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平成19年6月25日(月)参院選:「総裁は最高責任者として一番大きな責任を負う」。 与党が過半数割れした場合の対応については、「すべての選挙区で勝ち抜く思いで、政策を堂々と訴える正攻法で臨みたい」と述べ、言及を避けた。 憲法改正について、「3年後に改憲手続き開始を目指す、と国民に宣言する必要がある」と述べ、参院選の争点とする考えを重ねて強調。そのうえで、「憲法改正は極めてハードルが高い。私たちの案だけが通るとは考えない方がいい」とも語り、自民党がすでに発表した新憲法草案のみにこだわらず、野党とも協議していく考えを示した。 年金記録漏れ問題については、「政治的には私が一番大きな責任を負う」と改めて陳謝。その上で、「介護、医療なども一つの番号にする方が便利ではないか。社会保障番号を大いに検討していく」と述べ、一元管理のための社会保障番号導入に改めて意欲を示した。 ※ 当初、安倍首相は年金記録問題について、菅直人に責任があると主張して、さすがに党内からも批判を受けたものだった。政治家は、最初の発言で判断すべきで、その後の修正発言などは殆ど意味を持たないものだ。支持率低下が全てを表す。このような人に、改憲を委ねたくはないものだ。 言い初めし 言の葉わすれ 口拭う。 1934年6月25日、築地本願寺が竣工しました。(東京都中央区築地3-15-1) 築地本願寺、正式名称は、浄土真宗本願寺派本願寺築地別院と申します。発祥は、元和3年(1617)。西本願寺の別院として、第12代宗主・准如上人によって建立されました。本堂は関東大震災で崩壊しますが、帝国大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で、昭和6年(1931)に起工、3年後の昭和9年(1934)に落成され現在に至っています。 ※ 子どもの頃、都電から眺めていて、けったいな建物だと思っていた。 ◇ 伊東忠太氏と大谷光瑞師 (1876〜1948) 伊東博士は美校講師として「法隆寺建築論」を発表し、法隆寺の起源について、初めて建築史の面から寺院研究に取り組みました。博士の興味は建立年代の特定というよりは、法隆寺の「建築物」としての歴史的解明にあり、そのため、資料からその源流を朝鮮半島から中国、インドへと求め、そして法隆寺の柱の膨らみがギリシャのパルテノン神殿の柱のエンタシスの影響であると考えました。 博士は自らの学説の実証と寺院建築の源流を求めて、1902(明治35)年2月、中国からインド、ペルシャ、トルコそしてギリシャへの調査旅行を決意します。そして同年4月、中国・大同近郊での遺跡の調査中に偶然、雲崗の大石窟寺院を発見。ここでは法隆寺に至る仏教芸術の系譜も見いだすことができました。 この調査旅行でビルマからインドへの途上、光瑞師が組織した大谷探検隊の一員と出会う。大谷探検隊は「仏教の源流を探る」「仏教思想の原典を求める」目的で光瑞師が実行されたものでしたが、伊東博士の考える法隆寺などの「寺院建築の源流を探る」旅はここで出会い、その共通意識として、後の「アジア主義」「インド様式」の作品に至ることになります。 大谷光瑞師は26歳で第22代本願寺門主を継承し、1914(大正3)年に37歳で門主を辞任します。一説には、数度の大谷探検隊で本願寺の財政が逼迫した為の失脚とも。しかし光瑞師の理念は、関東大震災で焼失していた築地本願寺本堂の再建において生かされました。築地別院は光瑞師と伊東博士の「アジア主義に基づくインド様式」の到達点だったのです。 ◇ 大谷探検隊(仏教のルーツを訪ねて) 浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞(こうずい)が中央アジアへ派遣した探検隊。 第1回(1902〜04)はロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。光瑞はカシュガル滞在後、インドにむかったが渡辺・堀は分かれてホータン・クチャなどを調査した。 第2回(1908〜09)は,橘瑞超・野村栄三郎が派遣され、トゥルファン・楼蘭・ニヤなどの遺跡を調査。 第3回(1910〜14)は橘・吉川小一郎がトゥルファン・楼蘭などの再調査をはじめジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。この探検により貴重な古文化財がもたらされたが、その報告書として『西域考古図譜』2帙(1915)『新西域記』2巻(1937)が刊行され、研究報告『西域文化研究』全6巻がある。現在では、将来された文書の資料集である『大谷文書集成』(1984)も公刊されている。 ※ 2005年7月に、兄と久し振りに築地本願寺を拝観した。
夕暮れの本願寺は人通りもなく、妙にやさしく迎えてくれました。 |

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