|
○ きまぐれに、佃界隈ひと歩き 佃島は、もとは東京湾にあった干潟。江戸初期に、幕府が大坂摂津の佃村から漁民を誘致し、その漁民が拝領した干潟を埋め立てて島を作り居住したのがその始まり。辺りには石川島人足寄場などもあって、頻繁に拡張されていったとか。 明治になって、まず南西方向に埋立地が伸び、月島が誕生する。月島川を挟んで勝鬨、新月島川を挟んで勝鬨・豊海と、全長約3キロの島となる。続いて朝潮運河を挟んで晴海が出来あがります。 佃島そのものは江戸時代からあった場所であり、当時はかなり辺鄙な場所だったようす。対岸に明治時代からの欧米人居留地・明石町があり、第二次大戦の空襲も避けて通ったため、戦災も受けていない。(地元では、氏神・住吉神社さまのご利益と専らの評判です。)その佃が、いつの間にやら一等地になって、リバーシティなんどと称して、高層マンションなどが滅多矢鱈と出来たりして、だいぶ雰囲気は変わってしまった。古くからの住人にとっては、迷惑至極な昨今ではあります。 ◇ 老祖母が散歩がてらに地蔵尊 佃天台地蔵尊(中央区佃1ー9ー6) 江戸時代の中期、正徳5年(1715年)〜元文3年(1738年)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩を厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院に賜り、地蔵尊造立を促されたと伝えられています。 享保8年(1723年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立を熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像を描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。 妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850年)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ、一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。 佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手には錫杖を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることも大変珍しいといわれています。 この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったから、いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃かは定かではないですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。 佃天台子育地蔵尊は、頑是ない子供衆の様々なことを、御守護下さる本願がおありになりますと同時に、長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと、多くの人々に信仰され今日に至っております。 ◇ 地蔵堂、突き抜けて立つ大銀杏 家と家とのわずかな隙間に、ひっそりと佃天台地蔵尊への入り口があります。参道などとはとても言えないような、人ひとりがようよう通れるほどの路地であります。路地を行くと地蔵尊よりも、銀杏の大木に目を奪われます。このように狭いところに何故かほどの大木が…と、誰しも不思議に思う大銀杏。(力士の髷とは、ちゃいますよ。)屋根をつきぬけて、梢も定かならぬありさま。なにやら異次元空間にタイムスリップしたかのような妙な心持ちがする。 傍らに、「イチョウの木 保護の為、水をかけない様にお願い致します」と札がある。お地蔵様をお祀りしてある場所も狭いが、実に手入れが行き届いており、自ずと近隣の信仰深さを物語る。御本尊は奥に鎮座する黒く先の尖った形の石に線刻されて御座います。 ◇ 漁師まち、波除稲荷の加護を受け 地蔵尊の向かいに、お稲荷さんが見える。元は漁師まちであった佃を何よりも雄弁に語る、波除稲荷神社で御座います。玉垣の刻銘を見れば、魚河岸や佃住民からの寄進であることがわかる。 ◇ 江戸情緒、佃小橋に留めおく 路地を抜けてゆくと赤い欄干の小さな橋が見える、佃小橋である。その下の堀が佃堀。佃小橋に立つと、「大幟の柱・抱木(だき)が埋設」という看板が目にはいる。佃祭りの時の大幟の柱が、佃小橋の下に埋められて保管されている。流石に漁師の知恵が生きている。腐食の憂いが無い。佃堀には佃折本といった船宿もあるが、ぐるりと周囲を眺めれば、高層ビルが林立する。無粋の極みと言うべきか。 佃堀(佃川支流)は、江戸時代の埋め立てで残された東西の佃島間と、人足寄場として利用された石川島との間に残された運河の名残り。佃川は1893年に、月島を埋め立て造成したときに形成されました。幅50m程の運河でしたが、佃大橋を架ける際に埋め立てられ、現在は道路になっています。 ◇ 住吉の神威に抱かれ佃島 住吉神社(中央区佃1ー1ー14) 『西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神』と、ト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸(おと)の阿波伎原(あわぎがはら)に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。 