|
平成26年3月22日(土)本未明:道塞ぎ「金出せ」自転車の男性殴りバッグ奪う。 22日午前4時20分頃、埼玉県上尾市栄町の県道で、自転車に乗っていた同市のパート男性(76)が、前から来た男に顔を殴られ、現金約4000円などが入った手提げバッグを奪われた。男性は顔に軽傷。上尾署は強盗傷害事件として調べている。 発表によると、男は道を塞いで「金を出せ」と脅したという。20歳代ぐらいで身長約1メートル70。茶色の野球帽をかぶり、眼鏡を掛けていた。 ※ イヤな世の中だね、若い世代がピンチ。日本の将来は真っ暗闇か … 。 本日3月22日は、丸山眞男の生誕百年 です。 ◇ 丸山眞男(まさお、1914年〜1996年)政治学者 思想史家 東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻は日本政治思想史。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、近代主義者を自称。 ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府に生まれた。父の友人・長谷川如是閑らの影響を受け、大正デモクラシーの潮流のなかで思想形成がなされた。四谷第一小学校、府立一中(現・都立日比谷高校)を経て、旧制一高に進学。1934年(昭和9年)に一高を卒業後、東京帝国大学法学部入学。「講座派」の思想に影響を受ける。1937年(昭和12年)卒業。在学中(1936年)に懸賞論文のために執筆した「政治学に於ける国家の概念」が認められて助手となる。 日本政治思想史の研究を始める。1940年(昭和15年)、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を『国家学会雑誌』(54巻2-5号)に発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる。翌年、『近世日本思想史における「自然」と「作為」制度観の対立としての』を『国家学会雑誌』に発表。 1944年(昭和19年)3月、小山ゆか里と結婚。7月、「国民主義理論の形成」を『国家学会雑誌』に発表(後に「国民主義の「前期的」形成と改題」)。 30歳の時に、大学助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年(昭和20年)3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、9月に復員。「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べたことがある。この経験が、戦後、「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだという指摘がある。 戦後は大学に戻り、1946年(昭和21年)、『世界』5月号に「超国家主義の論理と心理」を発表。以後、戦後民主主義思想の展開において、指導的役割を果たす。1950年(昭和25年)より東京大学法学部教授。 サンフランシスコ平和条約をめぐる論争では「平和問題談話会」の中心人物として、1960年(昭和35年)の安保闘争を支持する知識人として、アカデミズムの領域を越えて戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言を行い、大きな影響を与えた。これらの時事論的な論述により、「アカデミズムとジャーナリズムを架橋した」とも評された。後年、本人は現実政治の分析を「夜店」、日本政治思想史の研究を「本店」と称したことがある。 明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し、特に日本近代を代表する思想家として福澤諭吉を高く評価。日本学士院ではもっぱら福沢の研究を行い、日本思想史研究における生涯の大半を福沢の研究に費やした。丸山の『福沢諭吉論』はそれ以降の思想史研究家にとって、現在まで見過ごすことのできない金字塔的な存在となっている。 丸山のゼミナールからは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。彼らは「丸山学派」と言われ、マルクス主義の政治学に対する近代政治学として日本の政治学界において一大勢力をなした。日本政治思想史専攻以外にも、篠原一、福田歓一、坂本義和、京極純一、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けている。 