今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

 平成20年3月10日(月)昨日:昨年8月に右膝手術、高橋尚子がレース後明かす。

イメージ 1
 女子マラソンのシドニー五輪金メダリストの高橋尚子(35)は9日、名古屋国際女子マラソンのレース後の記者会見で、昨年8月に右膝の手術をしていたことを明らかにした。もともと持病だった右膝の半月板がめくれて、関節に入り込んだ状態になったため、内視鏡手術で約50%を切除したという。高橋は「レースまで7か月でメスを入れることに躊躇はあったけれど、挑戦するために手術することを決めた」と理由を語った。注目される去就については「やりたいこともあるので、もう少し走らせてくださいと(所属先には)話をした。まだまだ陸上生活は続けていきたい」と意欲を見せた。

 2大会ぶりの五輪出場をめざした高橋を、ファンは大声援で後押しした。結果は27位で五輪出場の夢は消えたが、最後まであきらめない姿が感動をあたえた。序盤から先頭集団に後れをとった高橋。20キロ地点付近では、観客から「先頭じゃない」という声がもれた。数分後に高橋が姿を見せると、ひときわ大きな拍手がおこった。「来た」「Qちゃんがんばれ」と大声援がわいた。瑞穂陸上競技場に戻ってきたのは午後2時57分。先頭から18分半ほど遅れたが、帰ろうとする観客はいなかった。 



 3月10日は、藤谷美和子の誕生日です。

 ◇ 藤谷美和子(1963年〜)
  (映画『それから』のために生まれた女優、それ以外の何者でもない人)

イメージ 2

 ◇ 森田芳光監督『それから』(1985年東映)

 音楽:梅林 茂
 出演:藤谷美和子・松田優作・小林薫

 主人公・代助(松田優作)は大学を出たあと特に仕事もせず、スキな事をしながら裕福な親の脛をかじって暮らす「遊民」だった。クールで自意識も強い彼だが、落剥して地方から舞い戻った友人・平岡(小林薫)の妻三千代(藤谷美和子)と再会し、ひどく心が動くのを感じる。代助はもともと彼女を好いていたのだが、クールさゆえか平岡に譲った格好になっていた。しかし不幸そうな彼女の様子を見るにつけ、代助のこころは揺らぐ…。

 三千代が白百合の花を持って代助の家を訪れるシーン。走ってきたので喉が渇き、代助の飲みかけのグラスの水を飲もうとしますが、代助に止められます。代助が三千代のために水を取りに行っている間に、三千代は花を生けているガラス鉢の水をグラスですくい取って飲んでしまう。

イメージ 3

 「なんで、そんなものを飲むんです?」
 「だって、毒ではないのでしょ?」

 代助が三千代の家を訪れたとき、三千代がラムネをビンからじか飲みするシーン。
 「寂しくていけないから、また来てちょうだい…」。

 淡白な映像ながら濃密な関係を紡ぎだす、森田芳光の力量。

 平岡は代助の親に手紙を送りつけ不倫を糾弾、事は実家に露見する。世間体を憚った父親(笠智衆)は代助を勘当してしまう。親元から絶縁された代助は炎天下のさ中、職探しに彷徨(さまよ)うのだった。

 小林薫が、男のいやらしい嫉妬心を完璧なまでに演技しており、それが藤谷美和子の可憐な悲劇性を美しく演出している。漱石の原作は明治42年に書かれている。映画は幻想的な明治を美しく映像化した。この映画に関する限り、松田優作は「普通の人」でした。


 藤谷美和子CM 『サントリー レゼルブ』



 3月10日は、「サボテンの日」です?(サ<3>・ボ・テン<10>)


 そして2008年3月10日は、袴田巌の72歳の誕生日でもあります。

 ◇ 袴田事件および裁判経過

 1966年6月30日、味噌製造会社専務の自宅が放火され、焼跡から一家4人の他殺体。
イメージ 4
 7月4日、静岡県警が味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索、当時味噌製造会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌の部屋から極く微量の血痕が付着したパジャマを押収する。

 8月18日、静岡県警が袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕。
 9月6日、犯行を頑強に否認していた袴田が、勾留期限3日前に一転自白。
 9月9日、静岡地検が起訴。
 11月15日、静岡地裁の第1回公判で袴田が起訴事実を全面否認。
イメージ 5
 ※ 袴田の取調べは過酷をきわめ、炎天下のもと、平均12時間、最長17時間にもおよんだ。 さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で排泄させた。睡眠時も精神異常者のとなりの部屋にわざと配置させ、一切の安眠を許さなかった。拘留期限が迫ってくると、取調べはさらに過酷を極め、朝、昼、深夜を問わず、2、3人がかりで殴る蹴るの取調べになっていき、とうとう袴田は拘留期限3日前に自供する。

