今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 映画『沈黙〜Silence〜』を観て …   

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 「踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため
 十字架を背負ったのだ。」 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」



 この映画は、遠藤周作の小説『沈黙』を原作とし、マーティン・スコセッシが監督、ジェイ・コックスが脚本を手掛けた。 出演はアンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライヴァー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシらである。 日本では、KADOKAWAの配給で2017年1月21日に公開された。劇中では、BGMの音楽はほとんど流れない。


 ◇ 梗概

 17世紀の江戸時代初期、ポルトガルでイエズス会の宣教師であるセバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)とフランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)のもとに、日本でのキリスト教の布教を使命としていたクリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が日本で棄教したという噂が届いた。尊敬していた師が棄教したことが信じられず、二人は日本へ渡ることを決意する。

 二人は中国・マカオで日本人漁師で、キリシタンであるキチジロー(窪塚洋介)の手引きにより、日本のトモギ村に密入国する。そこでは、隠れキリシタンが奉行の弾圧に苦しみながらも信仰を捨てずに祈り続けていたのだ。 司祭はなく、「じいさま」と呼ばれる村長のイチゾウ(笈田ヨシ)だけが洗礼のみを行えるという状況だった。 二人は村人達と交流を交わし、布教活動を行っていく。

 キチジローは、かつての弾圧で踏み絵を踏み棄教したが、自分以外の家族は踏み絵ができず、彼の目の前で処刑されたのだという。罪の意識を背負い苦しむキチジローは、自分の村である五島列島にも二人の宣教師を招き布教をさせる。そこで、フェレイラの手掛かりを掴む事が出来た。

 しかし、キリシタンがトモギ村に潜んでいることを嗅ぎ付けた長崎奉行・井上筑後守が村に訪れ、二人の宣教師の身柄を要求する。村人達は必死に匿ったが、その代償としてイチゾウ、キチジロー、そして敬虔な信者であったモキチ(塚本晋也)を含む四人の村人が人質となった。 奉行は踏み絵だけではキリシタンをあぶり出すことは困難と考え、「イエス・キリストの像に唾を吐け」と強要する。四人の内、キチジローを除く三人は唾を吐けず、処刑されてしまう。自分達を守るために死んでゆく信者たちを見て、ロドリゴらは苦悩する。


 「なぜ神は、我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか … ?」


 『沈黙』(1971年:東宝) 監督:篠田正浩 脚本:遠藤周作&篠田正浩 音楽:武満 徹
 https://www.youtube.com/watch?v=5imdEkxtvAQ


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 ◇ スコセッシの「思い入れ」と、現実との桎梏

 本作の構想は、スコセッシ氏の「念願の企画」と言われてきた。 その間、幾多の紆余曲折があったやに聞くが、2013年4月、『沈黙』の撮影が2014年7月から台湾で開始されると発表された。 2014年1月までにスコセッシは、台湾でロケハンを始めており、撮影は同年夏開始予定とされていた。プロデューサーのアーウィン・ウィンクラーによると、製作が長く難航したのは、17世紀の日本という舞台を再現するのが非常に高くつくためで、ロケ地・台湾は、予算が低く抑えられるために選ばれたという。 遠藤周作の原作との出会いから、28年の時を経て完成したマーティン・スコセッシ監督の『沈黙〜Silence〜』。 監督がこの映画に託した思いとは … 。



 ◇ 映画『沈黙〜Silence〜』が問い掛けるもの

 遠藤周作が『沈黙』を出版したのは1966年。17世紀江戸時代初期のキリスト教弾圧の下で苦しみ、棄教するポルトガル人宣教師を描いたこの小説は、発表当時、カトリック教会から糾弾される一方、文学作品として世界的に高い評価を得た。 マーティン・スコセッシ監督がこの小説と出会ったのは刊行から22年後の88年、監督作の『最後の誘惑』が公開されて間もない頃だ。一人の人間として悩み苦しむイエス・キリストを描いたこの映画は、キリスト教団体から激しい非難を浴び、上映禁止運動が起きていた。 そして、『最後の誘惑』とは別の形で、信仰とは何かというテーマに真摯に迫った遠藤の小説に、スコセッシ監督は深い感銘を受け、映画化を決意したのだ。 だが、その実現には実に28年の歳月を要したのだ。

 スコセッシ監督は、何故それほど強く『沈黙』の映画化にこだわったのか。映画『沈黙〜Silence〜』日本公開(1月21日)を目前に控えた来日会見でスコセッシ監督は、原作そして自分にとって特別なプロジェクトとなったこの映画に関する思いを語ってくれた。

