今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 <SB3−4中日>(2日)ヤフードーム  18:00 開始

 勝利投手:川上憲伸(4勝2敗)
 敗戦投手:ガトームソン(2勝5敗)
 セーブ:岩瀬仁紀(0勝2敗14S)

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 外国人投手の特長か、ひとり相撲で自滅ってカンジ。
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 監督業は、胃の痛む毎日。王監督、お体お大切に…
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 先発・川上は7回3失点で、勝利投手の権利をキープして降板。
 2番手・岡本は、2死満塁のピンチを招くがアダムを三振に仕留める。

 岩瀬は好調・多村との勝負を避けて、2死1、2塁で松中勝負。
 計算通りフライに打ちとってゲームセット。ソフトバンク3連敗。


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 好調楽天、5割復帰! (つくづく、普通のチームに成長しました。)

 <楽天3−1広島>(2日)フルスタ宮城  14:00 開始

 勝利投手:小倉恒 (2勝0敗)
 敗戦投手:横山竜士(1勝2敗)
 セーブ:福盛和男(3勝0敗13S)

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        中々、思うようにはいかないけれど…
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 ファンの皆さんに、感謝の気持ちをこめて、整列して一礼。
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 平成19年6月2日(土)昨日:与党、公務員法案成立を断念。安倍首相、孤立化?

 与党は1日、国家公務員の「天下り」規制を柱と(実は、正々堂々の天下り公認化)する政府の公務員制度改革関連法案の今国会での成立を断念。首相官邸が強く働きかけてきたが、「宙に浮いた(前・消えた)年金記録」問題や松岡利勝前農水相の自殺などで苦境に立ち、成立を事実上、断念したもの。国会最終盤で安倍首相の求心力の低下は、参院選に大きく影を落とす。許すまじ、日替わり強行採決は。

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 ◇ 鑑真和上坐像・御影堂障壁画 特別公開
日時:6月2日(土)〜6月10日(日)9:00〜16:00

 高僧・鑑真和上を偲ぶ9日間として、御影堂が特別に開扉され、和上像のお姿を拝観することができます。開山忌の法要も行われます。また東山魁夷画伯の描いた襖絵全面が特別公開されます。

場 所:唐招提寺  http://www.toshodaiji.jp/
費 用:入山料 600円、400円、200円
御影堂の特別拝観料 大人500円、中高生300円、小学生200円
交 通:近鉄西ノ京駅の北東徒歩8分
問合せ:TEL 0742-33-7900


 ◇ 御影堂と仏像修理所 特別公開

 今年も、仏像修理所を合わせて特別公開できることになりました。奈良国立博物館に委託していた国宝薬師如来立像の修理が順調に進み、平成12年(2000年)春以来7年ぶりに三尊が揃っての拝観となります。特に、千手観音と薬師如来が並び立つ様子は、金堂内での配置と異質なもので、制作年代の流れを感じさせます。(HPより)

☆御影堂・仏像修理所一般公開
日  時:6月2日(土)〜10日(日) 各日9時〜16時

☆鑑真大和上厨子開扉法要
日  時:6月2日(土)午前9時から (約15分)
場  所:御影堂・宸殿の間
内  容:開扉の儀・読経・献茶

☆藪内流家元による献香・献茶
日  時:6月5日(火)午前9時から (約30分)
場  所:御影堂・宸殿の間

☆御宿忌法要
日  時:6月5日(火)午後4時から (約30分)
場  所:講堂内

☆舎利会開山忌法要
日  時:6月6日(水)午後1時から (約60分)
場  所:講堂内


 鑑真忌 波のひとつが 巌を越え      黛まどか(俳人)
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 6月2日、【裏切りの日】

