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平成26年7月1日(火)昨日:「STAP細胞実証へ最大限努力」と小保方氏がコメント。 理化学研究所が、小保方晴子ユニットリーダー(30)がSTAP細胞の検証実験に参加すると発表したのを受け、小保方氏は30日夜、「心より感謝し、誰もが納得いく形で存在を実証するために最大限の努力をする所存です」とするコメントを理研を通じて公表した。 小保方氏の代理人の三木秀夫弁護士は報道陣に、「存在を証明する一歩だと受け止めている」と歓迎。小保方氏とは電話やメールで打ち合わせし、決定に喜んでいる様子だったという。 三木弁護士によると、小保方氏は体調について「万全ではない」と話している。30日時点でも入院中だが、三木弁護士は「参加できないというほどの状況ではない」と説明。参加方法の詳細を検討中で、STAP細胞の存在は「速やかに証明できるのではないかと考えている」と語った。 検証実験は、理研発生・再生科学総合研究センター(CDB、神戸市)が4月から実施している。小保方氏が参加する際は、透明性を確保するため、複数のビデオカメラで記録し、監視役が必ず立ち会うという。7月末から8月初旬に中間報告を発表する予定。 一方、論文の新たな疑義に対する予備調査について、三木弁護士は「コメントを控えたい」と説明を避け、検証実験と論文不正は別の問題との認識を示した。懲戒処分の先送りは「落ち着いて(検証に)参加するということでは良い要素になる」と話した。 1939年7月1日、日ソ国境紛争・第二次ノモンハン事件が始まる。 ◇ ノモンハン事件 ノモンハン事件とは、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で、1930年代に大日本帝国とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。 清朝が1734年(雍正十二年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年(昭和7年)に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について従来の境界から10〜20キロほど南方に位置するハルハ河を境界と主張、以後この地は国境係争地となった。1939年(昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。 ◇ 満州国建国 日本の関東軍は1931年(昭和6年)に満州事変を起こし、翌年満州国が建国され勢力下に置いた。翌1932年の日満議定書で満州国防衛のため関東軍は満州全土に駐留するようになった。満州国軍は1935年時点で歩兵旅団26個と騎兵旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備は良好ではなかった。ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採った。北清鉄路を南満州鉄道の売却交渉が始まったが難航した。 ソ連はモンゴルと1934年(昭和9年)11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた。 こうして日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、満州事変以後、日本とソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した。 ◇ 第一次ノモンハン事件(5月11日〜31日) 軍事衝突と前哨戦 係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は不明である。 第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。 この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。 5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。 ソ連軍も部隊を送り込み、5月25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6装甲車16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。 ◇ 第二次ノモンハン事件 ソ連軍の攻撃 ソ連政府は5月末の交戦を日本の侵略意図の表れとみなし、日本軍の次の攻撃はさらに大規模になると考えた。白ロシア軍管区副司令官のゲオルギー・ジューコフ中将が第57軍団司令官に任命され、この方面の指揮をとることになった。このときジューコフは大規模な増援を要求し、これが容れられた。 6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。 ソ連軍の爆撃に対して関東軍は、戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立てた。新たに加わったのは第1戦車団(戦車2個連隊)と歩兵第26連隊(第7師団)のほか砲兵や工兵を含む自動車化部隊の安岡支隊で、第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。作戦にはハルハ川を越えることが含まれていたが、大本営には越境攻撃までは知らされなかった。 6月27日、日本軍はモンゴル領の後方基地タムスクに大規模な空襲を行った。大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。その頃、攻撃のため国境付近に集結しはじめた日本軍に対し、ソ連軍は自国主張の国境を越える威力偵察部隊を送り出して交戦した。 集結を完了した日本軍は、7月1日に敵の背後を断って撃滅する意図をもって行動を起こした。