 「『最後の誘惑』は批判を浴びましたが、聖職者向けのある上映会の後で、エピスコパル派の大司教、ポール・ムーア氏がこの映画を気に入ったと言ってくれました。そして私に、ぜひ読んでみなさいと下さったのが遠藤周作の『沈黙』でした。この小説は、『最後の誘惑』とはまた違う形で信仰とは何なのかを問う作品だったから … 」

 熱心なカトリック教徒の家庭で生まれ育ち、神学校で学んだこともあるスコセッシ監督にとって、真の信仰とは何かという問いは常に大きなテーマだった。 「『最後の誘惑』が激しい非難の的になっていた時期だったので、私自身、自らの信仰心を見失っていました。何か違和感を持っていたのです。遠藤の『沈黙』を読んで、自分自身の内面で、もっと深くこの問いを掘り下げ、探究しなければという気持ちになれたのです」。

 しかし、映画化は一筋縄ではいかなかった。「映画化したいと思ったものの、どのように造るべきか分からなかった。作品の解釈も、日本文化の理解も十分ではなかったし、当時の私自身の宗教観も揺らいでいました。実際に映画が完成するまでは壮大な試行錯誤の旅、学びの旅でした」。

 ※ 信仰とは、決して組織団体によるものではなくて、あくまでも自心によるものなのだ。
 そしてその信仰は、宗教の本質に通底するものでなくては、眞正のものとは言い難いのです。

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 闇、恐ろしく深ければ … 、そこに差し込む仄かなる光は、まばゆきものとならむ。



 ◇ スコセッシが示した日本への敬意に窪塚洋介ら深く感謝 (2017年1月17日)

 巨匠マーティン・スコセッシが遠藤周作の小説を映画化した「沈黙 サイレンス」のジャパンプレミアが1月17日、東京・TOHOシネマズ六本木ヒルズで開催され、スコセッシ監督をはじめ、出演の窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、プロデューサーのエマ・ティリンガー・コスコフ、脚本を手がけたジェイ・コックスらが出席した。ひと際大きな歓声と拍手で迎えられたスコセッシ監督は、場内を見回すと「ありがとう」と何度も繰り返して、熱烈な歓迎に応えた。

 主要日本人キャストとスコセッシ監督が一堂に会するのは久しぶりのため、スコセッシ監督はキャスト陣に視線を移すと「こうやって東京で、一同に再会できるというのは感慨深い。久しぶりの方もいるが、この作品を二年間かけて編集してきた。二年間かけてお付き合いしてきたので、昨日会ったばかりの感覚でおります」とニッコリ。さらに、彼らの演技を「本当に皆さん素晴らしい芝居を見せてくれた。これは心の底から言えることですが、頑張り、力、そして深みを見せてくれた」と称えた。

 そんな巨匠の思いに応えるように、窪塚は「マーティン・スコセッシ監督、どれだけ日本に来てくれるんですか。この30年、製作のために、どれだけこの人が日本に来たと思いますか? どれだけ日本に、そして遠藤周作さんの思いに、ひいては皆さんに、どれだけの敬意を払ってくれているか。極東のどこの馬の骨かもわからない俺に、毎日どれだけ敬意を払ってくれていたか。溢れるようなその敬意を僕らは感じて、毎日夢のなかで仕事をしているみたいでした」と熱弁を振るった。さらに「どれだけ山の上が厳しい寒さだろうが、どれだけ正座を長いことさせられて膝が痛かろうが、どれだけ長いこと待ち時間があろうが、そんなものは幸せの一部と思うくらい、本当に幸せな時間を過ごさせてもらいました」と言葉を続け、「今日この場所が僕の役者人生の最良の時です。そこに立ち会ってくれて感謝します。本当に幸せです、ありがとうございました」と真摯な眼差しで語った。

 さらに塚本も、「モキチ(塚本の役名)は敬虔なクリスチャンですが、僕自身は特別な信仰はないので、自分のなかで『スコセッシ教』というものを作らせてもらいました。スコセッシ監督のためなら、なんでもできます。磔(にされるシーン)の時も、もしかして死んじゃってもしょうがないかなというくらい。すべてを捧げて、監督の言うことは全部聞いて、なるべく頑張るという姿勢でやらせていただきました」と身を乗り出す。そして「僕は『野火』という映画も作ったんですけれども、未来の子どもたちが心配な気持ちが強くなってきているので、未来の子どもたちのことを祈るような気持ちで演じた。スコセッシ教と未来の子どもの合わせ技にして演じました」と客席に語りかけた。

