今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成22年5月10日(月)昨日:よくも悪くも「野党根性」?

 全国世論調査で鳩山内閣の支持率は24%となり、前回調査の33%から9ポイント下落した。 不支持率は67%(前回56%)に達した。沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題で、日米合意を一部修正して同県名護市に移設し、一部を鹿児島県・徳之島に移す案を、鳩山首相の公約に「違反する」と思う人は66%で、「そうは思わない」24%を大きく上回った。普天間問題での不手際が「鳩山離れ」に拍車を掛け、内閣支持率は発足から8か月で「危険水域」とされる30%を割り込んだ。 移設案そのものに関しては「評価する」17%、「評価しない」67%となった。普天間問題が今月末までに決着しない場合、首相は責任を取って「退陣すべきだ」との答えは51%(前回49%)、「その必要はない」は41%(同43%)だった。

 内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が51%(同44%)に上った。普天間問題での「最低でも県外移設」発言を、「党の公約でなく、党首としての発言」と弁明する首相の資質を疑問視する人が多かったことが一因と見られる。 民主党の小沢幹事長の資金管理団体を巡る事件について、検察審査会が小沢氏を起訴すべきだと議決した判断を「妥当だ」と思う人は80%に達した。小沢氏は幹事長を「辞任すべきだ」も79%(同77%)を占めた。

 ※ 阿呆なれど育ちの良さは偲ばるゝ されど総理はハトに豆鉄砲



 5月10日は、「攘夷決行の日」です。(文久3年〔1863年〕5月10日)

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    ◇ 尊王攘夷(尊攘)

 天皇を尊び外敵・外国を撃退しなければ日本の将来は危ういと言う行動規範で、幕末の革新的思想の旗印となり、各藩、公家または幕府内の間で熱く論じられた。とくに水戸藩では、急進的な尊攘思想が盛んだった。 水戸藩は徳川御三家の一つ。その水戸藩から生まれた尊王攘夷思想。尊王論は、もともとは幕藩体制を維持するための道具立てだった。それが攘夷論と結びついて、幕府を窮地に追い込む思想となったのは、歴史の皮肉とも言える。


 ◇ 弘道館(茨城県水戸市)

 水戸藩の藩校として第9代藩主・徳川斉昭により天保12年(1841年)に創設された。藩士に文武両道の修練をつませようと、武芸一般はもとより医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた総合大学というべきものだった。 当時の藩校としては国内最大規模のものであり、弘道館建学の方針を示す「弘道館記」の内容や学校教育の特色により天下に名を馳せた。


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    ◇ 一橋慶喜(将軍後見職)

 慶喜は天保8年(1837年)、水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男として生まれた。幼少時より英明の誉れ高く、第12代将軍家慶が自身の後継にしようと考えていたこともある。だが、慶喜は才気煥発であり、封建的な幕閣からの受けは悪かった。 京都守護職・松平容保、土佐藩主・山内容堂、越前藩主・松平春嶽(政事総裁職)といった佐幕派諸侯とも議論を戦わした。

 「攘夷決行の日」を5月10日としたのは、慶喜の戦略だとも言われる。 14代将軍・家茂(いえもち)は朝廷(孝明天皇)に対し奉り、文久3年(1863年)5月10日をもって攘夷を実行すると奏上する(二十日後の日程)。これは、国内の異国人を全て捕縛し、沿岸を航行する異国船を全て撃ち滅ぼすとの内容だった。もしこれを実行すれば、日本全土が列強諸外国の植民地となることは、明白なことであった。もとより、慶喜はそんな愚挙を毛頭考えていなかった。 攘夷決行の日限を明確にすることは、公武合体の具体的な形としての皇女和宮降嫁への交換条件の側面を持っていた。

 攘夷の準備の為と称して御所を辞した慶喜一行は、ゆるりゆるりと江戸に向かう。江戸に着いたのは5月8日、なんと攘夷実行期限の2日前だった。 翌5月9日、幕閣に向かって、「5月10日、攘夷を実行するので準備せよ」と下知する。もとより、なんの準備もなく攘夷が実行できる筈もなく、「攘夷決行の日」は思惑通り空振りに終わる。


