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平成25年6月17日(月)昨日:内海「崖っぷち」5度目挑戦で区切りの100勝。 < ソフトバンク 3―11 巨人 > (16日・ヤフオクドーム) 巨人の内海哲也投手が16日のソフトバンク戦で、プロ野球史上131人目となる通算100勝を達成した。5月19日以来、4試合勝ち星がなく「崖っぷちという気持ちでマウンドに上がりました」。 覚悟を決めた5度目の挑戦での成功に安堵の笑みがこぼれた。 初回に1点を失った内海だが、打線が序盤から大量得点でエースを援護。2回以降はリズムを取り戻し、「野手のみなさんに乗せてもらった」と感謝しきり。9回2死から2点を奪われる“オマケ"もついたが、「僕が100勝できるとは思っていなかった。これを通過点にあと100勝てるように頑張ります」と素直に喜びを語った。 ※ 今季5勝目を挙げて、通算100勝に到達した内海哲也投手。彼でプロ131人目。初勝利は2005年4月9日の中日2回戦(東京ドーム)だった。プロ入り10年目で節目の数字に到達したものの、ホントに「あと100勝てるように頑張」れるのだろうか? 2000安打に比べて、かなり厳しいハードルだ。 6月17日は、原 節子の誕生日 ですが … ◇ 原 節子( 1920年生まれ ) 元女優 戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』など。本名は会田昌江。1963年に女優業を引退。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・日本編」で女優部門の第1位にノミネートされている。 1949年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たす。小津は女優としての原節子を高く評価し、自らの作品に起用し続けた。小津は昭和26年に「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている」と絶賛している。 1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる。 原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄・会田吉男(東宝のカメラマンだった)が助手の伊藤哲夫と共に列車にはねられ、不慮の死をとげるという悲劇に遭遇。 小津と原との代表作になった『東京物語』はこの事故の直後にクランクインしている。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返し、引退をささやかれるようになる。 1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』で、初めて母親役を演じる。体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品だった。1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。 1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが彼女にとって最後の出演作品となった。 1963年12月12日、小津が東京医科歯科大学附属病院で死去。その通夜に出席したのを最後に女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。現在は鎌倉市で親戚と暮らしているとされる。高橋治氏は、原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。 ◇ 昭和の大女優・原 節子は今 … (芸能ルポ 2012/12/27) 「昭和の大女優 原節子」は、今 知られざる真実を初めて明かす 第3回 鬱蒼と茂った樹木と天高く伸びる葉。それらにまるで身を隠すようにして立つ家。 それが、昭和を代表した女優・原節子が今も住んでいるとされている二階建ての家だ。しかし、四季を通して殆んど雨戸は閉められたまま … 。 クーラーは、一階にも二階にも付けられている。たまに雨戸が引き戸に収められていることがあった。しかし、柵状の桟の奥の窓ガラスには、厚いカーテンが引かれ、まったく中は、伺えない。 光の反射で、中が透けて見えることも、無い。ためいきが、思わず出る。 