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平成23年8月31日(水)昨日:ヤクルト・小川監督に焦り、誕生日に勝利飾れず。 ヤクルトは小川監督の54歳の誕生日を勝利で飾れなかった。12安打を放ちながら、11残塁で2得点。特に今月不調の青木が2度の好機に凡退し、指揮官は「たらればは、良くないけど青木に1本出ていたらつながっていたかな」と悔やんだ。 今季4勝5分けだった延長戦で初黒星を喫し、チームは4連敗。小川監督は「(復調を)待つか何か手を打つかしないといけないけど、決められない」と、2位と2.5ゲーム差まで迫られた現状に、焦りの色が見え始めた。 ※ 首位ヤクルトに8ゲーム差で終わった前半戦。中日の踏ん張りではなく、ヤクルト急降下のお陰さまで、今や3.5差と様変わり。原監督ではないけれど、妙に「催してくる」状況ではあります。中日の連覇も夢想の域を脱するのか。それとも、夏の夜の夢と消えるのかな。 8月31日は、ボードレールの命日 です。 ◇ シャルル・ピエール・ボードレール(1821年〜1867年) フランスの批評家、詩人、「フランス近代詩の父」と呼ぶ 若くして美術批評家として文壇にデビューを果たし、特に当時、物議を醸していたロマン主義画家のドラクロワに対する熱心な弁護と評価を行った。的確な指摘と同時に、美術批評を介して独自の詩学を打ち出すという「詩人による美術批評」の先鞭をつけた。これはラフォルグ、アポリネールへの系譜へと連なってゆく。またエドガー・アラン・ポーを翻訳、フランスに紹介する。 ルイ・オーギュスト・ブランキの中央共和派協会に入会し、二月革命には赤いネクタイを巻いて参加レアリスト画家クールベらと友好を結び、プルードンと会う。生前発表した唯一の詩集『悪の華』が摘発され、そのうちの六編が公序良俗に反するとして罰金刑を受ける。後に第二版を増補版として出版し、詩人としての地位を確立した。その卑猥的、耽美的、背教的な内容は、後の世代に絶大な影響を与えることとなる。特に現実と理想の溝から生じる、作品に溢れる絶望感とアンニュイは、一種の退廃的な時代の病を表徴した。 韻文詩集発表後、散文詩と呼ばれるジャンルに新たな詩的可能性を目指して執筆を続けた。生前は作品集としては陽の目を見なかったものの、後に『パリの憂鬱』(『小散文詩』)として出版された。それは、今なお多くの示唆に富む内容となっている。 ダンディとして知られ、亡父の遺産をもとに散財の限りを尽くし、準禁治産者の扱いを受けた。その後は、死ぬまで貧窮に苦しむこととなる。 ボードレールは、詩という文学空間の可能性を最も早い時期に提示した詩人であり、彼の後に続くランボー、ヴェルレーヌ、そしてマラルメらに決定的な影響を与えたことから、「近代詩の父」と称される。また、批評活動でも優れた功績を残した。特に『現代生活の画家』の中で展開されたモデルニテ(modernité 近代性、現代性)の理論は、19世紀フランスのキータームであり、彼以降の詩人たちは、それぞれのモデルニテを探ることとなった。 どんな物質でも浸透する強い匂ひがあるものだ。 どうやら硝子にさへそれは滲み込むらしい。 錠前が錆びついて仲々開かないやうな、 昔、東邦から将来された小匣を無理に開けたり、 人の住まなくなつた古家に置き忘れられ、 煤けて、埃まみれの、 むせかへるやうな昔の匂ひで一ぱいな 箪笥を開けたりすると、 思ひ出し顔の古い香水の空壜が見つかつたりして、 生き生きと昔の人の心が甦へつたりする事がある。(『悪の華』「香水の壜」) 「汚濁趣味、悪魔主義、姦淫肯定の人」とも呼ばれた 刊行された『悪の華』は、たちどころに告訴され、上記の罪状を問われる。 彼は作品ではなく、罪状で一躍有名になる。 1863年(42歳)、梅毒による体の不調に悩み始める。 1866年(45歳)、3月、ブリュッセル南東のナミュールに遊び倒れる。 脳神経の変調が現れ、言葉を失い、ブリュッセルの病院に収容される。 1867年(46歳)、8月31日、死亡。9月2日葬儀、モンパルナス墓地に眠る。 1869年、散文詩集『パリの憂鬱』が出版される。 ◇ 今日の誕生花・ホウセンカ(ツリフネソウ科) 花言葉は、「快活」。 姉母似妹母似鳳仙花 坊城俊樹 父と来ておとなしき子や鳳仙花 後藤比奈夫 さわやかに種をはじけりホウセンカ ホウセンカ赤し晩夏夕暮れ 鳥海昭子 島倉千代子 『 鳳仙花 』 『 少年時代 』 井上陽水 課題図書二頁読みて夏終る 江南市 間瀬知紀 ああすればこうなるものと知りながら 已むにやまれぬ遊びこころよ |

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