評論家の小室直樹などは丸山眞男を師と仰ぎ、作家・庄司薫、異色官僚の天谷直弘、社会民主連合創設者の江田五月、教育学者の堀尾輝久なども丸山ゼミの出身だった。没後も政治学界や言論界にはなお崇拝者、信奉者が多く、戦後日本を象徴する進歩的知識人の一人だった。 1960年代後半になると、欺瞞に満ちた戦後民主主義の象徴として、全共闘の学生などから激しく糾弾された。1970年、肝機能障害により入院。心労と病気が重なったことで、1971年(昭和46年)に東大を早期退職。1974年(昭和49年)に東京大学名誉教授。1978年(昭和53年)には日本学士院会員となる。 1993年には肝臓癌と診断され、長年版元より依頼されていた『丸山眞男集』(岩波書店)を刊行中の1996年(平成8年)8月15日(敗戦の日)に死去。家族のみで密葬を行い、約1週間後に死去が公表された。8月26日に「偲ぶ会」が新宿区信濃町の千日谷会堂で行われた。 ◇ 丸山眞男への批判、もろもろ … 鶴見俊輔とは、雑誌『思想の科学』創刊以来の付き合いがあり、丸山は終生、思想の科学研究会の会員であったが、同研究会には方法論がない、という批判をしていた。 吉本隆明は丸山を、「上空飛行的思考」として批判した。吉本の丸山批判は、当時広範囲にわたって影響を及ぼした。 東大紛争では、全共闘の学生から、東大教授という立場に寄りかかった権威主義者、大衆から遊離した貴族主義者であるとして批判された。 丸山の議論は西欧にあって日本にないものを指摘する「欠如理論」であるという批判もあった。 日本ファシズム論の定義が曖昧であるという批判があり、谷沢永一も以下のように批判した。日本ファシズムの概念規定が『増補版 現代政治の思想と行動』のどこにもでてこないこと。同書において、日本国民を二分し、第一類型には工場主や自作農、学校教員など、第二類型には都市における文化人やジャーナリスト、学生層などと規定したこと。日本社会の中堅層である前者に対し、日本にファシズム運動があったか否かの検証もないまま、ファシズムの社会的基盤であると断定し、かつ疑似インテリゲンチャもしくは亜インテリゲンチャと呼んで、軽蔑していること。そして以上の理由から丸山眞男を差別意識の権化とした。 1990年代後半以降には、姜尚中、米谷匡史あるいは酒井直樹等のようなポストコロニアリズムの立場から、「国民主義」や、ナショナリストとしての一面を批判されている。しかし、このような見方に対しては、斎藤純一、葛西弘隆等のような思想史研究の立場からは、確かに丸山は1950年代頃までの論考で明治期の日本国のナショナリズムを肯定的に評価する面があったにせよ、それ以降においては多元主義あるいは市民社会をより重視するようになっていたとする指摘がある。日本政治思想史研究に対しては、近世思想史の解釈が恣意的であるとの批判がある。また、経書学・日本思想史の立場から、漢籍読解の稚拙さを指摘する論考もある。 丸山のゼミナール出身である橋川文三は、師を継承しながらも、論文『昭和超国家主義の諸相』にて、丸山に批判を加えた。 梅原猛は、思想的伝統が日本には形成されなかったと定義する丸山に対し、『法華経』などの古典などを読まず、また、日本の美術、文学、風俗を調査せずにその様な断定を行うのは許しがたいと批判した。 水谷三公は学者としての丸山を尊敬しつつも、その政治的言説が、アメリカを批判して北朝鮮やソ連に傾くものだったとし、「外交オンチ」「政治的蓄膿症」と言われても仕方がないと評した。 志村五郎は、丸山の漢学や音楽に関する会話や著作を「一知半解」であることを記述をあげて指摘するほか、特に朝鮮戦争に関して丸山にとって都合が悪い史実(北朝鮮側から開戦)を40年以上にわたり「不可知論」で誤魔化し続けた事実を指摘し、そこに丸山のジャーナリスト的な資質の根本的な限界を見出した。 ☆ 日本でしか通用しない「鎖国的思念」を拒絶せよ。 ☆ 市民よ、横につながれ! これこそ世に変革をもたらす黄金律なのだ。 ※ その言論が、戦後日本をミスリードしてきたとされる丸山眞男。功罪相半ばする、その彼が今の世にありせば、如何なる言葉を若者らに投げかけるのだろうか? 若者らの閉塞感を打破すべき如何なる言葉があるのだろうか? 慈しみあふるる言葉のあれかしと 仰ぎみる空まさをなりけり … 。 ◇ 今日の誕生花・バイモ(ユリ科) 花言葉は、「才能」。 顔を出す長屋の窓や春の雨 子規 蓴(ぬなわ)生ふる水の高さや山の池 虚子 ※ 蓴は蓴菜(じゅんさい)。深さを高さと云い替える朦朧体? 夢殿に今年の燕来てゐたり 米澤吾亦紅 ポストまで歩けば二分走れば春 鎌倉佐弓 放送の記念日と今朝聞きしより バイモ一本柱に掛ける 鳥海昭子 |

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事