 1967年8月31日、味噌製造工場の味噌タンク内から血染めの「5点の衣類」を発見。
 1968年9月11日、静岡地裁、死刑判決。
 1976年5月18日、東京高裁、控訴棄却。
 1980年11月19日、最高裁、上告棄却。
 1980年11月28日、判決訂正申立。
 1980年12月12日、最高裁、判決訂正申立棄却決定送達。死刑確定。

 1981年4月20日、弁護側、再審請求。
 1994年8月9日、静岡地裁、再審請求棄却。
 1994年8月12日、弁護側、即時抗告。
 2004年8月27日、東京高裁、即時抗告棄却。
 2004年9月1日、弁護側、最高裁に特別抗告。

 袴田巌は、30歳で逮捕されて以来40年以上にわたって拘束され(現在東京拘置所に収監中)、死刑確定後は拘禁症状に苦しんでいる。親族・弁護団との面会にも応じない期間が長く続いた。現在、面会には応じるものの、拘禁症状の影響のため不可解な発言が多く、特に事件や再審準備などの裁判の話題については、全くコミュニケーションが取れなくなっているもよう。
イメージ 6

 ◇ 「袴田巌支援チャリティーBOXING」(2008年1月24日)

 東京・後楽園ホールにて、新旧18人もの世界王者によるボクシング教室やオークション、トークショーなど盛りだくさんの内容で、手作りの支援チャリティーが24日に行われました。 ボクサーへの偏見は、今では殆どないとは思うけれど、当時は「ボクサー崩れ」と言う表現が横行する世間でもあり、警察の捜査もぞんざいなものだった。40年もの長きに渡って、小さな部屋で小さな窓から小さな空を見続けた袴田巌の脳裡には、いったいどんな世界があるのだろうか。どんな世界がないのだろうか。40年もの拘禁、想像すらできない…。

 袴田巌チャリティボクシング(2008年1月24日)
 http://jp.youtube.com/watch?v=qvi2PZQQJzM
 ※ 熊本典道・元裁判官の挨拶、3人の裁判官の合議に負けたことを悔いる。


 「異例の告白」熊本典道・元裁判官(2007年)

 ※ 41年間投獄されている無実の死刑囚・袴田巌さんの一審判決文を書いた
 元裁判官が『当時、これは無罪にするしかなかった』と異例の告白。
 ※『相棒6』最終回「黙示録」のモデルと思われます。

 「無実の死刑囚・元プロボクサー 袴田厳さんを救う会」
 http://www.h3.dion.ne.jp/~hakamada/

 袴田ネット
 http://www.hakamada.net/



 【参照】3月10日、東京大空襲記念日
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/29672004.html

 【参照】石井桃子、百歳万歳(2007年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/29699327.html
 『明日への遺言』(2008年、上映中)

イメージ 1

 監督:小泉堯史
 出演:藤田まこと(岡田資)、富司純子(妻)、西村雅彦、蒼井優、田中好子
 ロバート・レッサー(弁護側、実にフェアな弁護をする)
 フレッド・マックイーン(検察側、スティーブの息子で父親そっくり)

 太平洋戦争末期、無差別爆撃を実行した米軍機の搭乗員を処刑した責任を問われ、B級戦犯として戦争裁判(横浜)にかけられた岡田資(たすく)中将。傍聴席から妻・温子や家族が見守る中、彼はひとり“法戦”に挑んだ。

 部下を守るため全責任を負った岡田中将の潔い姿は、次第に法廷内にいる全ての人の心を動かしていく。そして、判決が下る…。戦勝国アメリカとの法廷戦争において、自己保身に終始する指揮官の多い中にあって、最後まで誇り高く毅然として立ち向かった岡田資中将と、その家族の深い絆を描いた真実の物語。

イメージ 2

 ※ 映画のほぼ全編が法廷シーンと言う、極めて地味な作品だが、静謐な緊張感が美しく撮られている。富司純子などはセリフは一切なし、わずかにナレーションのように短いコメントが画面にかぶるのみ。表情の微妙なニュアンスのみで夫と会話をする。終始3台のカメラが回っており、法廷に登場する全ての役者は全方位の演技が求められた。長いシーンでは7〜8分を一気に撮ったと言う。英語と日本語との応酬で、ヘッドホーンを通じて通訳の言葉を聞くのだが、小泉堯史監督は実際に、日本人には日本語を、アメリカ人には英語を流している。映画で観るかぎりは不要と思われることでも、実際の軍事法廷をそこに出現させることに、監督としてのこだわりがあったようだ。


 ○ 1945年(昭和20年)3月10日零時8分、東京大空襲

 アメリカ空軍B29爆撃機344機による焼夷弾爆撃。
 死者約10万人、焼失家屋約27万戸。第二次大戦で最大級の被害。
 明白なる無差別爆撃であり、戦争犯罪であった。
 そして、名古屋、大阪へと。ついには、広島、長崎へ。
 勝者の戦争犯罪が裁かれることはなかった。そして、勝者アメリカは…
 今もなお、振り上げた拳を下ろせぬまま、もがき苦しんでいるのだ。

