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平成24年5月15日(火)昨日:白鵬3連敗で4敗目、左人差し指骨折。 首投げの豊ノ島と、すくい投げの白鵬。土俵際、もつれて物言いがついたものの、協議の結果は軍配通り豊ノ島。3連敗で、この日も座布団が舞う中を引き揚げた白鵬は「勝負勘が欠けている。最後、思い切ってやろうとした所に落とし穴があった」と淡々と振り返った。 横綱が関脇以下に3連敗したのは平成15年名古屋場所の武蔵丸以来の緊急事態だが、「気持ちは参っていない。毎場所、千秋楽までやり抜く」と10日目以降の出場に意欲を見せていた。 しかし、打ち出し後、師匠の宮城野親方(元幕内・竹葉山)は「初日に痛めた左人さし指が折れていた」と明かした。部屋関係者によると、全治2週間の剥離骨折だという。「明日の相撲を見て判断する」と親方。横綱として初めて休場の窮地に立たされた。 5月15日は、美川憲一の誕生日 です。 ◇ 美川憲一( 本名:百瀬由一 <よしかず> 1946年生まれ ) 長野県諏訪市出身。 「美川」は、デビュー当時のプロダクションの担当者が岐阜出身だったことから、岐阜に由来する芸名を付けられたもの。岐阜県を流れる木曽川・揖斐川・長良川の三つの美しい川に因むとか。美川自身は長野県出身で、2歳からは東京に住んでおり岐阜とは何の縁もなかったが、「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込められている。 1966年、北海道出身で柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が作詞作曲した『柳ヶ瀬ブルース』が、120万枚を売り上げる大ヒットとなる。 1968年、『釧路の夜』がヒットし、第19回NHK紅白歌合戦に初出場。 1970年、『みれん町』『大阪の夜』『おんなの朝』と立て続けにヒット曲を出す。 『柳ヶ瀬ブルース』『新潟ブルース』『釧路の夜』とご当地ソングのヒットが続いていたが、『みれん町』のヒットにより、盛り場をテーマにした曲なども発売されるようになる。 1972年、『さそり座の女』がヒットし、星占いブームのきっかけともなったが、その後は目立ったヒット曲がなく、1974年の第25回NHK紅白歌合戦まで7年連続で紅白に出演していたが、翌年は落選。1977年10月、大麻取締法違反で逮捕される。1985年、大麻取締法違反で2度目の逮捕。判決は懲役1年6ヶ月、執行猶予3年。大麻事件以降はテレビの出演回数も激減し、スナックでの営業や地方の温泉などでの公演が続いた。 1980年代終り頃のものまねブームで、コロッケによる美川のものまねが受け、1989年のものまね番組でコロッケと初競演。これが大きな反響を呼び、美川復活のきっかけとなる。1990年、ちあきなおみと競演した金鳥のCMが話題となり、その後の美川ブームへと続いた。 1991年の第42回NHK紅白歌合戦にも、17年ぶりのカムバック出場を果たし、コロッケとのデュエットで『さそり座の女』を披露するにいたる。 以降は「芸能界のご意見番」などとして、ワイドショーやバラエティ番組にしばしば登場、タレントとしての地位を確保する。毒舌と軽妙なトークで、コンサートやディナーショーも中高年女性を中心に集客が見込めるタレントとなる。二度の逮捕で業界を干されていた美川へ、再起の機会を与えてくれたコロッケに対しては今も恩義を感じており、現在も大変仲が良く度々全国でジョイントコンサートを開催した。美川は「どん底から自分を復活させてくれたコロッケには感謝している」と度々発言している。 NHK紅白歌合戦には、復帰出演の1991年から2009年まで19年連続出場(通算26回)し、小林幸子との派手な衣装対決で毎年話題を集めた。(2010年からは落選) かつて、淡谷のり子から「憲ちゃんの声はこぶしがなく一本調子だから、シャンソンに合っている」と勧められた事がきっかけで、20代後半の頃からレコーディングやコンサートで、徐々にシャンソンを歌うようになっていった。 1999年から毎年シャンソンコンサートを開催。デビュー35周年記念、40周年記念、45周年記念では、それぞれシャンソンアルバムをリリース。 ◇ 今日の誕生花・シキザキベゴニア〔ベゴニア・センパフローレンス〕(シュウカイドウ科) 花言葉は、「幸福な日々」。 氏祭これより根岸蚊の多き 子規 ※ 明治35年の句。子規は翌年の「蚊の多き」を経験する事はなかった。 大いなる新樹のどこか騒ぎをり 虚子 地に落ちし葵踏みゆく祭哉 正岡子規 大学も葵祭のきのふけふ 田中裕明 ひととせの幸をかさねて夏はきぬ 吾瀬絽羅賛 散りながら咲く四季咲きのベゴニアの 今日を明日をしあわせにして 鳥海昭子 |

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