今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

折りにふれ思う

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老いる、ということ …

 ◇ 老いる、ということ …

 ■ 優しい夫がなぜ妻を殺害 … 、孤立した「老老介護」の末の悲劇 
   (12月8日)

 「その通りです」。 今年7月、自宅で寝ていた妻(75)の首を絞めて殺したとして、殺人罪に問われた男は年齢を感じさせるかすれ声で罪を認めた。男は昭和9年生まれの79歳。手に掛けたのは、半世紀近く共に生きてきた最愛の妻だった。孤独な「老老介護」を続ける中で、病気に苦しむ妻を思う心が暴走し、取り返しのつかない悲劇を呼び起こした。

 判決などによると、被告が凶行に及んだのは今年7月8日ごろ。早朝に東京都世田谷区の自宅マンションで妻の首を最初は両手で、続いてタオルで締めて殺害。翌日未明には、隅田川に飛び込んで自殺を図ったが死にきれず、数時間後に川に浮かんでいるところを救助された。被告は、搬送先の病院で妻の殺害を打ち明け、自首した。

 11月25日に東京地裁で行われた裁判員裁判の初公判。検察側は冒頭陳述で「短絡的な犯行」であることを強調した。 被告の妻は、くも膜下出血で倒れた後、めまいなどの後遺症に悩まされるようになったという。さらに、被告も腹部の痛みなどから「自分は末期の大腸癌ではないか」と疑うようになったが、検察側は「被害者の病状を軽減させる方法を考えず、殺すという方法を取った」と指摘。安易に無理心中を図った身勝手な犯行と位置づけた。 これに対して、弁護側は「責任能力を含め、全て認める」とする一方、殺害に至った背景を「病に苦しむ妻を思うあまりの犯行だった」と主張。「妻の病気の後遺症が悪化し、死を願う言葉も口にするようになった」とし、「妻を楽にしてやりたいという思いから殺害した」と訴えた。


   「わが家が一番幸せ」と妻の手紙 

 証拠調べで検察側は、凶器となったタオルを提出。検察官がタオルを広げて「このタオルが見えますね。あなたの家にあったものですか、殺害に使用したものですか」と尋ねると、被告はしっかりした口調で「はい」と答えた。 ピンクと白の図柄で、長さ1メートルほどのタオルは、凶器として使われたようにはとても思えず、むしろ平穏な家庭生活を連想させた。 弁護側が証拠として読み上げたのは、今は亡き妻が被告にあてた手紙だ。被告の70歳と76歳の誕生日を祝い、贈ったものだという。

 「70歳の誕生日おめでとうございます。結婚40年、私を支えてくれてありがとうございます。孫にも恵まれ、誰よりもわが家が一番幸せな家族」  「パパ、誕生日おめでとう。いつの間にか76歳になりました。いつまでもいつまでも楽しく生活できますようにお祈り致します」  30歳の時に、妻と結婚したという被告。幸せだったはずの家族の姿が浮かび上がった。


   一人娘の両親への思い … 切々と …

 証人として出廷したのは二人の間に生まれた長女。一人娘だという。 検察官「あなたは、被告人と被害者の娘さんですか?」 長女「はい」。 夫婦水入らずの幸せな暮らしに影がさしていったのは、平成14年に妻が病気になってからだという。 くも膜下出血で倒れた妻は、一命を取り留めたが、物が二重に見えるなど目の異常や、ひどい眩暈や手足の震えといったさまざまな後遺症に悩まされるようになった。瞼の手術も行ったが、症状は改善しなかったという。 刺繍や書が趣味で、社交的な性格だった妻は、次第に家にこもりがちになっていった。

 長女「あまり人に会うことを好まず、家に閉じこもる時間が多くなり、もともと心配性なところがあったが、さらに強くなりました」。 長女はある日、母から「死にたい」と言われたという。「日に日に悪くなっていき、(回復が)難しかったのではないか」と振り返った。 弁護人「あなたのお母さんを殺されてしまいましたが、被告人に処罰を求めますか」 長女「いいえ」。

 弁護人「今後のことをどう考えていますか」 長女「父が社会に出てきた時には、一緒に生活して、母のことを受け止め、父の老後を見守りたい。母は、父のことをもう許していると思います。病気の辛さをずっと訴えていたことに『ごめんね』と … 。父がそう(妻が死を願っていると)思い込んでしまったことに対し、『ごめんね』という気持ちだと思います」。 冷静に受け答えを続けていた長女が、絞り出すような声になったのは、自殺を図った被告が助かった際の思いを問われたときだった。