 ◇ 尊攘やひとり淋しく長州勢

 ところが、長州藩のみが単独で攘夷を決行したのである。これは良く言っても「蛮勇」、正当に評価すれば「暴挙」であった。尊王攘夷家の久坂玄瑞が中心となり、下関海峡近くの田野浦に停泊中のアメリカ商船・ベンプローク号に砲撃。撃沈はしなかったが、逃げるアメリカ船を見て長州藩士は絶叫し狂喜したとか。その後もフランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号に損傷を与えた。これらは戦闘能力のない商船を狙ったり、不意討ちや地の利によって得た微々たる「戦果」にすぎなかった。 それでも、朝廷から褒勅の沙汰があったと言う。


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 ◇ 下関戦争(馬関戦争)

 幕末に起きた長州藩と英仏蘭米の列強四国との間に起きた、前後2回にわたる武力衝突。幕府による安政の開国(1854年)後も過激な攘夷政策をとっていた長州藩が、外国に対する強硬姿勢により、1863年と1864年の2回にわたり列強諸国と武力衝突を起こす。

 1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現・関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行。

 1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定、仏蘭米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成。同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現・下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。 四国連合艦隊に完膚なきまでに打ちのめされた長州は、以後政策を180度転換して、欧米から新知識や技術を積極的に導入して軍備軍制を近代化する。さらに薩摩藩と共に、倒幕への道を一気に進むことになる。


 ◇ 小攘夷と大攘夷

 とにかく闇雲に異人らを追い払う事しか眼中にない輩、「異人憎し」に凝り固まった連中、このような近視眼的な人々の考え方を「小攘夷」と呼んだようだ。 これに対する「大攘夷」とは、如何なるものか? 異人らから日本を守りぬくことは、もとより変るはずがないが、そのアプローチが全く逆の発想だった。先ず開国を前提として、海外の文化を吸収し、外国に足下を掬われないだけの国力の保持を主眼とした。明治政府が断行した「富国強兵」とは、清国のように植民地化されることなく、日本の自主独立を守り抜く唯一の選択肢であったと思われる。

 小攘夷:久坂玄瑞(長州)、武市半平太(土佐) etc.
 大攘夷:勝海舟(幕閣)、坂本龍馬(土佐脱藩)、桂小五郎(長州) etc.


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 ◇ 長門尊攘堂・万骨塔(山口県下関市長府川端1丁目2−5)

 長府に住んでいた桂弥一が、昭和8年に功山寺境内に設立した長門尊攘堂と万骨塔。 長門尊攘堂は京都の尊攘堂と同じく、「勤王志士」たちの史料等を蒐集・展示する目的で設立され、尊攘堂の隣に有る万骨塔は、周囲に全国各地から集められた石碑等を並べ、維新期に亡くなった無名の人々の墓石に擬せられています。長門尊攘堂の建物は現在、下関市立長府博物館として利用されています。

   尊攘堂並ニ万骨塔建設由来

 偉人吉田松陰先生夙ニ尊攘堂ヲ京都ニ建テ勤王志士ノ霊ヲ祀リ天下ノ人心ヲ振起セムトノ志望ヲ懐カレシモ遂ニ之レヲ果スノ機会無ク濫刑ニ就カルヽニ先ダツ一週日前江戸伝馬町ノ獄中ヨリ書ヲ門下ノ俊髦入江子遠ニ寄セ学習院ヲ興起シ上ハ天子ヨリ下ハ庶人ニ至ル迄学問ノ須要ナルコト及ビ尊攘堂建設ノ必要ト方法トヲ懇切ニ説カレシコト縷々数千言。 然ルニ子遠ハ元治ノ難ニ殉ジ先生ノ遺志ハ空シク没シテ実現セザルモノ二十有余年後同ジク松陰門下ノ士子爵品川弥二郎先生偶々其ノ遺書ヲ水戸ニ得感慨措ク能ハズ独力以テ先師ノ遺志ヲ果サント決意シ直ニ京都ニ尊攘堂ヲ創設セラレキ。