彼女が90歳を超えた頃、鎌倉市役所に行き打診してみた。一市民としての、會田昌江を引っ張り出せないか? 御高齢だが、市を越えてある意味、国を代表する名誉市民として、御祝い品を直接、彼女の顔を見て渡すことなど出来ないものか? それで、私が会えないまでも、市の職員が生死を確実に確認できる。施設に入っているなら、そのことを確認できるはず … 。 聞いてみると、かなり前から講演とか挨拶とか、市の公けの席に出て戴けないか? ということを、折に触れて打診してみたことが有ったという。 ところが、「もう、どこにも顔を出す気はありません」との親族からの返事で、ことごとく断られてきた過去があるのだという。 彼女の、いわば古巣といえる松竹が、商売の宣伝の一環の目論見もあって、公けの席での出席を頼んでみても、けんもほろろだったということを、すでに知っていた。だが、鎌倉市でさえもコレか! と、改めて痛感した。 やはり、施設巡りで感触を掴むしかないか … 。 高級施設でも、面会や問い合わせには比較的寛容だった。加えて、タダの普通の老人なら、捜すのも大変だが、「原節子」といえば、入所・入院患者も、まだまだ記憶が残っているヒト。 入れない場合は、ロビーで面会者の帰りを待ち受けながら、さりげなく聞いていった。よく顔を出す面会者は、噂話も耳に入ってくる。それに「期待」した。 しかし、原節子はもちろん知っているけれども、ここに入ってるというのは、まったく聞いたことはない、という言葉が、連なる。 これは、原節子こと會田昌江も入るであろう墓石だ。中央に刻まれた文字は「無」。 この「無」の字、故・小津安二郎の墓にも、同じ文字が刻まれている。小津とは生前、原節子との秘めたる恋を囁かれたこともある。 「無? 偶然ですよ」「あのころには、けっこう流行ったそうですよ、無というのを募銘碑にするのが … 」 そう言って苦笑したのは、原の甥で家人の夫だった。父は、小津のように有名ではないが、同じ松竹の映画監督だった。その妻となったのが、原の姉。 その姉の命日には、欠かさずお墓参りに原は来て、花を手向けていたという。 しかし、老齢となったここ10年。墓がある菩提寺の事務職員や、お坊さんたちに折々に聞くと、原も親族も墓参には来ていないようだという。 「北鎌倉」駅から5分ほど歩いた処にある円覚寺。寺院が多い鎌倉市内でも最も大きなお寺であるため、休日ともなると大勢の観光客で賑わう。そんな円覚寺の脇道にそれた辺りに墓地がある。さすがに観光客は墓地まで来ることはなく、ひっそりと静まり返っている。殆どの人が知らないであろう、この場所に映画監督・小津安二郎のお墓がある。境内右手を上っていくと、小津安二郎の墓。ちょっと分かりにくい場所にあるので、境内に入ってすぐのお守りを売っているお店の方に尋ねると丁寧に教えてもらえる。 元円覚寺派管長、朝比奈宗源老師揮毫による『無』。ただ一文字刻まれた墓石には、小津安二郎が昭和13年南京において古刹鶏鳴寺の住持が揮毫した書「その『無』に激しく吹き過ぎる風を、われわれもまた厳粛に受け止めるべきだろう。石はまだ朽ちてはいないのだから」という一文から取っている。今でも墓所には映画ファンのみならず、多くの映画関係者の方が訪れている。またかつては、鎌倉に在住している女優・原節子さんが、お線香をあげている姿をお見かけしたとも云う。 ◇ 皇后さまが公務に1週間ぶり復帰 宮内庁「脚の筋力低下」 宮内庁の山本信一郎次長は17日の定例記者会見で、10日から一部の公務を取りやめ静養されていた皇后さまについて、「脚の筋力低下がみられる」との医師の検査結果を明らかにした。持病の頸椎症性神経根症や腰椎の変形もあり、筋力維持のための運動を続け、首や腰への負担を避けることが重要と指摘を受けたという。 今後の公務は「大きくご予定の変更をお願いする状況ではない」と説明。皇后さまは17日、約1週間ぶりに公務に復帰し、夕方からは東京都内で開かれた第50回記念「日本更生保護女性の集い」祝賀会に出席された。 ◇ 今日の誕生花・タイサンボク(モクレン科) 花言葉は、「威厳」「自然の愛情」。 蛇逃げて山静かなり百合の花 子規 ※ 突然に蛇を目撃すると、その後は長いもの全てが蛇に見える。 蛍火の鞠の如しやはね上り 虚子 泰山木一花を朝の日に捧ぐ 岸風三楼(ふうさんろう) 髭剃つてゐる父の日の父の唄 辻田克巳 こゑあげるやうに泰山木咲けり 伊藤白潮 おおらかなタイサンボクの初花よ ひとつが天をあおいでひらく 鳥海昭子 |

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