 キャスト陣の言葉ににこやかにな表情で耳をすまし、途中何度も「ありがとう」と感謝していたスコセッシ監督。深い信頼を寄せ合うキャストとスタッフの姿に、客席も終始和やかな空気で聞き入っていた。


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 ◇ 幸いなるかな信仰心うすき者、汝まさにこれより回心の光に包まれむ

     〜〜 キチジローを自認した遠藤周作の潔さ 〜〜

 監督は言う。 長い歳月を経て人生経験を積み重ねながら作り上げていった作品だが、映画が完成しても、それで終わりではなく、これからこの映画を心に抱えて共に生きていくだろう、と。 この作品は、制作の過程で、自らが人間存在に関する本質的な問い、信仰、疑念を突き詰めたという意味で、自分にとって、他の作品とは違う特別な作品になっているそうだ。 遠藤周作の原作は決して、宗教的ドグマを説くのではなく、信じることの苦しみ、疑いを描いているからこそ「包括的」なのだ、と監督は強調する。 「われわれは全てを疑う存在なのです。どうして生まれてきたのか、人生の意味をも疑う。だからこそこの小説は私を強く引き付けたのです」。 『沈黙』が描く信仰の世界は、父権的、権威的なキリスト教ではなく、弱者を受け入れる慈悲の心、母性的なものであり、だからこそ日本の風土にも、隠れキリシタンたちにも受け入れられたのだろうと監督は言う。

 『沈黙』の物語で要となるのは、何度も踏み絵を踏んでは、宣教師ロドリゴに許しを請う「キチジロー」だ。「弱き者、醜き者」であるキチジローの存在によって、江戸時代の隠れキリシタンの物語が、現代人も共鳴できる普遍的な物語として迫ってくる。 映画では、キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、オーディションで選ばれた個性的な日本人俳優たちの存在が強烈な印象を残す。スコセッシ監督の会見に先立ち、外国人特派員協会で、窪塚、長崎奉行井上を演じたイッセー尾形、その通辞 (通訳) 役の浅野忠信が、役作りやスコセッシ監督の演出などについて語った。

 「原作には弱き者とあるが、あまりにも何度も踏み絵を踏むので、弱いか強いか分からない。表裏一体という感じがした」と、窪塚は言う。「『転ぶ』ことと棄教とは違う。キチジローは転べば起き上がり、起き上がったときにはまた信じています。遠藤周作は、これは僕自身だと言ったそうですが、キチジローは自分の心の中に自然と湧き上がる気持ちに忠実で、踏み絵は踏むけれど神様は信じている。極めて欲張りで、人間臭い役です」。

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 スコセッシ監督は、キチジローをこう演じるべきという説明や演出は一切せずに委ねてくれたそうだ。長崎奉行井上役のイッセー尾形も、「こちらが提出する演技をまず見てくれる。面白かった、もっとやろうよ、と。否定的な言葉は一回も聞いていない。そういう状況に置かれると、役者はアイデアや感性が研ぎ澄まされていきます。(相手役の)ロドリゴの雰囲気もキャッチできる」。だからこそ、終盤、ついに棄教して「空っぽ」となったロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)との対面の場面で、自らが成し遂げたことに半ば驚き、思わず彼に触れたいという思いに駆られて歩み寄るという自然な演技ができたのだと言う。



 ◇ この「洋服」を脱ごうと幾度も思った 「合わない洋服」でしかなかった「キリスト教」

 遠藤周作は、自身に背負わされた「キリスト教」を「合わない洋服」と感じていたようだ。伯母や母から「着せられた」キリスト教は、自身の人格形成期には何とも不似合いな、肌にも馴染まない「異物」のようにも思えたのかも知れない。それが後々、自身にどういうものを背負わせる事になるかなど殆ど考えなかったと、述懐している。 彼は、この洋服を脱ごうと幾度も思ったようだ。 「この洋服は私の体に一向に合っていなかった。ある部分はダブダブであり、ある部分はチンチクリンだった。そしてそれを知ってから、私はこの洋服を脱ごうと幾度も思った」 〜『合わない洋服』〜

