今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 「ぼくたちのたんにんをやってください」体罰の教諭復職
   産経舞鶴支局 (2007/06/12)

 「日本の教育現場も捨てたもんじゃない」「教師の中の教師だ」。体罰をして辞表を出した京都府京丹後市の市立小学校の男性教諭(28)が、辞職撤回を求める保護者の署名で復職した。このニュースは教師の不祥事や犯罪の低年齢化など教育をめぐる問題が悪化する中、「希望をもたらす話」として大きな反響を呼んでいる。

 市教委などによると、教諭は子供のころ、外見を理由にした嫌がらせを受け、自殺まで考えたことがある体験から、常々いじめにつながる嫌がらせ行為には気を払っていた。今月4日、教諭は体罰をした直後、自分で校長に報告。校長室に向かう教諭に、ほとんどの児童が泣きながらついていき、校長室の周りに座り込んでいたという。

 保護者説明会で「信頼している先生に残ってほしい、という子供たちの願いを強く感じた。辞めさせてはならない」(クラス児童の父親)と保護者が結束し、署名運動を始める一方、校長あてに正直な思いを手紙につづった。

 「教諭の行動は怒りの感情にまかせた行動ではなく、冷静な対処。自分の職をかけてでも矯正しようとしてくれた先生に感動し、涙がこぼれた」「先生の行動と信念の強さを感じております。先生、もう一度、子供たちを信じてやってください。私もくやしいです」…。

 児童も心境は同じだった。「これからもぼくたちのたんにんをやってください」「先生がいないと学校にいきたくない」「ぼくのせいでこんなことになってごめんなさい」…。全員が色紙に書いた寄せ書きには、素朴だが力強い言葉が並んだ。

 謹慎後、教諭は反省文を提出した。「『みんなを殴って先生は辞める』と言ったのは言葉の暴力だった」「子供と話し込んだり先輩の先生と相談するべきだった」などと振り返り、「いかなる処分も受けて、子供たちを立派に成長させ、卒業させる」と決意。最後は「こんな素晴らしい教育環境の中で教師生活をさせていただくことに自信と誇りをもって頑張っていきます」と締めくくられていた。

 引野恒司・同市教育長(74)は「人前で教育について語る機会ごとに、この話を通じて、こんなに立派な若者がいるということを伝えていきたい」と話している。

 「体罰」は事前に警告

 市教委などによると、男性教諭による体罰が起こったのは今月4日。教諭のクラスでは1人の男児の外見を一部児童がからかい、他の児童も黙認する状態だったため、教諭は「次にからかったらみんなをたたいて教師を辞める」と注意していたが、4日に再びからかいがあったため、「ここで放置すると、いじめに発展しかねない」と判断。男性教諭はからかわれた男児を除く全員のほおを平手打ちした。

 報告を受けた校長は同日夜、保護者らを集め、教諭とともに謝罪。3日間の自宅謹慎を命じられた教諭は辞表を出した。ところが、寛大な処分を求める署名運動が保護者の間で始まり、全校の児童191人の保護者ほぼ全員分の署名が学校に提出された。その後、教諭が二度と体罰をしない意思を示したため、校長は辞表を返却した。教諭は採用4年目で、同小には今年度に着任していた。(2007/06/12)

 平成の御世にも遺る美談かな 言うことなかれ人情紙風船


 ◇ 金子先生のこと

 中学2年の時、クラスの男子が悪質な悪戯をした。金子先生は皆の前で、やったのは誰だと詰問した。我々男子は、誰がやったかは見当がついていたが、私を含めて誰も告げ口なんて出来なかった。結局、男子生徒全員が廊下に並ばされた。これから男子全員が先生に叩かれるのだ。私は大いに不満だった。日頃、品行方正の私が他人の罪で叩かれるなんて、ましてや私がひそかに尊敬していた頭脳明晰な小林君まで叩かれるなんて、絶対に間違っていると思った。