イメージ 3

 ◇ カーチス・エマーソン・ルメイ
  (Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日〜1990年10月1日)

 第二次世界大戦期の米合衆国軍人。戦後は空軍参謀総長まで登りつめた。
 戦略爆撃の専門家、東京大空襲を初め日本焦土化作戦の立案者。

 第二次世界大戦開戦当初、ルメイは無名の大尉であった。戦争はルメイにビッグチャンスを与え、中佐に昇進させた。英国に渡り第8空軍の一員として、ドイツ爆撃を指示。絨毯爆撃の戦術で大きな打撃を及ぼし、その功績で1944年に少将となる。

 その後、第21爆撃集団司令官に赴任、グアムに移動。ルメイは対日作戦として、日本の都市の無差別戦略爆撃を立案する。これは前任者・ハンセルの精密爆撃作戦が手ぬるいと判断したため。高高度からの爆撃の標的破壊率が5%に過ぎなかったため。

イメージ 4

 ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、
 低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする
 爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする
 搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す
 攻撃は夜間とする、この4点だった。

 さらにルメイは、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。ルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめる。日本側は都市の軍需工場、民間住宅を問わず、全て徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。焦土化作戦は東京・名古屋・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。

 ルメイが考案した日本焦土化作戦について、当初「民間人攻撃は国際法に反する」と反対の声があがっていた。しかし「日本では民間人の居住地区でも軍需物資を作っている。それを考えれば民間人攻撃は戦略上重要なことだ」と押し切ったという。

イメージ 5

イメージ 9
 ※ 昨今、「品格」の言葉が安っぽくなったとは雖も、真の品格何れにありや?

イメージ 6

 ◇ 戦争犯罪者・ルメイに勲章を授与する我がニッポン

 日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄しているとは言うものの、対日無差別爆撃を指揮した当事者に、わざわざ勲章を与えることもあるまい。1964年、佐藤栄作内閣の時に、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で、カーチス・ルメイ少将に対し勲一等旭日大綬章を授与している。

 後年、ルメイ自身が「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていただろう」と述べている。だが、ルメイは同時に「この空襲が日本の降伏を早め、日本軍による米軍への被害を最小限に止めた」と付け加えることも忘れない。同様の理屈は、広島、長崎についても言われるようだ。ルメイの前任者は、軍事目標への精密爆撃にこだわった故に更迭されている。ルメイは米軍の意志に沿って、戦争犯罪に手を染めたのだ。

 勲章授与に関しては、もうひとつの興味深い話がある。元海軍航空参謀の源田実が戦後、自衛隊幕僚長時代に、みすみす性能の劣るロッキード戦闘機をF104Jとして選定した見返りに、アメリカから勲章を授与されており、源田実の勲章授与の返礼として、ルメイに勲章を贈呈した、と言うもの。

 通常、外国人にたいしては天皇陛下が自ら臨席して授与(親授)するが、この時、昭和天皇は臨席なされなかった。天皇代理としての佐藤栄作総理大臣より授与する形をとった。源田実は退官後、参議院議員になっている。佐藤栄作は、後にノーベル平和賞を受賞している。そして、佐藤B作は、佐藤A作にはなれなかった。

イメージ 7

 陸軍中将・岡田資は、昭和20年に設けられ本土決戦に備えて、愛知県・岐阜県・静岡県・三重県・石川県・富山県を管轄する東海軍司令部の司令官の職にあった。戦後、彼は捕獲搭乗員38名の処刑の責任を問われ、1948年5月、B級戦犯として、横浜の連合軍裁判所において裁かれる。

 低空飛行攻撃は、日本側の対空高射砲攻撃の射程内に入り、被弾するB−29の数が増え脱出し捕虜となるアメリカ兵が続出する。爆撃下の各司令部は、その対応に苦慮していた。そこで、憲兵司令部は外事課長の私信を各司令部に送る。文面は、各司令部において適当に厳重処分せよというものだった。以後は各司令部で、「適当に厳重処分=処刑」と判断し略式裁判が行われ、その殆どが重要戦争犯罪者の判決で直ちに斬首された。

 戦後GHQ横浜BC級裁判で、捕獲搭乗員処刑の責任への追及が行われた。「適当に厳重処分せよ」との私信を出した外事課長は、処刑せよという命令は出していないと逃げ切り、無罪。その結果、多くの現場の責任者が有罪となった。

 岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものである」と判断した。そしてこの裁判を「法戦(ほっせん)」と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを続ける、という覚悟だった。法戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最期を飾らんことを」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、一緒に起訴された19名の部下たちを救おうとした。さらに、搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置として正当であったことを立証して、日本軍に有終の美を飾ろうとした。

 絞首刑の判決が下されて退廷する時、岡田中将は家族にひと言、「本望である」と告げ莞爾として立ち去る。翻って昨今のわが国に目を移せば、謝罪会見、責任転嫁のオンパレード。嗚呼、やんぬるかな。

イメージ 8
 ※ 身はたとへ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂(松陰辞世の句)

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事