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平成19年6月3日(日)昨日:イチロー、球団新の25戦連続安打。5打数2安打1打点。
1180年6月3日、福原遷都。平清盛が都を京から福原(神戸市兵庫区)に移す。
福原遷都と申しますが、わずか170日あまりの儚い夢に終わりました。
清盛は福原の港を基点に、諸国との交易を盛んにし、豊かで平安な国造りを
構想したのですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵と同じく、老いの妄想であったかも。
天皇・上皇以下、大挙して福原へ大移動するのですから、その負担は栄華を誇る平家といえども、重くのしかかったことでしょう。福原での都造りが始まる頃、反平氏勢力の挙兵がはじまり、遷都反対も根強く、ついに清盛も福原を断念して、11月に京に還都します。結局、福原遷都は徒に京の都を荒廃させ、平家の財力を疲弊させただけでした。
「旧都はあはれめでたかりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍を並べ給ひ、百姓万民わづらひなく、五畿七道もたよりあり…」。然るに今は何事ぞ、辻という辻はみな掘り返されて車も通れぬ有様で、たまに行く人も小車に乗って遠回りしなければならなかった。家々は日に日に荒れていき、人々は賀茂川、桂川に筏を浮かべて資財雑具を積み、福原へと運び出していった。
この1180年(治承四年)の8月17日に源頼朝が伊豆で挙兵するも敗退。9月7日には、木曾義仲が信濃で挙兵。10月6日には頼朝が鎌倉に入る。10月20日、富士川の合戦で、平維盛の軍が頼朝に敗北、平家衰亡の端緒となる。
12月28日、清盛は反平氏勢力掃討のため、奈良に火を放つが、予想外に火勢が激しく、ついに東大寺も類焼するに及び、大仏尊像を焼亡する。その祟りと言うべきか、翌年の閏2月4日に平清盛、高熱を発し卒然として死去、享年64。遺骨は遺言により福原の地に埋葬された。
昔の映画では、清盛像は栄華に驕るイヤな人物として描かれることが多かった。
でも実際の清盛は、決して悪人などではなく、中々の美意識を持つ教養人でした。
平家納経として名高い宝物など、数多く遺されております。
能福寺(天台宗、平清盛廟所・兵庫大佛)
所在地:兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1−39
平清盛所縁の寺として知られ、治承4年(1180年)に福原京遷都にともなって、平家一門の祈願寺に定められ、小川忠快法印(清盛の甥)により、七堂伽藍が建設され福原京五山の第一になり、通称福原寺と称し大いに栄えた。その後、暦応4年(1341年)に震災により全焼し、慶長4年(1599年)に明智光秀の臣、長盛法印が再興したという伝がある。
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