 遠藤周作の「キリスト教観」は、正統的な或いは教条主義的な「キリスト教観」とは全く相いれないものを内包している。日本人にしてキリスト教徒である「矛盾」または「齟齬」を、彼は根気よく辛抱強く咀嚼して、ついに日本的な、或いは遠藤周作的な「キリスト教観」を形成するに到った。 彼は、「私はこの洋服を自分に合わせた和服にしよう」と決心したのだった。洋服を着せられるのではなく、日本人としてキリスト教を見つめ直し、和服に仕立て直そうと決意する。 これは当然、圧倒的多数のキリスト教信者、聖職者たちから強い批判を受けた。しかし遠藤は、キリスト教をモチーフとした作品を通じて、他者から着せられた洋服を、自分の体に合うように生涯を通じて努力した。



 ◇ 永遠のテーマ 〜「神の沈黙」〜  

 イエスズ会において最高の地位にあった教父・フェレイラが、布教のために訪れた日本で過酷な拷問を受け棄教したという知らせがローマに届き、弟子である若き宣教師・ロドリゴは、到底信じがたく真相を探ろうと日本へ赴く。 やがて、囚われの身となったロドリゴは、師と再会するものの、彼が夜な夜な牢で耳にした鼾のような音が、実は拷問を受けている信者のうめき声であったこと、そしてロドリゴ自身が棄教しない限り彼らが許されないことを告げられ、激しく苦悩する。自身の信仰を守るべきか、神を裏切ってでも罪の無い人々を助けるべきか … 。ジレンマにロドリゴは懊悩する。 神は自分が苦しむ姿を見ながら、何故に沈黙を続けるのか。呼びかけても応えない神とは … ? 神は本当にいるのか? もし神がいなければ、幾つもの海を渡り、この小さな不毛の島に、たった一粒の種を運んできた自分の半生とは、まことに滑稽と言うべきだった。 日本におけるキリスト教史において、最期まで強靭にキリストの教えを守り抜いた人々は、長く語り継がれる一方で、教えを捨てた人々は蔑ろにされてきました。そのような「ごく普通の」棄教者たちの懊悩に、遠藤は親しく寄り添うように語り掛けるのだ。 

 「踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため
 十字架を背負ったのだ。」 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」

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 弱者への限りない共感こそが、遠藤周作の「キリスト観」なのだ。 「二十六聖人」のように強固な信仰を守れる者には、畏怖の念は感じるものの到底、共感はできなかった。 長崎のあの像を目の前にして、只々仰ぎ見るだけで、感服するばかりで、むしろ共感することを拒絶されるが如き、只々厳かな印象を受けたことを思い出すのだ。 私には、とても出来ません、と … 。




 ◇ 映画「沈黙」 (1963年) 監督・脚本:イングマール・ベルイマン 撮影:スヴェン・ニクヴィスト

 『沈黙』は、1963年公開のスウェーデン映画。 『鏡の中にある如く』(1961年)、『冬の光』(1962年)に続く、いわゆる「神の沈黙」三部作の最後の作品。 翻訳家で独身の姉とその妹、妹の幼い息子の三人が列車の旅の途上にある。心臓に持病を抱える姉の体調を慮って、一行は途中下車しホテルに逗留することになる。 冷戦下の共産圏を思わせるその土地では、ことばも充分に通じない。ホテルで過ごす時間の中で、姉妹がずっと触れることを避けてきた、ある葛藤がしだいに顕わになっていく … 。 閉ざされた空間、限られた登場人物、そぎ落とされた台詞による迫真の演出。カフカ的とも、フロイト的とも称される思わせぶりな象徴的表現も相俟って、難解な作品との評価がつきまとう一作でもある。

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 病状の悪化が明らかな姉・エステルを置き去りにしたまま、妹アナは予定通りにホテルを出て行った。病む伯母に心を残す息子ヨハンの手をひいて … 。ヨハンは、汽車の中でエステルからの手紙を開く。そこには、「精神」と書かれてあった。あのまま死ぬかも知れない伯母の遺言でもあろうか。彼女はヨハンに何を託したのか。 本作での少年・ヨハンは、ある意味で神の眼を備えた冷徹な観察者であった。或いは、少年というものにはそうした側面が、本来的にあるのかも知れない。

 ※ その昔、神保町の岩波ホールで観たものだ。観るものを圧倒するような静謐な迫力に威圧されてしまった。 そして、仏教徒で良かったと、単純に思った。キリスト教の抑圧感に、すっかりたじろいでしまった。 イングリッド・チューリンに魅了された。 また、『秋のソナタ』のイングリッド・バーグマンも素晴らしかった。 三部作の中では、『冬の光』が心に残った。『沈黙』とは違い、悲しいが穏やかな気持ちにひたった。






 2017/02/22:鑑賞









































 ※ 神が人間を創ったのか? 人間が神を作ったのか?

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