979年に12連敗して以来の大型連敗がついに10にまで伸びた。 伊東監督は「言わないって、勝ったらコメントするから」とだけ言い残して 車に乗り込んだ。 ※ かつての常勝軍団の片鱗すら見えない西武ライオンズ。
球団は親会社の栄枯盛衰と運命を共にするものなのか。 |

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