 1582(天正10)年、京都本能寺で、織田信長が明智光秀の襲撃を受け、自害。中国(地方)の毛利攻めの羽柴秀吉へ応援を命じられた光秀は進軍の途中で翻意、「敵は本能寺にあり!」と号令、信長を襲った。襲撃を知った信長は近習の森蘭丸に敵は誰かと尋ねる。光秀と聞くと、あの者が事を起こしたのであれば、万が一にもぬかりはあるまい、と絶句。「大恩ある大殿に何ゆえの謀反ぞ!」と叫ぶ家臣らに静かに、「是非に及ばず」と応えて自害したと『信長公記』は伝えます。

 明智の「水色桔梗」の旗印は、夜目にも鮮やかに映ったと申します。(ワンポイント)1582年、本能寺の変=「十五夜に討たれる信長、本能寺」と覚えましょう。

 本能寺の変:天正10年 (1582年)。この時、信長は49才、光秀は55才、秀吉は47才、そして家康41才で御座います。


 ◇  「本能寺の変」に到るまで

1月6日 光秀、安土にて信長へ年頭の礼を行う。
1月7・25・28日 光秀、茶会を催す。
2月9日 光秀、信長より甲州出陣を命じられる。
3月5日 信長、安土より甲斐武田討伐のため京を発す。光秀、従軍す。
3月11日 武田勝頼父子ら自刃して、武田家滅ぶ。
3月19日 光秀、上諏訪法花寺にて陣取りを命じられる。
4月3日 信長、六角次郎を匿ったとし恵林寺を焼き国師快川和尚を焚殺。
(安禅不必須山水 滅却心頭火自凉)

5月4日 正親町天皇、信長に将軍任官・幕府開設を勧めるが信長応えず。
5月7日 秀吉、毛利方の清水宗治を高松城に囲む。
5月7日 信長、神戸信孝に四国出陣を命じる。
5月15日 家康一行が、信長への挨拶のため安土に到着。

 信長の指示で、家康一行の宿舎は大宝坊とし、接待は惟任日向守(これとう・ひゅうがのかみ=光秀)に任せた。光秀は京都、堺から珍しい物を取り寄せるなどして、15日から17日までの3日間、非常に念の入った接待であった。(主要な家臣が各地に敵を抱えて不在であった為、休暇中の光秀が饗応役を命じられたもの。一説には、家康自身が光秀を所望したとも。)

 秀吉は毛利方の備中高松城を囲み、足守川を堰止めて水攻めにする。そこへ毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の軍勢が高松城援護に駆けつけるという情報がもたらされた。信長は、「毛利方は間近にまで陣を進めるということである。これは天の計らいであるから、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる又とない機会となるであろう」と述べ、堀久太郎を御使として羽柴筑前方へその旨を伝ると共に、先陣として惟任日向守、長岡与一郎、池田勝三郎、高山右近らに出勢するように指示、すぐさま御暇を下す。(現在、担当する任を解く)


5月17日 光秀は安土より坂本に帰城し出陣の支度をする。(光秀の家康饗応が何日までの予定であったのかが不明で、そのため、「役を終えてから帰城した」、「途中で役を免じられた」、と言う二つの解釈がある。後者では、それが光秀の面目を潰す結果となり決起の原因となったという説もある。)

5月18日 光秀、信長から家康供応の落ち度を叱責され森蘭丸ら小姓に打擲される。

5月19日 信長は、家康一行の道中慰労のため、安土山惣見寺において幸若八郎九郎大夫の舞や丹波猿楽・梅若大夫の能を舞わせる。光秀、家康供応役を罷免される。『明智軍記』

5月20日 惟住五郎左衛門ほか3名に家康接待を命じる。高雲寺御殿で、家康・穴山梅雪ら、その外家老の衆にも食事を出し、忝けないことに信長自らも膳を共にして敬意を表した。食事が済むと家康と供の人達を残らず安土城に案内して帷を贈るなど大変心の籠った接待であった『信長公記』

5月21日 家康一行、上洛。信忠は上洛し妙覚寺を宿所とした。

5月26日 惟任日向守は中国出陣のため坂本城を発ち丹波亀山城に入城。
(17日に坂本に入ってからの10日間は消息不明)

