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平成19年7月5日(木)昨日:初の女性防衛相就任、小池百合子氏の認証式。 1949年(昭和24)7月5日、下山事件発生。 日本国有鉄道の初代総裁・下山定則が登庁途中に行方不明となり、翌6日未明に、常磐線綾瀬駅付近の線路上で轢死体となって発見された。自殺説、計画的殺人説など入り乱れ、警視庁、法医学界でも自殺と他殺で見解が対立した。 警察は捜査結果を公式に発表することなく捜査を打ち切った。真相が不明のまま多くの憶測を呼ぶこととなり、「戦後史最大の謎」と呼ばれる。この事件から、1ヵ月あまりの間に立て続けに発生した三鷹事件、松川事件と合わせて、国鉄の戦後三大ミステリーとも言われる。 第二次世界大戦敗戦後の連合軍による占領が続いていた1949年、6月1日に発足したばかりの国鉄の初代総裁に就任した下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区内の自宅を公用車で出た。出勤途中、運転手に東京駅前にあった国鉄本庁舎を通り過ぎて、日本橋の三越に行くよう指示。車はいったん三越に到着したものの開店前で入れず、いったん東京駅前に戻り千代田銀行に立ち寄るなど、不可解なルートをたどった後、再度三越に到る。午前9時37分頃、下山は公用車を待たせたまま三越に入り、そのまま消息を絶つ。下山は翌7月6日午前0時30分過ぎ、常磐線・北千住駅〜綾瀬駅間で、散乱した轢断死体として発見された。 ◇『謀殺・下山事件』新風舎文庫 矢田喜美雄著 終戦後の混乱冷めやらぬ占領下の日本で相次いで起きた、下山事件、三鷹事件、松川事件。これらの事件は、当初共産党が引き起こした事件とされ、左翼勢力を弾圧して朝鮮戦争(1950〜1953年)への協力体制を形成するに大いに利用されました。これらの事件での“共産党犯行説”は事実無根であることが後に明らかにされるが、三鷹・松川事件は単独犯行説、下山事件は不明ということで処理されています。これらの事件の真実は、その一端は明らかにされてはいるものの、肝心なところが明らかにされていないまま。矢田喜美雄氏は、下山事件の真実をつきとめるために時として命がけの取材を行なっている。 ◇ 事件後の経緯 6日の轢断死体発見から、警視庁は本格的な捜査を開始する。その結果、前日の午後に現場近くで下山総裁に似た人物を目撃した者が17人に上ることが分かった。いずれも元気なく歩いていたと証言したため「自殺説」が浮上。特に、前日の5日午後2時から5時30分まで、現場から1キロ離れた足立区千住末広町の「末広旅館」に下山らしい人物が休憩していたという旅館の主人の証言が大きくクローズアップされた(松本清張氏は、GHQの偽装工作と見る)。 東大法医は、「死後轢断」である可能性を示唆する。それはバラバラになった手・首・足の轢断面に生活反応が認められなかったこと、発見された靴底に付着していた泥は現場の泥とは明らかに異っていること。轢断現場には下山総裁のネクタイ、めがね、ライターなどの所持品がどこからも発見されなかったこと。衣類に植物性油が多量に付着していたことなどが上げられた。このため東大法医は、下山総裁は別の場所で殺された後、現場に運ばれ線路に遺体を置き轢断させたとする「他殺説」を主張。 捜査本部でも、「自殺説」「他殺説」で二分したが、結局は「自殺説」を取り、8月4日に記者会見で発表。その直後に捜査本部を解散する。この下山総裁事件がきっかけとなり、国鉄では一気に人員整理が加速してゆく。その他の企業においても人員整理が容易となり、GHQの思惑通りと言われた。 当時の国鉄ダイヤは進駐軍の物資輸送が最優先であった。誰にも目撃されること無く轢断させるには、列車の時刻を自由にコントロールすることが不可欠だった。GHQならば、それは造作もないことだった。 ◇ 過半数をめぐる攻防 与党の過半数割れは避けがたい、とする報道が盛んにされると民主党としても、何か穏やかならぬものを感じるものらしい。民主党代表の小沢一郎さんが、この時期に、野党で過半数が取れなければ、「私が代表をしている意味はない」と、その決意を表明した。選挙一週間前に、大きく振れるアナウンス効果。今も昔も選挙は魔物です。参院選に懸ける背水の決意をアピール、はや組織の引き締めを図る思惑がみられる。
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