今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成25年10月16日(水)昨日:みのラジオ番組、スポンサー2社がCM自粛。

 日本テレビ社員だった次男が窃盗容疑などで逮捕され、処分保留となっている司会者・みのもんたさん(69)がパーソナリティーを務める文化放送のラジオ番組「みのもんたのウィークエンドをつかまえろ」で、スポンサー2社が、事件発覚以降、同番組へのCM出稿を自粛していることが15日、文化放送の定例記者会見で明らかになった。 三木明博社長は「なるべく早く自粛が解除されるよう、スポンサーに丁寧に説明したい」と話した。


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 1943年10月16日、所謂「最後の早慶戦」と呼ばれる試合が行なわれました。

 1943年(昭和18年)の10月16日、東京は青空だった。70年前のこの日、早稲田大学と慶応大学の野球の試合が東京・戸塚球場で行われた。学徒出陣壮行の「最後の早慶戦」と呼ばれる試合だ。 戦局は厳しくなり、リーグは既に解散している。敵国スポーツの野球への風当たりは強かった。それでも学徒は、戦地に赴く前にもう一度だけ、早慶戦をやりたかった。試合は早稲田の圧勝に終わった。が、そんなことはもはや関係なかったのだ。(スコアは10:1)

 当時の回想をまとめた「最後の早慶戦」(ベースボール・マガジン社)によると、早稲田、慶応の区別なく、みんな泣いた。「試合中は忘れていたが、やはり戦争に行くのかと現実に引き戻された」「もう生きて帰れない。野球も終わりだ」。どれほど切なかったか。


 ◇ 東京六大学野球の中止 「最後の早慶戦」への熱意

 日中戦争(支那事変)の開始に伴い強まっていた戦時色は、1941年の太平洋戦争開戦によりさらに激化していた。敵国アメリカ合衆国で生まれた野球は軍事教練に関係がないこともあって、敵性スポーツとして弾圧の対象となっており、中等学校野球・都市対抗野球は、1942年限りで中止に追い込まれていた。 そして東京六大学野球でも平日の試合開催禁止から始まって、1940年から秋季リーグ戦は各校1回戦総当たり、1日3カード実施=約1ヶ月で日程を消化させられるという縮小状態に追い込まれていた。

 そして、1942年10月25日の秋季リーグ戦・早大 vs 立大戦を最後に、1943年4月7日にはついに文部省がリーグ解散令を強行。この為、東京六大学野球加盟校は次第に活動停止に追い込まれてしまったものの、早大と慶大の両校は辛うじて練習を続けていた。

 太平洋戦争の開始直後は華々しい戦果を挙げていた日本軍も、じきに各戦地で敗退を繰り返していくようになった。1943年には日本近海でアメリカ合衆国の潜水艦が日本の資源輸送船を襲うようになるなど、すでに戦局も深刻なものになっており、10月には法文学部系学生の徴兵延期停止の命令が下るまでになった。

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 ひとたび戦地に赴けば、生きて故郷の、そして学舎の土を踏むことは叶わないかも知れない。せめて最後に試合を … 、出来るならば早稲田と試合をしたい … 。 こうした思いから、慶大野球部主将・阪井盛一は、部長・平井新を通じて塾長・小泉信三に早慶戦の開催を申し出た。このとき文部省からの通達により、対外試合の実施は大学総長の方針に任せられていたのである。 出陣する学徒たちに何か餞を、それには早慶戦こそがふさわしい … 、そう考えた小泉はこの申し出を快諾した。阪井・平井の両名は連盟理事の早大野球部顧問・飛田穂洲(同部初代監督)を訪れ、学生野球の聖地である明治神宮野球場で早慶戦を行うことについて申し入れた。

 小泉のこの一戦にかける決意は固く、文部省を通さねばならない神宮球場の使用については自分が交渉に当たっても良い、とまで言った。この申し出に早大野球部は大いに喜び、慶大野球部も急遽帰郷中の選手を呼び戻して練習を再開した。ところが、試合実現に大きな障壁が立ちはだかった。早大当局が難色を示したのである。 軍部や文部省の弾圧に抗しきれず、試合の申し出を応諾出来ないでいた。そうこうしている内に学徒出陣の日は迫る。

