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平成20年2月26日(火)海自艦事故:防衛相「12分前」当夜把握、公表は翌日夕。
海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船清徳丸の衝突事故で、あたごの見張り員が清徳丸に気付いた時間について防衛省が当初「2分前」としていたのを「12分前」と訂正した問題で、事故当日の19日夜に石破防衛相に「12分前」との連絡が上がっていたにもかかわらず、その後に行われた海上幕僚監部の会見では「2分前」と誤った情報を公表していたことが分かった。
※ 同省は「十分な確認が取れていなかったので公表しなかった」と説明しているが、それでは「2分前」との公表は、十分に確認が取れていたことになる。これは意図的な「情報隠し」または「情報操作」に他ならず、石破防衛相の責任問題に発展するのは必至の状況。
◇ 石破防衛相が「情報操作」否定(2月26日11時)
石破防衛相は26日午前の閣議後の記者会見で、事故情報の伝達・公表に遅れが指摘されている問題について、「隠蔽して何ら得るものはないし、情報操作をするような防衛省ではない」と述べ、情報の公表は適切だったとの認識を示した。
※ 「情報操作をするような防衛省ではない」とは、したくても、その能力がないと言う意味なのか?「情報漏洩」は日常茶飯の防衛省でも、情報操作のような高度な事は無理だと?
防衛相は、「海上保安庁から情報が出るまで、(防衛省が)一切言わないということはよくない。分かっていることで、公表してよいものは出すべきだという指示は私の責任で省内に出した」と強調。その上で、イージス艦が漁船を発見した時間について、19日の段階で「事故発生2分前」としながら、20日夕に「12分前」に修正したことに関し、「断片的にバラバラと情報が入ってくるが、それは本当に確かな時刻なのかを確認しないまま外に出せば混乱する。確認するための作業に当然時間がかかる。正しい確認作業だった」と説明。
※ 石破防衛相の言葉を素直に受取れば、当然19日の段階で「事故発生2分前」という情報を出すべきではなかった。「2分前」を出して、「12分前」を引っ込めた、その間の事情が問われる。
さらに「防衛省が得た情報は、海保の捜査当局に公表してよいか確認しないといけない。その確認にはすごく時間がかかったと聞いている。私や防衛省に情報が入った時期と、公表した時期が異なるとしても、事実の確認と公表の可否に時間を要したためだ」と釈明、「12分前ということを隠して、防衛省にとって何の意味があるのか」と語気を強めた。
※「2分前」が通れば、当然防衛省は有利になるはず。
防衛相は26日午前の衆院安全保障委員会で、自らの進退について、「自分で判断するが、(行方不明者の)家族や漁協の方々の思いに応えることが責任の取り方だ」と述べ、職を辞さず、捜索活動や再発防止に全力を挙げる考えを示した。
※ 石破防衛相は、防衛省幹部に煮え湯を飲まされたのかも知れない。シビリアンコントロールなど、夢のまた夢。敵にも味方にも、情報こそ最大の武器。
2月26日は、二・二六事件が起きました。
二・二六事件:1936年(昭和11年)2月26日〜29日、陸軍皇道派の影響を
受けた青年将校らが1483名の兵を率いて、「昭和維新断行・尊皇討奸」を
掲げて起こしたクーデター未遂事件。
◇ 皇道派と統制派
いずれも大日本帝国の陸軍内の派閥。皇道派は、財界や政界をクーデターのような過激な行動で変革、天皇親政による国家改造を目指す。皇道派はこれを昭和維新と称した。主に尉官クラスの隊付き青年将校たちに広く支持されていたという。皇道派の代表的人物は荒木貞夫や真崎甚三郎。二・二六事件後その勢力は衰退した。
統制派は、合法的に政府に圧力を加え、操作しようとしたグループ。軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。旧桜会系統の参謀本部、陸軍省の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。統制派の中心人物は永田鉄山、東條英機。
皇道派による二・二六事件が鎮圧されると皇道派の将校は予備役に追いやられた。さらに統制派は、退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく、軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で終息をみる。その後統制派は、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の領袖となった東条英機の下で、全体主義色の強い東條内閣を成立させる。
※ 相沢事件:1935年(昭和10年)8月12日白昼、皇道派・相沢三郎中佐が統制派の領袖・永田鉄山陸軍省軍務局長を斬殺した事件。相沢は、北一輝の思想的影響を受けていたと言われる。
◇ クーデター未遂事件のあらまし
一部青年将校らは「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害し、天皇親政の実現を計り、軍部の腐敗を糾そうと考えていた。彼らはこの拙劣な計画のもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮、行動を起こした。殺害の標的は以下の七名だった。
岡田啓介(総理大臣)(義弟・松尾が人違いで殺害される)
鈴木貫太郎(侍従長)(一命を取り留める)
斎藤実(内大臣)(殺害)
高橋是清(大蔵大臣)(殺害)
渡辺錠太郎(陸軍教育総監)(殺害)
牧野伸顕(前内大臣)(窮地を脱す)
後藤文夫(内務大臣)(外出中で無事)
青年将校らは、軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えようとした。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」とみなし、武力鎮圧を決意。叛乱軍を包囲して投降を呼びかけた。その後、反乱将校たちは、下士官・兵を原隊に復帰させた。一部は自決するも、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
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