 「正直に生きててくれてよかった。一度に両親を亡くすのは辛いですから…」


   たった一人で悩みを抱え込んで …

 証人尋問に続いて行われた被告人質問。被告が妻の「死んで楽になりたい」という言葉を初めて聞いたのは、昨年の冬だったという。「驚きました。特別に声をかけることはできませんでしたが、散歩に出よう、とは言いました」と、当時の衝撃を表現した。 弁護人「死にたいという気持ちが本当ではないと思ったことは?」 被告「本当だと信じていました。真実だと、私は思っていました」 弁護人「奥さんのことについて、娘さんと相談はしましたか」 被告「していません。この問題だけは娘に相談してもだめだと思い、こうしてしまいました」。 「思い込みが強い」と長女が性格を表現する被告が、妻の病が悪化する中で、悩みを抱え込んでしまった構図が浮かび上がった。

 弁護人「娘さんと相談していたら?」 被告「こうはならなかったと思う」。
 11月26日に開かれた論告求刑公判で、検察側は被告に懲役5年を求刑。弁護側は執行猶予付き判決を求めた。 最終意見陳述で、被告は「私にとって最高の妻でした。平成22年ごろから病状がだんだんと悪化しまして … 。こういう行動を取って申し訳ない。どうお詫びしてよいか分からない」と述べた。 裁判員との評議の末、迎えた29日の判決公判。被告に言い渡された判決は、懲役3年、執行猶予5年だった。

 裁判長は判決の言い渡し後、「これで、社会に戻ってもらうことになります。まずはお嬢さんとともに過ごす中で、自分のしてしまったことを見つめ直してほしい」と諭した。さらに、「今回のように問題があった場合には抱え込まず、お嬢さんと話し合って解決してください。そのことが、明るく周囲の人を大切にしていた奥さまへの供養になると思います」と被告に語りかけた。 妻を殺害してから5ヶ月。被告の胸には何が去来したのだろうか。ゆっくりと、深々と、頭を下げる被告の姿を満席の傍聴人は見つめていた。

 ※ 冬蝶や是非なきことに死にきれず 寒をしのぐは枯れ葉一葉



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 老老介護の果てに、思い出の湖畔で心中を図った夫婦の台詞のない物語。



 ■ 万引き、続く高水準 刑法犯の1割に上昇 高齢者増「孤立防止を」
   (12月12日)

 万引きの認知件数が高止まりし、刑法犯全体に占める割合が1割まで上昇していることが11日、警察庁の調査で分かった。 年齢別では高齢者(65歳以上)だけが増え続けている。同庁は「経済的な困窮が主な原因ではなく、孤立化を防ぐ必要がある」と分析している。

 刑法犯は、2002年の約285万件をピークに減り続け、12年は半分以下の約138万件になった。 こうした中、万引きは2004年に過去最多の15万8020件となった後、増減を繰り返して高止まり。12年は13万4876件だった。全体に占める割合は9.8%で、2001年の4.6%から11年連続で上昇している。

 摘発された容疑者を年齢層別に見ると、少年は1999年から、成人(65歳未満)は2006年から減少傾向に転じたが、逆に高齢者は増え続け少年を上回っている。高齢者の人口自体が増えており、12年は総人口の24%に上ったが、摘発人数に占める割合はこれを上回る31%だった。 高齢者が盗んだ物の68%は食料品で、少年や成人に比べ安価な日用品が多かった。おにぎりやアンパン1個というケースもある。動機のうち「経済的困窮」は13%にとどまった。

 ※ かにかくに老いゆくことの難しく などてけふまで生きてありぬる
 ◇ 順風の人生を棒にふった27歳の裁判官 ばればれ盗撮の「浅慮」

   (産経新聞 9月8日、12時6分配信)

 取り押さえられた男は抵抗することなくうなだれて、「大阪地裁の裁判官です … 」。 8月29日朝、大阪府寝屋川市内を走行中の電車内で、30代女性のスカートの中をスマートフォンで撮影したとして、府迷惑防止条例違反容疑で大阪地裁の現職裁判官(27)が逮捕された。裁判官は「今年春頃からやっていた」と供述し、スマホには、女性のスカート内を盗撮したとみられる映像が数人分保存されていた。常習的な疑いも浮上しているが、手口は堂々とかがんで撮影する「バレバレ」なもので、捜査関係者は「何を考えているのか分からない」と首をひねる。


