|
平成26年6月21日(土)昨日:W杯1次リーグC組で1分け1敗と苦戦する日本代表。
20日、ギリシャ戦会場のナタルから拠点のイトゥに戻り、24日(日本時間25日)のコロンビアとの最終戦に向けた調整をスタートした。 約1時間半の練習は大半が非公開で、本田(ACミラン)や長友(インテル・ミラノ)らの主力は軽めのランニングで疲労回復に努めた。日本がコロンビアに勝った上で、ギリシャがコートジボワールに勝つか引き分ければ、得失点差などの条件で突破の可能性がある。
自力で1次リーグを突破する可能性は消えたが、長谷部主将(ニュルンベルク)の意欲は萎えていない。仕切り直しのコロンビア戦に向け、「自分たちは勝たないといけない。チーム全員でもう一度、準備をしていく。その先頭に立っていきたい」と決意を新たにした。ギリシャとの第2戦は、相手選手が2度の警告で退場となり、前半終盤から数的優位に立った。「11対11の戦いまでは自分たちの形がつくれていた。相手が10人になってからのサッカーを改善していく」。
コートジボワールに逆転負けを喫した初戦に比べ、攻守の積極性は取り戻したが、結果は無得点ドロー。クロスをゴール前に放り込む一本調子の攻撃に、工夫と変化を持たせるつもりだ。2戦全勝のコロンビアは既に1次リーグ突破が決定。チームのスタイルは、自陣深くに構えた「堅守速攻型」のギリシャとは違う。2試合で計5得点を挙げ、大会屈指の攻撃力を発揮している。長谷部は「次の相手は前に出てきてくれるので、打ち合いになる。自分たちが力を出せる相手」と読む。ザッケローニ監督の下、4年間で構築したパスワーク主体の攻撃サッカーを大舞台で実らせたい。(イトゥ・小杉敏之)
1467年6月21日、山名持豊、畠山義就らが挙兵「応仁の乱」( 応仁元年5月20日 )。
応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。 八代将軍・足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家後は山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。 応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれる。
◇ 時代背景 義政の怠惰、早い隠居志向 → 当事者能力を欠く
鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食されつつあった。室町時代の権力者であった守護大名も例外ではなく、その領国支配は万全ではなかった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は三代将軍足利義満と六代将軍足利義教の時を除いて成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境は当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した三代将軍足利義満・四代将軍足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた六代将軍足利義教が専制政治をしいて守護大名を抑えつけ将軍の権力を強化するも、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、守護大名が盛り返し政権にほころびが見え始める。七代将軍は義教の嫡子義勝が九歳で継いだが一年足らずのうちに急逝し、義勝の同母弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され八歳で将軍職を継承、文安六年(1449年)に正式に将軍職を継承した。
義政は母の日野重子や乳母の今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて、気まぐれな文化人に成長した。義政は当初は積極的な政治活動を見せていたが、側近と守護大名の対立などによって政治的混乱が続くようになると、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者である管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄三年(1459年)から寛正二年(1461年)にかけて日本全国を襲った長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていた。
◇ 勝元と宗全の対立
「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、上御霊神社鳥居前)
嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者・赤松氏の再興に反対していたが長禄二年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って長禄の変に赤松氏遺臣が功績を建てたことを根拠に赤松政則を加賀守護職に取立てたことから両者は激しく対立し、後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。しかしその一方で、文安四年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。後に述べる畠山氏の家督争いでは両者は協調しており、勝元は宗全の助命活動もしている。
寛正六年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生すると実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。 なお、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正六年(1465年)から文明六年(1474年)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする解釈は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解も提起されている。
◇ 終 息
文明九年(1477年)9月22日には、主戦派の義就が政長の追討を名目に河内に下国し、11月11日(1477年12月16日)に大内政弘をはじめとする諸大名らが撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。義視も土岐成頼と共に美濃に退去、西軍の解体は僅か一日で終わったと伝えられている。九日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。
この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵された。 乱の終了後も政長と義就は戦い続けていたが、山城では度重なる戦乱に国人が団結し、勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485年)に山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。また、加賀では東軍に参戦した富樫政親が長享二年(1488年)に加賀一向一揆に居城・高尾城を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。
◇ 今日の誕生花・テッポウユリ(ユリ科)
花言葉は、「純愛」「淑女」。
木をつみて夜の明やすき小窓かな 子規
蛇逃げて我を見し眼の草に残る 虚子
※ 蛇と目があったら、わたしは二度と御飯が食べられない気がする。
夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり 虚子
夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし 和田悟朗
長き長きエスカレーター百合抱いて 浦川聡子
幸せのぎゅうぎゅう詰めやさくらんぼ 嶋田麻紀
テッポウユリの束をかついで 大股の男がひとりぐいぐいと行く 鳥海昭子
◇ 本日、〔夏至〕 各地での風習など …
尾張地方の一部で、夏至の日に無花果田楽を食べる風習があります。
大阪の一部では、夏至から半夏生(夏至から11日目)までの間にタコを食す
習慣があります。稲の根がタコの八本足のように深く広く張ることを祈願。
関東地方では新小麦で焼餅をつくり、神に供える風習があります。
高窓や紅粛々と夏至の暁け 赤城さかえ
地下鉄にかすかな峠ありて夏至 正木ゆう子
夏至の日の水平線のかなたかな 陽美保子
※ 北欧では夏至(ミッドサマー)は、クリスマスと同じくらい大切にされている。夏至祭のシンボル「メイポール」は、白樺の葉とさまざまな花で覆われ、美しい民族衣装に身を包んだ男女がポールの周りを輪になって歌い踊る。 遠く離れた異国の文化に胸を打たれるのは、太陽を寿ぐという生きものとしての源に深く共感するからだろう。(土肥あき子)
灯台に白き穂を立て夏至の濤 板谷蝸牛
※ 東京では五時間近く昼の方が長いという夏至。 遠くから見える白い灯台と白い波頭、さらに雲の白さが、梅雨の晴れ間の海の碧に際立って眩しい。ただ、「濤」の一字が、一見ちらちらと寄せているように見える波が実際は、それこそ台風が来そうな激しい波であることを思わせる。夏至という、上りつめればあとは下るだけ、という一点の持つさびしさが、波の勢いが強ければ強いほど、大きく砕ければ砕けるほど、感じられるのだろう。(今井肖子)
|