5月27日 光秀、愛宕山に参詣し籤を引く。『信長公記』
(一度ひいて凶、二度目も凶、三度目に吉を引いたと伝える)

5月28日 光秀は西坊で里村紹巴・西坊行祐らと連歌を興行した。
     発句(発端となる最初の句)は惟任日向守。

 ときは今天(あめ)が下しる五月哉 光秀
 水上まさる庭の夏山 西坊
 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴 『愛宕百韻』
 百韻を神前に納め、光秀は亀山城に帰城。『信長公記』

6月1日 この日、40人ほどの公家・僧侶が揃って本能寺を訪れている。そこで信長秘蔵の茶器が披露されたという。名物茶器を京都まで運んだのは家康をはじめ諸大名や公卿に対し大茶会を催し、その場で名物茶器を披露せんとしたと思われる。

 夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、重臣らと談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調議を究め、亀山から中国へは三草山越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。『信長公記』

6月2日 本能寺の変。

 老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、攝津国の街道なり。左へ下れば、京へ出ずる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。『信長公記』

 信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち入れ候。是は謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚(おおせ)のところ森蘭申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと上意候。『信長公記』

 朝、家康一行は信長に合うため堺を出たが「変」を知らせるため堺に向かった京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、一旦帰国することを決意。午後四時、瀬田城主山岡景隆は、光秀の安土進軍を阻止しようとして、瀬田の大橋を焼き払う。夕、光秀は坂本城に入る。『明智光秀(高柳)』

6月3日 光秀は近江・美濃の諸将に降誘を勧める『明智光秀(高柳)』。細川父子は丹後に戻り、忠興の妻であり、光秀の娘であった玉を、丹波三戸野の茶屋に移す。(既にこの時、細川父子は秀吉に対して、光秀の求めには応じないことを伝えていた)安土城の守将蒲生賢秀は、変報を聞き、信長の側室らを日野に移す。

 信楽で一宿した家康一行は、伊賀越えで伊勢に向かった。同行の穴山梅雪は、家康一行に遅れて出発。途中、伊賀の一揆に殺される。柴田勝家、上杉方の魚津城を落とす。

 夜、光秀が小早川隆景に宛てた密書が奪われ、秀吉は本能寺で信長が倒れたことを知る。深夜、秀吉、安国寺恵瓊(えけい)を呼び高松城主清水宗治の切腹と毛利領備中・美作・伯耆の譲渡を和睦の条件に提示し、信長の死を秘しながら、和睦を急ぐよう指示する。

6月4日 光秀、近江・美濃の大半を平定。『兼見卿記』
大和筒井順慶、光秀の援軍を山城に派遣。『多聞院日記』

 高松城主清水宗治が切腹、秀吉と毛利の和睦が成る『明智光秀(高柳)』。柴田勝家、「変」を知る。家康、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し岡崎城に入る『明智光秀(高柳)』。

 上杉景勝、「変」の報を聞き、退却する柴田・佐々・森らの手から川中島や魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める。筒井順慶、光秀に援軍を送る。

6月5日 光秀、安土城を占領し、財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る『兼見卿記』。光秀の軍に筒井順慶の援軍が合流『多聞院日記』。織田信澄は織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻められ自害する。午後2時、秀吉は暴風雨の中、東上を開始。(世に言う、「中国大返し」)

6月6日 光秀、安土城に入り、上杉景勝に使者を送って後援を依頼。

6月8日 秀吉、未明に姫路城に到着。

6月8日 光秀、上京、銀子を禁中・諸寺に献ず。次いで鳥羽に出陣。光秀、細川藤孝・忠興父子に書を与えて参加を望むが、父子応ぜず。

6月9日 光秀、配備の手配後、夕方、下鳥羽に出陣。光秀、丹後国宮津城にいた細川藤孝・忠興父子に手紙を送り、改めて助勢を依頼する。『細川文書』「御父子もとゆい御払候よし、尤も余儀
なく候。一旦我らも腹立ち候へども、思案候ほど、かようにあるべきと存じ候。然りといへども、此の上は大身を出だされ候て、御入魂希ふ処に候事、云々」。筒井順慶は秀吉上洛の情報を得て、河内出陣を中止し居城大和郡山城に米・塩を入れ、籠城の準備を始める。