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   「何しとんねん!」  素直に「すいません」

 寝屋川市の京阪電鉄、寝屋川市〜萱島間を走行中の準急電車内。通勤や通学の乗客で混み合う中、男性の鋭い声が飛んだのは、8月29日午前8時半ごろのことだった。 男性のそばでは、イヤホンで音楽を聴く女性の背後から、男がスカート内にスマホを差し入れていた。盗撮だと気づいた男性が問い詰めると、男はすぐに「すいません」と謝った。 萱島駅で降ろされた男は駅員に引き渡され、その後、駆けつけた大阪府警寝屋川署員に現行犯逮捕された。この間、終始おとなしく、署員が名前や職業を尋ねると、「大阪地裁の裁判官です」と素直に答えたという。

 裁判官は平成21年に司法試験に合格。司法修習を経て、昨年1月、大阪地裁に判事補として任官し、現在は同地裁の民事部に所属している。 以前は刑事部にも在籍していた。大阪市此花区のパチンコ店で21年7月、男がバケツに入ったガソリンを床にまいてマッチで放火し、店を全焼させて客やアルバイト店員らが死傷した事件で、男に死刑判決を言い渡した裁判員裁判を担当した。

 若く、まじめそうな外見。捜査関係者は「最初に身分を聞いた時は信じられなかった」と振り返る。 いつも京阪電鉄を利用するという女性(63)は事件を耳にし、「罪を犯した人を裁く側の裁判官が、そんな犯罪に走るとは信じられない」と眉を顰めた。


   かがんで撮影  稚拙な ばればれ手口

 寝屋川署に連行された後の取り調べにも素直に応じ、うなだれて反省した様子をみせた裁判官。「興味本位で、どんなパンツをはいているか知りたかった」と動機を語り、「今年春頃から盗撮をしていた」とも供述。 これを裏付けるように、スマホには、電車内で女性のスカート内を撮影したとみられる動画が、数人分保存されていた。常習性も疑われているが、捜査関係者はその行動に首をかしげる。

 寝屋川署によると、裁判官は事件当日、出勤途中だった。大阪地裁近くの京阪電鉄淀屋橋駅方面に向かう電車に、自宅最寄りの香里園駅から乗車。次の寝屋川市駅で車内が混み出した直後ごろから、犯行を始めたとみられる。しかし、その手口は稚拙なものだった。 裁判官は女性の背後に立ち、少しだけかがむと、手に持ったスマホをスカートの中に差し入れ、そのまま1〜2分間撮影していたとみられる。あまりにも単純な手口に捜査関係者は「こんなやり方では、いつばれてもおかしくない」とあきれている。

 一般的には、携帯電話やスマホに内蔵されたカメラの性能が向上し、小型化が進んだことなどを背景に、最近は盗撮の手口が巧妙になっているという。スニーカーの甲の部分に小さな穴を開けて小型カメラを仕込んだり、手提げかばん内にデジタルカメラを隠して手元の機器で操作したりするケースも確認されている。(決して上手くやりなさいと、奨励するものではありません。) だが、裁判官にこうした手の込んだ細工をした様子はみられず、寝屋川署は今回の事件以外の動画も単純な手口で撮影した可能性が高いとみている。 捜査関係者は「世間知らずというか、何も考えていないというか … 。安易な気持ちで始めたのだろうが、順風満帆な人生を変えてしまった。もったいない」と嘆いた。


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   裁判官に目立つ性的犯罪での逮捕 世間との接触が少なく“無知”

 清廉潔白で犯罪とは最も縁遠い。多くの人が裁判官に抱くイメージかもしれないが、これまでも裁判官による犯罪は起きている。 最高裁によると、現職の裁判官が逮捕されたのは、昭和56年以降で4人。今回の盗撮事件で5人目。収賄事件で逮捕された例が1件あるほかは、準強制猥褻事件や児童買春事件など、性的な犯罪が目立つ。

