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平成22年6月22日(火)昨日:角界汚染で、「協会設立以来の危機」。 大関琴光喜(34)(佐渡ヶ嶽部屋)が賭博に絡んで暴力団関係者から脅された、と報道されて約1か月。 力士や親方の賭博への関与について、日本相撲協会はようやく正式な特別調査委員会を設置し、全容解明に向けて動き出した。関与した力士は誰なのか。名古屋場所は開催されるのか … 。 相撲ファンは、専門家だけで構成される調査委に、「厳正な調査を」などと注文をつけた。 東京・両国国技館で21日午後、伊藤滋座長ら特別調査委メンバーとともに記者会見した協会の武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)は硬い表情で、「協会設立以来の大変な危機」と述べた。相次ぐ不祥事の発覚に、名古屋場所の開催が危ぶまれていることを念頭に置いた発言と見える。 協会は、琴光喜問題の報道後、今月14日を期限に、自己申告すれば厳重注意にとどめるとの条件で、力士や親方らに上申書を提出させたが、この手法に対し、「身内に甘い」と強く批判された。こうした点について武蔵川理事長は「こんなに多いとは思わなかった。対応は変わる」と想定外の事態だったことを明かした。焦点の名古屋場所の開催については、「調査委の結果次第。今は開催に向けて進めたい」と述べるにとどまった。 関与した力士らの氏名などの公表については、特別調査委の伊藤座長が「慌てないでじっとお待ち下さい」と語った。 「ご自身の進退をどう考えるか?」。 会見で記者から質問されると、武蔵川理事長はそれまでの神妙な表情を一変させ、「我々が責任を取っても解決にならない」と、顔を赤らめて持論を展開した。その後も、弟子の元大関で幕内力士の雅山(32)の野球賭博への関与について問われると、「そんな話はできない。根拠が何かあって言っているのか」と大声をあげ、同席した調査委員会の弁護士になだめられた。 東京ツアーで国技館周辺に訪れた堺市の自営業小西勝彦さん(66)は「調査委には厳しい処分を期待する。名古屋場所を中止してもいいので、相撲界は出直すべき」。臨時理事会の行方が心配で駆けつけたという近所の自営業浅野正司郎さん(42)は「どこまで信用が落ちても、ウミを出し切ってほしい」と注文をつけた。 ただ、ファン歴50年以上という東京都江戸川区の中村好男さん(63)は「安い給料で頑張っている若手力士のためにも、名古屋場所は開催してほしい」と期待を寄せた。 ※ 自己申告すれば厳重注意にとどめるとの条件とは、違法行為があっても揉み消してやる、と言う意味に他ならない。何ともすごい組織だ。また、そういう条件でなければ、本当のことを言わない力士連中も、何ともすごい猛者揃いだ。 本当の再起を期す積りがあるのならば、名古屋場所は全興行を休場にして、組織の解体的出直しを図るべきだろう。仏の顔も三度と言うけれど、相撲協会の不祥事は三度の三乗くらいあったのでは … 。 6月22日は、高田好胤忌です。 ◇ 高田好胤(1924年〜1998年) 薬師寺管主(124代)で法相宗管長(127代)の高田好胤師は、1998年6月22日午前8時5分、胆嚢癌のため奈良県橿原市の病院で遷化された。大阪市出身。写経勧進という方法で金堂、西塔など薬師寺の伽藍を復興し名物管長と呼ばれた。自宅は奈良市西ノ京町四五七の薬師寺内。 大の野球ファンで、棺には出身校の奈良県立郡山高校が甲子園へ出場した際のバットとボール、そして、甲子園の土が納められた。密葬で、棺を乗せた輿は弟子らに担がれて境内を一巡、伽藍に最期の別れを告げた。 1935年(昭和10年)、薬師寺に入山、橋本凝胤師に師事。 学徒動員で戦時中は千葉県四街道市の基地で過ごし、1946年、竜谷大文学部仏教学科を卒業。3年後に同寺副住職になり、1967年、薬師寺管主、法相宗管長に就任し金堂復興を発願する。白鳳期の代表的建築物である同寺金堂の復興を唱導し、1968年、般若心経の「百万巻写経」を始め、新しい宗教運動として一大ブームを巻き起こす。 1976年、100万巻の写経が集まる。納経料で同寺金堂をはじめ、西塔、回廊などを復元する白鳳伽藍再建計画に尽力した。 1997年、ついに写経勧進六百万巻を達成する。 ◇ 多分に揶揄の意味を籠められた「案内坊主」に徹した好胤師 1949年、副住職に就任すると、修学旅行の生徒達への法話に力を入れた。そのユーモアたっぷりで分かりやすい法話は人気を呼んだ。師の法話を聞いた生徒は500万人にものぼると言われる。一方では批判を受けつつも、「仏心の種をまく」と信念を曲げなかった。 ちなみに、修学旅行に訪れた女生徒と文通を続け、1954年に結婚する。