 順番が回ってきて、先生が私の前に立った。イヤだと強く思った。でも、先生の顔を見ると、金子先生は泣いていた。大粒の涙を流しながら、「脚を開け、歯を食いしばれ」と叫んだ。しっかりと口を結んだけど、口の中が切れた。先生は泣きながら、隣の生徒の前に立った。私は痛みと共に妙な感動を味わっていた。

 その後、金子先生は、やった者は気づかれないように職員室に来い。正直に申し出れば、名前は伏せる、と言って立ち去った。私たち男子生徒は、暫くそこを動けなかった。女子生徒の多くが声を出して泣いていた。 かつて、そんな事があったのだ。教師が本気で生徒にぶつかり、決して逃げなかった。保護者もそんな金子先生に絶大な信頼を寄せていた。

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 ◇ 解剖用の蛙のこと

 金子先生は理科の先生だったけど、何でも良く知っていて、生徒の質問には何でも即答してくれた。特に女子の人気が高かった。授業で、蛙の解剖をする時のこと。蛙の調達に、我々男子にお呼びが掛かった。日曜日、遠足気分で先生の自宅に遊びに行き、近くの小川でガマ蛙を捕獲した。大きなガマはかなりグロテスクだった。私たちはたくさん獲りすぎたガマ蛙の置き場所に困ってしまい、先生宅の浴槽に一時的に入れた。先生のお風呂は五右衛門風呂で、いくら跳ねても逃げられなかったけど、それを見た金子先生は、泣きそうな顔で、「うぇー、今晩オレはこの風呂に入るんだぞー」と、ぼやいていました。

 我が心とらえて離さぬ 微熱なり

 節々が痛むとは言はず 気だるさよ

 上半身 庭木の虫に苛まれ

 来し方を思へばそぞろ 行く末よ

 これがまあ身の捨てどころ 腹を据え

 ひと息に吹き消す如く エンディング

 平成19年6月13日(水)昨日:年金支給ミスの半数未公表、全国の社保事務所。

 社会保険庁の事務処理ミスによる年金の未払いや過払いが、2005年4月から2006年12月までに、全国の社会保険事務所で計320件発生したにもかかわらず、約半数の168件しか公表されていなかったことが、12日の参院厚生労働委員会で明らかになった。

 民主党の島田智哉子氏の資料請求に応じ、社保庁が公表した。社保庁は2005年12月、事務処理ミスが起きた場合は、当事者である受給者らに断った上で公表するよう各社会保険事務所に通知した。2006年5月には公表の徹底を重ねて通知したが、大半のケースで通知が守られていなかったことになる。



 1948年6月13日、太宰治が愛人・山崎富栄と玉川上水で入水(じゅすい)自殺。

 19日に遺体が発見され、その日を命日とすることになり、桜桃忌と呼ぶ。
2005年5月、太宰直筆の葉書が発見されました。叔母きゑの家族に送ったもの。

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 ○ 太宰 治(1909〜1948、本名:津島修治)

 太宰は津軽金木町の大地主津島家に生まれた。津島家は明治維新後に農地と金貸業を基盤として急激に成長した商人地主で、町のど真ん中に広大な邸宅を構えた。小作争議に備えて高さ4メートル余の煉瓦塀で囲んだとされ、小作人は300人にも及んだ。地元では津島家の人は特権階級であり、津島家の子弟は小学校でも特別待遇を受けていたという。

 彼は大地主の子である事に罪悪感をいだいており、次第に左翼思想に関心をよせて行きました。弘前高校に入学するが、心酔していた芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受け学業を放棄し、義太夫を習い花柳界に出入りするうち、芸妓の小山初代と知り合うようになる。3年生の冬、自己の出身階級に悩んでか、自殺を図りますが未遂。

 その後、東京大学仏文科に入学し、初代との結婚話がまとまった直後に、別の女性と心中を計ったが、女性は死に、太宰だけが生き残る。自殺幇助罪に問われましたが起訴猶予となる。また大学卒業が絶望的であると分かり、都新聞社の入社試験を受けるが不合格となり、鎌倉の山中で首吊り自殺を企てましたが、これまた失敗。(自殺未遂とは、未遂の完遂とも言われる。)