 品川先生ハ尚又長門ニ交通ノ便ナル地ヲ選ミ尊攘堂ヲ建設セムトノ希望ヲ抱カレ生前屡々其ノ意中ヲ余ニ語ラレ資料蒐集ニ就キ指導奨励セラレシ所尠カラズ然ルニ先生モ亦之レガ実現ヲ見ルニ至ラズシテ長逝セラレキ。 余品川先生ノ知遇ヲ受クルコト久シ先生ノ宿志ヲ継紹シテ其ノ実現ヲ期セザルベカラズ。 爾後日夜念頭ヲ離レズ苦心惨憺而シテ機会容易ニ到ラズ荏苒歳月ヲ経過ス今齢傾キ身宸フ余命幾何モ有ルナシ且近時世相険悪人心動モスレバ動揺セントスル傾向ヲ視ル此ニ於テ其ノ実現ノ急ヲ要スルヲ感ジ微力ヲ顧ルノ遑ナク遂ニ昭和五年十月二十七日万難ヲ排シ先輩ノ遺嘱ヲ果サンコトヲ決意ス。

 建設ノ目的トスル所ハ京都ノ尊攘堂ト同ジク維新前後ニ於ケル勤王志士ノ霊ヲ祭リ毎年其ノ祭典ヲ執行シ極力此等志士ニ関スル史料遺墨遺品ヲ蒐集シ陳列シテ公衆ノ観覧ニ供シ以テ前賢先哲追懐ノ誠ヲ致シ国民ノ士気ヲ鼓舞振作セントスルニ在リ。 爾来年ヲ閲スルコト三タビ幸ニ長府毛利家其他有志者ノ援助ヲ得、昭和八年十月二十日開堂スルニ至リ茲ニ漸ク先輩ノ遺志遺嘱ヲ果スコトヲ得タリ。

 尊攘堂ノ建設ト同時ニ相並ンデ余ガ年来ノ念願タリシ万骨塔ヲ建立セリ。 惟フニ尊王攘夷論勃興以来国家ニ貢献セシ人々ノ中或ハ栄達ヲ以テ酬イラレ或ハ芳名ヲ竹帛ニ垂レ得タル人尠カラズ。 然レドモ我国今日ノ隆運ヲ致シタルモノ一ニ是等少数知名ノ士ノミノ力ニ由ルニアラズシテ幾百千万無名ノ士ガ或ハ屍ヲ戦場ニ曝シ或ハ発明ニ創作ニ或ハ産業ノ発達進歩ニ身命ヲ賭シテ尽瘁セシニ由ルモノ多シ。 而ルニ終生轗軻不遇流離落魄ノ極涙ヲ飲ンデ黄泉ノ客トナリ英霊長ヘニ慰ムルモノナキ有リ。 所謂一将功成リ万骨枯ルノ歎ナキヲ得ズ真ニ同情ニ堪ヘザルナリ。余年来此ノ事ヲ懐フテ息マズ茲ニ此ノ塔ヲ建テヽ無名ノ士ノ幽魂ヲ祀リ永久ニ吾等ノ子孫ト与ニ国民的感謝ノ意ヲ表セムトス。 蓋シ天下余ト感ヲ同ジウセラルヽノ士多カルベキヲ信ジテ疑ハザルナリ。

 塔ノ四周ニ配置安定セル自然石ハ之レヲ広ク全国ノ有志諸氏ヨリ寄進ヲ仰ゲリ。是レ一ハ以テ各地無名国士ノ墓石ニ擬シ、一ハ以テ国民的感謝ノ誠ヲ表徴セルノ意ナリ。天下同感ノ士来リ訪ハルヽ者希クハ無名愛国ノ士ノ霊ヲ慰メ幽明ヲ隔テヽ黙々裡ニ相語リ隠レタル功績ニ礼讃セラレンコトヲ。

 皇紀二千五百九十三年  昭和八年十月二十日   長府 桂弥一識



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   ◇ 今日の誕生花・カーネーション(ナデシコ科)

   花言葉は、「あなたを熱愛する」。

   灯を寄せしカーネーションのピンクかな   中村汀女

 持たされしカーネーションに顔を埋め うら恥ずかしき母の日という 鳥海昭子


 【参照】5月10日、二葉亭四迷忌(1909年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/32322037.html

 【参照】5月10日、平沢貞通の獄死(1987年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/48133481.html

 【参照】5月10日、大垣まつり(2008年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/42229110.html

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