 平成13年には、少女に現金を渡し、猥褻な行為をしたとして児童買春・ポルノ禁止法違反容疑で、東京高裁判事が逮捕された。判事は起訴され、東京地裁は「司法の歴史に払拭しがたい汚点を残した」として、現職裁判官に対する初の有罪判決を言い渡した。 20年には、宇都宮地裁判事が裁判所の女性職員に猥褻なメールを執拗に送ったとして、ストーカー規制法違反容疑で逮捕され、有罪判決を受けた。判事は、女性の携帯電話に「もうお風呂入った?」といった内容のメールを匿名で送信していた。

 さらに翌年には、福岡高裁宮崎支部判事が、高速バス車内で女性の体を触ったとして準強制猥褻容疑で逮捕され、有罪判決を受けた。 この事件の判決理由では、「刑事裁判を担当し、性犯罪の悪質性や被害者の苦しみを熟知し、法の順守や高い倫理観が強く求められているのに、犯行に及んだ」と厳しく非難された。


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   こうした裁判官に対する処分はどうなるのか?

 一般の会社員や行政機関の職員であれば、懲戒免職や解雇ということもある。しかし、憲法上、身分が手厚く保障されている裁判官の場合は、所属する裁判所の懲戒処分によって身分を失うことはない。 これは裁判官の独立を守るのが目的で、裁判官を罷免させるには、国会議員で構成する裁判官弾劾裁判所で是非が判断されることになる。

 自ら退官することもできるが、過去には裁判官が辞職願を提出したものの、裁判所が退官手続きを進めず、弾劾の手続きを取った例もあった。 大阪地裁などによると、今回の盗撮事件で逮捕された裁判官は逮捕翌日に釈放され、現在は任意捜査が続けられている。現在も地裁の判事補の身分のままだが、自宅待機を命じられており、今後の処分は決まっていないという。

 ※ 人は皆、過ちを繰り返しながら生きている。願わくば大過なき人生でありたいと、誰しもがそのように思っている筈なのだが、時として自ら説明し難い行動をとることがある。 曰く、「魔がさす」。「魔」とは「間」の謂い。時間は連続的に間断なく一様に流れているかに見えるが、時として、「時のエアポケット」に陥る。それが「逢う魔が時(大禍時)」。その時に人は、普段は押し殺していた筈の、ひた隠しに隠していた筈の“個性”が露出する。その個性は、多くは反社会的なものだ。それは知性で馴致させることの出来ない個性なのだ。生きとし生けるもの、「いのち」固有の原罪を内包する。

   うらを見せおもてを見せて散るもみぢ  (良寛の辞世とされる)
 ◇ 露の世は 露の世ながら さりながら …


 増上寺の梵鐘

 〔昏鐘之偈〕此の鐘声を聞いて、煩悩を軽んじ、智慧長じ、菩提を生じ、
   地獄を離れ、火坑を出づ。願わくば佛となって、衆生を度せむことを。


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 ◇ 鴨長明 『 方丈記 』 冒頭

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

 あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。


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 ◇ 辺見 庸 『 死者にことばをあてがえ 』(4月18日脱稿)

 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなるそれだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに他とことなる
 それだけしかないことばを吸わせよ
 類化しない統べない
 かれやかのじょだけのことばを
 百年かけて海とその影から掬え

 砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
 水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
 石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
 夜ふけの浜辺にあおむいてわたしの死者よ
 どうかひとりでうたえ
 浜菊はまだ咲くな
 畦唐菜(あぜとうな)はまだ悼むな

 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなるそれだけのふさわしいことばがあてがわれるまで
 (NHKこころの時代『瓦礫の中から言葉を』より)


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 ◇ 鴨長明 『 方丈記 』 末尾

 それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。

 そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

   月かげは入る山の端もつらかりき たえぬひかりをみるよしもがな


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   (浄春童子、 早春世を去りし)
   春の夢気の違はぬがうらめしい       来山

   春の夢父母の影追ふ畑の中         小川花久

   これは夢夢と知りつつ春の夢        二瓶洋子

   臍の緒の先思ひ出す春の夢         水口佳子

   春の夢亡き猫屋根の上にゐて        勝田みつ子

   亡き人を追うて汗しぬ春の夢        金田きみ子

   亡き人の幾人も居し春の夢         田中藤穂

   春の夢さめ鳥籠に鳥をらず         今村恵子

   石積むに疲れて覚めて春の夢        岡本眸

   寝返りを打てばはらりと春の夢       村田菊子

   逢ふひとの誰も声なき春の夢        奥澤和子

   春の夢とどこほりなく見て忘る       高橋道子

   憂き世とも厭ふてみるも春の夢       雲霧軒散逸消魂居士

   土筆出よ蒲公英咲けよ被災の地       埼玉 大槻美男

津波てんでんこ

 ◇ 『津波てんでんこ』(近代日本の津波史) 山下文男:著

    新日本出版社 (2008/01)  