薬師寺創建以来の初めての妻帯僧となったのである。 ※ 私も中学の修学旅行で、この方のお話を聞くことができた。担任の先生がハンドマイクを手渡そうとした時、一度は手にされたが直ぐに返された。「私は自分の肉声で伝えたいので … 」。子ども心にも、この人は偉いと思ったものだ。 当時の相撲界は、柏戸と大鵬との柏鵬時代だったので、それにからめて白鳳時代を面白く説明されていました。後にテレビで同師を見たときには、直ぐにあの時のお坊さんだとわかりました。それほど強く印象に残りました。 ◇ 批判の矢面にも立つ 「不東の信念」 唐の高僧で法相宗の始祖、玄奘三蔵は仏典を求めてインドへ旅立つ際、望みを達成するまで決して東(中国)へ向けて歩まないと決意を立てる。 兵火で焼失した白鳳伽藍の復興に生涯をささげた好胤師の信念もまた「不東」そのものだった。 当時としては珍しく、メディアにも好んで出演して、平易に人の道や家族の在り方を説いた。そのことは、在家からは歓迎されるも、多くの批判を被ったこともあった。当時の深夜番組「11PM」にも出演されたのだった。 「百万巻写経勧進」のために、全国を行脚した好胤師は、「好胤矢の如し」と言われるほどに東奔西走された。 一面では、毀誉褒貶の相半ばする宗教家でもあった。 ◇ 薬師寺 680年、天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して当時の飛鳥の地に建立した寺。 その後、710年平城京への遷都に合わせ現在の奈良の地に移された。 現在では、奈良の興福寺と共に法相宗の大本山です。 本尊は薬師如来像とその両脇に立つ日光菩薩と月光菩薩である。 ◇ 「心外無法」の法相宗 法相宗は唯識宗とも言われます。南都六宗(法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)の一つです。 印度の弥勒菩薩、無着菩薩、世親菩薩によって大成され、護法菩薩等によって発展した唯識教学です。紀元7世紀の初め、玄奘三蔵がインドで17年の間、仏教教義の修得に勤めた。その間、特に唯識教義の研鑚に勤められました。帰朝後は、教義の発揮を門下第一の逸足と称された慈恩大師に託した。大師は師より伝授の法統を巧みに整理し、法相宗を開創する。 唯識とは この宗の特徴は阿頼耶識(あらやしき)、末那識(まなしき)という深層意識が心の奥にあるということを認めているところにあります。その阿頼耶識を根本識とし、一切法(全ての存在、事物)は阿頼耶識に蔵する種子(しゅうじ)より転変せらる(唯識所変)としています。つまり、私達が認識する世界は、総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識)ということです。 世間の常識では、皆が共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています(共同幻想論)。しかし、実はそれぞれ別々のものなのです。 『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という道歌があります。誰かが手を打つと、宿の人はお客が呼んでいると思い返事をする、鳥は鉄砲で撃たれると思い逃げる、池の鯉は餌がもらえると思って寄ってくる。それぞれが別々の世界に生きているということです。 全ては自心が造りなせるもの、という思想は容易には了解しがたいものである。だが、全ての現象に自心が関与しているという発想は、それほど受け容れがたいものではないだろう。仏教とは哲学であると言われる由縁でもある。自心が徒に起こした些細な小波すら、全宇宙に波動すると思えば、楽しくも畏るべからざる厳粛な出来事ではある。 『 父 高田好胤 』 高田都耶子 著 (1999/06/14) 高田都耶子:1956年、奈良市薬師寺に生まれる。1979年、白百合女子大学文学部仏文科卒業。1988年、エッセイストとしてデビューし、薬師寺管長であった父・高田好胤と交友があった各界の人間国宝や著名人を中心に取材して連載を担当した。現在は執筆活動、他に講演活動にも力を入れる。父である高田好胤の残した著作の管理、再版時の編集及びプロデュース、高田好胤の法話カセットテープ集、CD集の企画、編集などをてがける。 かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空の心なり ◇ 今日の誕生花・シモツケ(バラ科) 花言葉は、「いつかわかる真価」。 ゆるぎなき青田の色となりにけり 清崎敏郎 老夫婦しずかに住める垣にそい シモツケの花ことしも咲けり 鳥海昭子 |

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