今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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1月5日、水師営会見

 平成26年1月5日(日)昨日:韓国で「親日」教科書採択に抗議運動、撤回続々。

 韓国で「親日的」と批判された歴史教科書が修正を経て出版されることになり、一部の高校が採択を決めたものの、市民団体などの反発を受け、取り消す事態が相次いでいる。 この教科書は、韓国の出版社「教学社」の高校用韓国史。ニューライト(新保守派)と呼ばれる大学教授らが執筆し、昨年8月、教科書検定に初めて合格した。日本統治時代の経済発展や規律改善を評価したことから、歴史観を巡る論争を巻き起こしたが、教育省から行き過ぎた「親日」表現や事実関係の誤りなど251件の修正勧告を受けて大幅修正され、同12月、出版が承認された。

 複数の韓国メディアによると、承認後、ソウルや釜山などの約15校が採択を決めた。だが、市民団体らが学校前で「本気で親日教科書を使うつもりか」などと抗議運動を繰り広げ、保護者や学生もこれに加わった。混乱を恐れた学校側は撤回に動き、3日までに10校が他社教科書への変更を決めたという。

 ※ 人の心が抱える「恨み」は、死ぬまで続くもの。論理で解消できぬもの。



 1905年1月5日は、乃木大将とステッセル将軍との水師営会見の日 です。

 日露戦争で要衝旅順を攻略した乃木大将とロシア軍のステッセル将軍が現地
 水師営(遼寧省大連市旅順)で会見し、旅順停戦条約をむすぶ。

 【水師営】(すいしえい、シュイシーイン):中国清朝・北洋艦隊(清国での呼称:北洋水師)隊員の駐屯地の意味。元々は清国各地の海岸や河の軍港近くにあった。水師とは清時代に、各地の海岸などに設立されていた水軍を指し、営とは軍の駐屯地のことであった。


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 ◇ 乃木将軍を賛美する物語「水師営の会見」〔小学校初国語教科書より〕

 明治三十八年一月五日午前十一時、この時刻を以て吾が攻団軍指令官乃木大将と、敵の司令官ステッセル将軍とが会見することになった。会見所は、旅順から北西四キロばかりの地点、水師営の一民屋である。附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていた。この一民屋だけが残っていたのは、日本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたからである

 前日、壁に残っている弾の痕を、ともかくも新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真っ白な布を掛けた。 下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景にほほえんだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、「あの新聞紙を、白くぬっておくように」といった。新聞紙は、露軍敗北の記事で満たされていたからである。

 さきに一月一日、ステッセル将軍は、わが激しい攻撃に守備しきれなくなって、ついに旅順開城を申し出て来た。 乃木将軍はこの旨を大本営に打電し、翌日、両代表は、旅順開城の談判をすましたのであった。 その夜、山県参謀総長から、次のような電報があった。 「敵将ステッセルより開城の申し出をなしたるおもむき伏奏せしところ、陛下には、将官ステッセルが祖国のために尽くしたる勲功をよみたまい、武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。右つつしんで伝達す」。 そこで三日、乃木将軍は、津野田参謀に命じて、この聖旨を伝達することにした。命じられた津野田参謀は、二名の部下をつれて、ステッセル将軍のところへ行った。

 ステッセル将軍は、副官にいいつけて、軍刀と、帽子と、手袋とを持って来させ、身支度を整えてから不動の姿勢を取った。津野田参謀が、御沙汰書を読みあげると、副官は、これをロシヤ語に訳して伝達した。 ありがたく拝受したステッセル将軍は、「日本の天皇陛下より、このようなもったいないお言葉をいただき、この上もない光栄であります。どうぞ、乃木大将にお願いして、陛下に厚く御礼を申し上げてください」といって、うやうやしく挙手の礼をした。

 乃木将軍は、たむかひしかたきも今日は大君の恵みの露にうるほいにけりと詠む

 四日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけた。長い間篭城していた将士たちに、この贈り物がどれだけ喜ばれたことか。 会見の当日は、霜が深かったが、朝からよく晴れていた。

 十一時十分前に、スッテセル将軍が会見所に着いた。白あし毛の馬に、黒い鞍を置いて乗っていた。その後に、水色の外套を着た将校が四騎続いて来た。 土塀で囲まれた会見所に入り、片すみに生えていたなつめの木に、その馬をつないだ。 まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着した。 乃木将軍は、黒の上衣に白のズボン、胸には、金鵄勲章が掛けられてあった。静かに手をさしのべると、ステッセル将軍は、その手を堅くにぎった。思えば、しのぎをけづって戦いぬいた両将軍である。

 乃木将軍が、「祖国のために戦っては来たが、今開城に当たって閣下と会見することは、喜びにたえません」と挨拶すると、ステッセル将軍は、「私も、十一箇月の間旅順を守りましたが、ついに開城することになり、ここに閣下と親しくお会いするのは、まことに喜ばしい次第です」と答えた。一応の儀礼がすむと、一同は机を取り囲んで着席した。

 ステッセル将軍が、「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことです。殊に工兵隊が、自分の任務を果たすまでは、決して持ち場を離れない偉さに、すっかり感心しました。」
というと、乃木将軍は、「いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」と応えた。

 「しかし、日本軍の二十八サンチの砲弾には、弱りました。」
 「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです」
 「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戦死したのです。」 コンドラテンコ少将は、ロシヤ兵から父のようにしたわれていた将軍で、その日もロシヤ皇帝の旨を奉じて、部下の将士を集めて、激励していたさなかであった。

