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平成25年4月22日(月)昨日:名古屋市長選、現職の河村たかし氏が3選果たす。 名古屋市長選は21日投開票され、無所属で地域政党・減税日本が推薦する現職の河村たかし氏(64)が、いずれも無所属の前自民党市議・藤沢忠将氏(43)、元愛知教育大非常勤講師・柴田民雄氏(48)(共産推薦)の2新人を破って3選を果たした。 市民税減税の継続や議員報酬半減の恒久化などを公約とする河村氏の新たな任期が始まることになる。 投票率は前回2011年より14.79ポイント低い39.35%だった。 ※ 河村曰く「民意が出た」。 でも、39.35%の民意って … 。 1950年4月22日、第1回ミス日本コンテストで山本富士子が栄冠をかちとる。 ◇ 山本富士子( 1931年12月11日生まれ )女優 大阪府和泉市出身。1950年、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本の栄冠に輝く。1951年にはミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。 1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」というものであったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍。 1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。 だが、山本はフリー宣言をする。同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「こんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声には全く耳を貸さなかった。永田は一方的に山本を解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作した。 この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。彼女はテレビドラマに活路を求めて、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開いた。 2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が、東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ喪主を務めた。会には芸能界や政財界などから約1000人が出席した。 ◇ DeNAにサヨナラ負け 守道監督「全部ウチより強い … 」 < DeNA 4―3 中日 > (21日・横浜スタジアム) DeNAに3連敗した高木守道監督(71)は、12回にサヨナラ打を浴びた8番手の新人井上を責めることはなかった。 「井上もああいう場面でかわいそうだった。これも一つの経験として後に生かしてくれればね … 」。 最後に新人を投げさせざるを得なかった、いっぱいいっぱいの継投をそう振り返った。だが、守道政権初の借金5には「今セ・リーグの5チームは全部ウチより強いよ。だから負ける。でもこのままズルズル行くと取り返しがつかん」と危機感をあらわにした。 ※ 常勝軍団を築き挙げるには緻密な戦略を要す。壊すのは誰でもできます。 ◇ 今日の誕生花・ヤマツツジ(ツツジ科) 花言葉は、「燃える思い」。 蛤の吐いたやうなる港かな 子規 ※ 中国では古く、蜃気楼とは巨大な蛤が吐いたものと考えられた。 手をこぼれて土に達するまでの種 虚子 しんかんと火の島燃ゆる山躑躅 水原春郎 窓あけて見ゆる限りの春惜しむ 高田蝶衣 この山の裏山までも躑躅咲く 今瀬剛一 少し酸っぱく少しは甘くかみたりき ヤマツツジ燃え想いは咲けり 鳥海昭子 |

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