天正18年(1590年)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫33人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下る。安藤対馬守、石川大隅守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟(三角州)百間四方を賜り、築島工事を起こし、正保2年に竣工し、本国の村名を取って佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保3年(1646)6月29日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。 【御祭神】 底筒之男命(そこつつのおのみこと) (住吉三神) 中筒之男命(なかつつのおのみこと) (住吉三神) 表筒之男命(うわつつのおのみこと) (住吉三神) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) (神功皇后) 東照御親命(あずまてるみおやのみこと) (徳川家康公) 【例祭】8月6日 ◇ 名筆と誉れも高き有栖川 住吉神社の陶製扁額(中央区民文化財) 正面鳥居の上にある扁額は珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治15年(1882年)6月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁(たかひと)親王です。陶製扁額は、中央区民文化財に登録されています。 ◇ 住吉の境内にある歌碑のこと 水谷緑亭 水谷緑亭(1787〜1858)の歌碑があります。緑亭は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名は金蔵。幼児期に父を亡くし、佃島の漁師・太平次に養われた。養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けた。 文化年間(1804〜1818)初めに、二世川柳・柄井弥惣右衛門の門に入り川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号す。二世没後は四世川柳・人見周助に学び、天保8年(1837年)50歳の時に五世川柳を継承する。 五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた『誹風柳多留』が、167編で刊行を終えますが、天保12年から『新編柳多留』を刊行し、嘉永2年(1849年)の終刊まで55編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に『柳風狂句』と名付けています。 この句碑は、昭和41年11月に佃の人々によって建立されたもので、 『和らかで かたく持ちたし 人ごころ』と緑亭の句が刻まれています。 ◇ 佃煮 江戸の海で取れる白魚を将軍家に献上し、余りを佃煮にした。この地は佃煮発祥の地。 佃煮・丸久の傍らに北条秀司の歌碑があります。(所在地:中央区佃1-2-10) 劇作家・北条秀司は佃島が好きだった。新派俳優・花柳章太郎も佃島が好きだった。二人は良く連れ立って佃島を歩き、大川の渡し船を楽しんだ。やがて「佃の渡し」の芝居を企画し、それが昭和32年12月の新橋演舞場で脚光を浴び、新派の財産を一つ殖やした。 「雪降れば 佃は古き 江戸の島」 秀司 ◇ 佃島渡船跡石碑(中央区湊3-18先、中央区民文化財) 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲です。この島と対岸の佃大橋西詰付近との間を通ったのが佃の渡し。明治9年(1876年)7月には、渡し銭一人5厘の掲示札の下付を願い出ている。大正15年(1926年)東京市の運営に移り、昭和2年(1927年)3月、無賃の曳船渡船となった。この石碑は、この時に建てられたものである。 昭和30年(1955年)7月には1日70往復となったが、同39年(1964年)8月、佃大橋の完成によって廃止されました。渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。 ※ 子どもの頃、近所の子どもと三人連れで一銭も持たずに銀座まで遊びに行った。佃の渡し船に乗って築地を経て銀座まで、子どもの脚でも苦にならなかった。地階で色んなものを試食して、5階の玩具売り場で風船を貰い、屋上の遊園地で遊具を飽かず眺めて、再び徒歩で帰ったものだ。お金がなくても、とても楽しかった。そして何よりも疲れを感じなかったものだ。 ◇ 相生橋(あいおいばし、中央区佃〜江東区越中島) 相生橋は、隅田川の支流に架かる橋で、1903年交通の便と月島に水道を導くために、架けられました。橋の名前は、永代橋に相対する橋として名付けられました。その後、東京湾口に埋立地が造成されるとともに、勝鬨橋、佃大橋などが架けられ、その名の由来の意味を失っています。 1999年にトラス橋に架け替えられました。(トラス【truss】:直線的な材料を用い、三角形を基本単位とする構造の骨組みで、各部材の節点を回転自由なピン接合としたもの。屋根組み・鉄橋などに使用する。) ※ 学生の頃、深夜の勉強に疲れて自転車で相生橋を渡って、中ノ島公園に入った。大きな声で牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」なんて叫んでいたら、東屋の石造りのベンチにアベックが潜んで居ました。慌てて退散したことを覚えています。ビックリした。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