 「それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん変わって来ましたね。変わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう」 「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした」 「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です」 「わが二十八サンチにも驚かれたでしょうが、海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、面くらいましたよ」

 うちとけた両将軍の話が、次から次へと続いた。やがてステッセル将軍は、口調を改めて、「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戦死なさったそうですが、お気の毒でなりません。深くお察しいたします」と、ていねいに悔やみをのべた。「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死をしました。祖国のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう」と、乃木将軍はおだやかに語った。

 「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません」 それからステッセル将軍は、次のようなことを申し出た。「私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼っています。今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、すぐれたアラビヤ馬です。ついては、今日の記念に、閣下にさしあげたいと思います。お受けくだされば光栄に存じます」乃木将軍は答えた。

 「閣下の御好意を感謝いたします。ただ、軍馬も武器の一つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。一応軍で受け取って、その上、正式の手続きをしてからいただきましょう」 「閣下は、私から物をお受けになるのが、おいやなのでしょうか。それとも、馬がおきらいなのでしょうか」 「いやいや、決してそんなことはありません。私も、馬は大すきです。さきに日清戦争の時、乗っていた馬が弾でたおれ、大変かわいそうに思ったことがあります。今度も、やはり愛馬が弾で戦死しました。閣下から馬をいただけば、いつまでも愛養いたしたいと思います」 「あ、そうですか。よくわかりました」 「ときに、ロシヤ軍の戦死者の墓は、あちこちに散在しているようですが、あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、わかることなら、将士の氏名や、生まれた故郷も書いておきたいと思いますが、それについて何か御希望はありませんか」 「戦死者まで、深いお情けをいただきまして、お礼のことばもありません。ただ、先ほども申しましたが、コンドラテンコ少将の墓は、どうか保存していただきたいと思います」 「承知しました」 やがて用意された昼食が運ばれた。戦陣料理の乏しいものではあったが、みんなの談笑で食事はにぎわった。 食後、会見室から中庭へ出て、記念の写真を取った。

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 明治40年、日本は各地に散在するロシア将兵の墓を旅順に集めて、ロシア風の墓地と顕彰碑を作って日本政府主催による盛大な慰霊祭を行いました。ロシア正教とロシア軍関係者を招き、乃木大将は日本代表として参列しました。明治42年に日本軍の戦没者を慰霊する旅順白玉山表忠碑が建てられ慰霊祭が行われました。日本軍の慰霊祭より先にロシア側の戦没者慰霊祭を行っている。


 『水師営の会見』 作曲者:岡野貞一


 ◇ 水師営の会見 作詞者:佐佐木信綱 

1 旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 
  乃木大将と会見の 所はいずこ水師営 

2 庭に一本なつめの木 弾丸あともいちじるく 
  くずれ残れる民屋に いまぞ相見る二将軍 

3 乃木大将はおごそかに みめぐみ深き大君の 
  大みことのり伝うれば 彼かしこみて謝しまつる

4 昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 
  われはたたえつ彼の防備 彼はたたえつわが武勇 

5 かたち正していい出でぬ 「この方面の戦闘に 
  二子をうしない給いつる 閣下の心いかにぞ」と 

6 「二人のわが子それぞれに 死所をえたるを喜べり 
  これぞ武門の面目」と 大将答え力あり 

7 両将昼食ともにして なおもつきせぬ物語 
  「われに愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし」 

8 「厚意謝するに余りあり 軍のおきてにしたがいて 
  他日わが手に受領せば 長くいたわり養わん」 

9 「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左 
  砲音(つつおと)たえし砲台に ひらめき立てり日の御旗


 ◇ 乃木将軍の漢詩「山川草木」

 1904年(明治37年)6月7日、乃木希典は、長男・勝典が戦死した南山の戦跡を訪ね、「山川草木」の詩を吟ず。 山川草木轉荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽 。

 【参照】9月13日、乃木祭
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/19453188.html



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   ◇ 今日の誕生花・ウメ(バラ科)

   花言葉は、「澄んだ心」。

   人の手にはや古りそめぬ初暦   子規
   ※ 莫嫌襟上斑斑色 是妾燈前滴涙縫 。

   初空や大悪人虚子の頭上に   虚子
   ※ 毀誉褒貶の激しき虚子、虚心坦懐ならず真っ向微塵に悪党を貫く。

   梅一輪一りんほどのあたゝかさ   嵐雪

   寒の梅挿してしばらくして匂ふ   ながさく清江

   白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり   飯田龍太

 澄みわたる正月五日庭の梅 凛々としてひとつひらきぬ  鳥海昭子

 ※ 不是一番寒徹骨 争得梅花撲鼻香


 【参照】1月5日、いちご世代の日
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/39346747.html

 【参照】1月5日、夏目漱石の誕生日(1867年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/26492497.html

 【参照】1月5日、グレース・ケリー婚約発表(1956年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/49989751.html

 【参照】1月5日、元 ちとせ の誕生日(1979年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/52936506.html

 【参照】1月5日、村山富市首相、退陣表明(1996年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/46365818.html

 【参照】1月5日、第144回芥川・直木賞の候補作(2011年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/51659964.html

 【参照】1月5日、林 光の命日(2012年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/53877890.html

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