 さらに、その自殺未遂の翌月、急性盲腸炎などのため、3か月ほど入院している間に、鎮痛のために使った麻薬(パビナール)の中毒となってしまいましたが、この時期、絶望と苦悩を描く「ダス・ゲマイネ」などを執筆しています。次第にすべてが行き詰まり、妻・初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図りますが、やはり失敗。その後、初代とは離婚する。

 1938年秋、御坂峠に登った頃から、生活も文学も一変、ようやく沈滞から脱し「姥捨」を書き始める。師と仰ぐ井伏鱒二の紹介で都留高等女学校の教師・石原美知子と再婚し、ようやく安定した生活を送るようになり、素朴で純粋な作風の「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」「新ハムレット」、自身のルーツを見つめた名作「津軽」などを執筆。

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 戦後はジャーナリズムの軽佻浮薄な民主主義的傾向に失望し、作風はまたまた一転。坂口安吾・石川淳らと共に新戯作派(無頼派)と呼ばれ、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」など自虐的な作品を執筆した。

 太宰のトラブルに満ちた私生活は破滅型作家の典型とも思われるが、境界性人格障害が疑われるとも。感情面の極端な不安定さが特徴で、人間関係に絶えずトラブルがあり、リストカットなど自傷行為や自殺をほのめかしたり、企てることがしばしばみられる。

 津軽地方の大地主の家に生まれた彼は左翼思想に接した後、自分の出身階級に悩み、肉親に反発するが、同時にしきりに頼ったりする。見捨てられる事への強烈な不安感から、依存と反発との狭間を激しく往来する悲惨な生涯だったようだ。師と仰ぐ井伏鱒二とも、尊敬はしているが、バビナールという鎮痛剤の中毒になった時、精神病院に強制的に入院させられたことを恨み、人を善か悪かの両極端で見てしまう。

 昭和22年(1947年)2月、太宰38歳の時、神奈川県下曽我に太田静子を訪ね、一週間滞在の後、3月上旬までかかって、太田静子の日記をもとに『斜陽』の一、二章を書く。3月、次女里子(作家・津島佑子)誕生。

 三鷹駅前の屋台で、戦争未亡人の山崎富栄(28歳)と知り合う。4月、新たに借りた三鷹の仕事部屋で『斜陽』を書きつづけ、6月に完成。11月、太田静子との間に誕生した女児を認知し、治子(作家・太田治子)と命名。単行本の『斜陽』(新潮社)がベストセラーとなる。

 ※ 治子を認知した太宰だったが、その応対は極めて冷徹なものだったと言う。太宰曰く、「20年、頑張ってみなさい。20年、頑張れば世間も私生児を認めてくれるでしょう」と。 ※

 1948年6月13日夜半、連載中の「グッド・バイ」の草稿、遺書、伊馬春部に遺した歌などを残し、山崎富栄と共に玉川上水に入水した。命日の桜桃忌は、奇しくも彼の誕生日でもあった。

 ※ 太宰のお墓は、三鷹の禅林寺にあります。もともと禅林寺は森鴎外(森林太郎)の墓がある事で有名。鴎外を尊敬していた太宰は「この寺には、森鴎外の墓がある。墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨もこんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら死後の救いがあるかもしれない」と述べています。太宰治のお墓は、森鴎外のお墓の斜め前にあります。

 太田治子氏と津島家とは、全くの没交渉であるとか。太田さんが娘時代に、父の故郷を訪ねた時、予想外にも津島家当主から本家に立ち寄るように、声を掛けられたと言う。その折、当主は、太田さんの顔をまじまじと睨みつけ、「この顔は津島家のもんだ」とつぶやいたとか。

 太宰の暗く沈んだ顔、自らを恥じるような懼れを抱えた顔、時に人を見下す顔。そして必要以上に卑屈な顔。これほど正直な人は居ないかも知れない。世間知を纏わぬ者の憐れさを その身その作で示せる修治。

    他郷にてのびし髭剃る桜桃忌   寺山修司(青森出身)

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 【参照】6月19日、桜桃忌
 この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/8609771.html

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