6月10日 光秀、河内に出兵。『兼見卿記』光秀、藤田伝五を筒井順慶の許に派遣。洞が峠に陣し順慶の参会を待つが順慶は、同心できない旨を伝え、引き上げる。『多聞院日記』

 筒井順慶は、秀吉に応じることを使者を以って伝える。秀吉、摂津尼ケ崎に到着。大坂にあった織田信孝・丹羽長秀や、光秀の寄騎、伊丹城主池田恒興・茨木城主中川清秀・高槻城主高山右近らに参陣を求む。岡崎の家康は、大雨のため出陣を延期する。

6月12日 秀吉は池田恒興らと協議し、高山重友・中川清秀を先鋒とし使者を大阪城に遣わして織田信孝・丹羽長秀の参陣を求む。秀吉、摂津富田に着陣。秀吉、摂津に攻め上り山崎付近に兵を出し、勝竜寺付近を焼き払う。『多聞院日記』

 光秀は、秀吉の東上を知り、急ぎ山崎に集結し、天王山を占領せんとするが、既に、秀吉方の先鋒中川隊によって占拠されていた。止むなく勝竜寺城に入り、守備を固める。光秀、八幡・山崎より淀に引き退く。『多聞院日記』


 ◇ 6月13日 山崎の戦い。(世に言う、天下分け目の天王山)

 光秀軍は勝竜寺城を出、桂川支流の円明寺川に沿って布陣する。総勢1万6千。

 秀吉軍に、昼頃、織田信孝らが合流。山手(天王山側)を羽柴秀長・黒田孝高らの主力部隊、街道筋を高山重友・中川清秀・堀秀政ら、河手(桂川沿い)を池田恒興ら、予備(中央後詰め)は秀吉・信孝を配す。総勢3万5千から4万。

 申の刻(4:00pm)頃、光秀軍山手先鋒の並河・松田隊が天王山麓の先鋒中川隊を攻撃、戦端は開かれた。光秀軍予備の伊勢貞興・藤田伝五隊が右翼から津田・村上隊が左翼から秀吉軍中央に向かい、一進一退の激しい攻防戦となった。

 羽柴軍の後続部隊が戦闘に加入し、次第に戦力差が生じた光秀軍は壊滅状態となり、午後7時頃、光秀は退却を決意。光秀は勝龍寺城に兵7百余を引き連れ退いた『兼見卿記』。秀吉軍は敗走する明智勢を追撃・掃蕩し、大軍を以って勝龍寺城を包囲。光秀は、再起を図るべく少数の近臣と共に勝龍寺城を抜け出し、坂本城に戻る途中、山科小栗栖(醍醐)で土民に襲われ自害。『兼見卿記』

6月16日 丹羽長秀が佐和山城を陥れる。光秀の屍、本能寺に晒される。

6月27日 柴田勝家・秀吉ら織田の宿老が尾張清洲城に会し、後継者を秀吉の推す三法師(秀信・幼児)と定め、秀吉が三法師の後見人となる。

 ※ 本能寺の変で、一番得をしたのは、羽柴秀吉。あまりに鮮やかな中国大返し、目の上のたんこぶ・柴田勝家を手際よく封じ込む権謀術数。案外、この人が光秀を操ったんじゃあないかって、誰しも勘ぐるところ。

 【裏切り】剪定用語。枝打ちの際に皮一枚が裂けて、切り口が見苦しくなるのを避けるため、先ず枝打ちする箇所の裏側に軽く切り込みを入れるもの。皮一枚も残すことなく、完全に命運を絶たれるところから、一般的な意味合いの“裏切り”の用法が生まれた。

 【参照】6月27日、清洲会議
  http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/9606861.html

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