 早大野球部は飛田だけでなく、部長・外岡茂十郎、マネージャー・相田暢一らが大学当局を必死に説得するが、当局は煮え切らない態度を見せ続けるのみだった。実はこの年の春にも慶應義塾から早慶戦開催の申し出があったが、同様に大学当局の反対に遭い実現できずに終わっていた。田中穂積・総長が難色を示し、外岡らが必死の説得工作を行い、報國隊の部隊長会議で挙行賛成が過半数を上回る結果となっても、結局、田中総長は開催を許さなかった。

 こうした事情を察して慶大側も、「試合場が神宮で都合が悪ければ、日吉の慶大グラウンドでも早大の戸塚球場でも構わない」との配慮を見せた。それでも早大当局は、戸塚球場で実施して事故でも起きたら誰が責任を取るのか、と一向に試合実施を認めない。ついに早大野球部は大学の反対を押し切り野球部として責任を持って試合を挙行することを決意。それでも、軍部・官僚の機嫌を取り、何としても挙行を阻もうとする大学側との厳しいやりとりは、試合当日まで及んだ。

 試合当日の10月16日が間近に迫っても、早大当局は試合を許可しなかった。ところが新聞に10月16日13時、試合開始との記事が出た。出し抜かれた形になった早大当局は、試合開始を午前8時からとし、正午までには試合を終えるよう早大野球部に要求したが、ひとたび開始にこぎ着けたのだから選手たちがこれに応じるはずもなかった。練習を行い慶大野球部と応援学生たちを迎え入れ、正午に試合が開始された。 この試合は一般には公開せず、両校学生と部員の家族、野球部OBなど関係者のみの観戦だった。 戸塚球場に着いた小泉塾長は、早大側による特別席への案内を断り、「私は学生と一緒の方が楽しいのです」と学生席に着席した。


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 ◇ 映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』(2008年8月23日公開)

 2008年5月15日、慶應義塾大学三田キャンパス(東京)にて、同5月19日には早稲田大学大隈講堂で先行試写会が開催された。 太平洋戦争中の1943年10月16日に行われた野球の「出陣学徒壮行早慶戦(通称:最後の早慶戦)」の開催に尽力した関係者、また徴兵を前に「最後になるかもしれない」野球試合に臨む選手たちの生きざまを通して、情熱を持って目標に挑むことの素晴らしさ、平和や命の尊さを問いかけた作品。

 監督:神山征二郎 撮影監督:阪本善尚 脚本:古田求 音楽:和田薫
 主題歌: 鬼束ちひろ「蛍」(ユニバーサルシグマ・A&M RECORDS)



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   ◇ 今日の誕生花・ヒヨドリバナ(キク科)

   花言葉は、「清楚」。

   ひろびろと日の落ちかかる苅田哉   子規

   爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え   虚子

   人はみな旅せむ心鳥渡る   石田波郷

   すだれなす雨に鵯花けぶる   上村占魚

 さがしものみつけてもらったようである ヒヨドリバナの清楚な身振り 鳥海昭子


 【参照】10月16日、田中久重の誕生日(1799年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/53682338.html

 【参照】10月16日、オスカー・ワイルドの誕生日(1854年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/51350111.html

 【参照】10月16日、大山のぶ代の誕生日(1936年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/49552063.html

 【参照】10月16日、世界食糧デー(1945年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/45078737.html

 【参照】10月16日、阪神タイガース日本一へ(1985年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/37430673.html

 【参照】10月16日、セルロイド人形市(2006年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/21777534.html

 【参照】事故直後のダイアナ元妃の写真開示(2007年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/37432156.html

 【参照】10月16日、「大鹿歌舞伎」秋の定期公演(2011年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/52668744.html

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