当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む主力が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、西岸攻撃のために工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので、戦車を渡すことができず、それどころか橋を越えた補給継続の見込みも薄かった。そこで作戦が変更され、歩兵が西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った戦車が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅することを企図した。西岸攻撃には第23師団の第23歩兵団長小林恒一少将が師団所属の歩兵第71連隊と第72連隊をもってあたり、安岡支隊から引き抜いた自動車化部隊の歩兵第26連隊と砲兵隊、工兵隊が後続した。一方、東岸の安岡支隊の主力は戦車第3連隊と戦車第4連隊で、歩兵第28連隊の1個大隊と歩兵第64連隊主力、馬で牽引する野砲兵1個大隊、工兵1個連隊、満州国軍騎兵が属した。うち東を封じるのは満州国軍に任され、今回は南に兵力を送らなかった。総兵力は約1万5000人であった。 ソ連軍は、前回の戦闘と同様、歩兵戦力で日本軍に劣ったが火砲と装甲車両の数で遥かに勝った。ソ連軍司令部は、ハルハ川東岸への日本軍の攻撃を予想して、第149自動車化狙撃連隊と第9機械化旅団を置いていた。さらに増援軍にハルハ川を渡河させて日本軍の側面を衝く作戦を立て、第7機械化旅団、第11戦車旅団、第24自動車化狙撃連隊が7月1日にタムスクを発った。 ソ連軍と日本軍はほぼ同じ進路で逆向きの渡河攻撃を計画したが、日本軍が先んじて7月2日に渡河をはじめ、3日に橋を架けた。渡河に直面したのはモンゴル軍の騎兵第6師団であったが、抵抗らしい抵抗をしなかった。ソ連増援軍は3日に戦場に到着し、南に進んでいた日本軍と接触した。装甲部隊を前にして日本軍の行軍は止まった。午前中の戦闘でソ連軍戦車は果敢に突撃して大損害を出したが、午後には遠巻きにして砲撃を加えるようになり、日本兵の死傷ばかりが増えた。第23師団はその日の夕方に撤退を決め、4日から5日にかけて橋を渡って戻った。 ハルハ川東岸(右岸)では、日本軍が87両の装甲車両で攻撃をかけた。主に軽戦車からなる戦車第4連隊は、2日夜に装甲部隊による夜襲をかけた。(大規模装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例である。)攻撃は成功をおさめたが、戦局に影響するほどのものではなかった。主に中戦車からなる戦車第3連隊は、翌3日に対戦車砲とピアノ線鉄条網で防御された敵陣地に対して正面攻撃を敢行した。この戦闘は失敗で、主力の中戦車13両と軽装甲車5両を失い同連隊は壊滅的損害を受けた。当時最新型であった97式戦車に搭乗していた連隊長吉丸大佐もこの戦闘で戦死した。 ソ連軍は7月4日に反撃をはじめ、6日に日本軍は退却した。装甲部隊の軽微ならざる損耗に動揺した関東軍司令部は、これ以上の戦車戦力の損害を避けるため、9日に安岡支隊を解隊、さらに26日に日本軍戦車を戦場から撤収させた。この期間には、ソ連軍の航空勢力が増大した。一方、日本の航空偵察はこの戦闘中ずっと「敵軍が退却中である」という誤報を流しつづけ、上級司令部の判断を決定的に誤らせた。 ※ 伝わる処によれば、昭和天皇は第二次ノモンハン事件については、かなり御不興とか。 ◇ 今日の誕生花・ハンゲショウ(ドクダミ科) 花言葉は、「内に秘めた情熱」。 一匕(匙)のアイスクリムや蘇る 子規 ※ 闘病子にして健啖家、子規の面目躍如たるの一句。 どかと解く夏帯に句を書けとこそ 虚子 ※ 鎌倉の料理屋で、酔いに興じた女中頭がかような振る舞いに … 千年の杉や欅や瀧の音 草間時彦 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 山口誓子 木の揺れが魚に移れり半夏生 大木あまり どことなく寂しい風情の半夏生 秘めた想いのさゆらぐような 鳥海昭子 ※ 「半夏生」と言うもの、なかなかに奥が深いというか、ややこしいものである。先ず、半夏生は雑節の一つで、烏柄杓(カラスビシャク)という薬草(塊茎が半夏という生薬)が生える頃をさすもの。 あるいはまた、半化粧(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているように見える頃とも言われる。半夏生は夏至から数えて11日目です。即ち、天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となります。 農家にとっては大事な節目の日とされ、この日までに農作業を終えて、この日から5日間は休みとする地方もあります。また、この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしました。また三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、「はんげ」という妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行うことに対する戒めともなっています。 ※ 上方ではこの日に蛸を食べ、讃岐では饂飩を食べ、福井県では大野市などで焼き鯖を食べる習慣があります。いずれも、農作物の順調な生育を願う心が反映したものとか。 タコを食べると田畑に植えたものの根が、蛸のようにしっかりと根をはると言われます。 【参照】7月1日、日本全国タスポ導入(2008年) http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/43303452.html (町のタバコ屋さん撃沈、コンビニ隆盛。タスポとは、何だったのか?) |

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