 近代日本で第二の大災害と言われる三陸を襲った明治29年(1896年)の大津波。約2万2000人(死者・行方不明者21,959人)の尊い命が波に消えた。綾里白浜では、最大波高38.2mを記録し、1269人(住民の56.4%)が亡くなった。そしてこの津波の特徴は、「ヌルヌル地震」とか「スロー地震」と呼ばれ、震度2.3という小さな地震発生後、30分から1時間後に津波が襲来した。全くの不意打ちであったという。

 その悲劇から37年後の昭和8年(1933年)、再び津波が三陸海岸を襲った。M8.1 の地震により綾里では最大、28.7mの津波が発生し、岩手県内では死者約2600人、流失、倒壊家屋約6000戸という大惨事になった。しかもそれは、二年前からの昭和東北大凶作(1930〜34年)という状況下で起ったのだった。三陸はその後も、1960年(昭和35年)のチリ沖地震(M8.5)の22時間後に津波に襲われている。この数度の災害を経験した綾里では、昭和津波の翌年、集落全体で高所移転を決断する。その後、防潮堤も建設された。 また、教訓を後世に残そうと津波伝承碑や津波避難の看板を住民自ら建設した。今後、最も発生確率の高いといわれる宮城県沖地震による津波も懸念されている … 。


 ◇ 津波の語り部・津波研究家 山下文男さん(82)

 「津波の時は、海の底から波が巻き上がってくるんだよ。津波の後、いつも海底の砂にくっついているカレイが打ち上げられているのを見ると分かるでしょ。台風の時の波とは違うんだよ。大きな岩も打ち上げられたんだよ。それだけ怖いもんなんだよ」と子供達に語るのは、津波研究家、山下文男さん(82)だ。

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 津波が発生した場合、波高が高くなりやすい急峻なリアス式海岸である三陸海岸には、明治の津波以降、「津波てんでんこ」という言い伝えがある。津波の時は、事前に認め合った上で「てんでんバラバラ」に逃げて一族共倒れを防ごうという意味なのだ。 明治の津波の際に夫婦、親子で、それぞれが互いを助け合おうとして、多くの人びとが共倒れになっていったのだ。「津波てんでんこ」は、極限状況での誠に悲しい苦渋の決断なのだ。

 山下さんは小学校三年生の時、郷里の綾里で昭和津波に遭い親戚、友達を多く失った。山下さんの父親は一目散に自分ひとりで逃げ、山下少年も負けずに自力で逃げのびて助かった。日頃から「津波の時は、てんでんこやっ!」と言い続けてきた父親も、また祖父から「てんでんこ」を聞いて育ったと言う。 「父親は『てんでんこ』の権化のような人だった」と、山下さんは笑う。

 「たとえ親子でも自分の命は自分で守る。それが防災の基本だ」と語る。だが、「てんでんこ」ではあるが、地域防災などで高齢者や障害者などの災害弱者(災害時要援護者)の避難も合わせて考えなければいけない事も強調する。そして津波体験者が高齢化する中、風化への危惧から次世代の「語り部」ボランティアの必要性も説く。チリ津波の時は余裕があったので、バイクを押していた人やランドセルを背負って避難した小学生がいたと言う。

 だが、山下さんは「津波はそんなもんじゃない、恐ろしいもんなんだ。とにかく一分一秒でも早く逃げる事だ」と力説し、津波のタイプがそれぞれ違う事も伝えなくてはと語る。山下さんは自分の体験したあの日から73年後の今も郷里の学校や公民館で子供達に「津波」を語り続けている。

  山下文男(やました ふみお)

 1924年、岩手県三陸海岸生まれ。大船渡市綾里地区在住。明治の三陸津波で一族8人が溺死。自らも少年時代に津波を体験。1986年以降、「歴史地震研究会」会員として著作と津波防災活動に従事。 著作は、『哀史三陸大津波』(青磁社)、『戦時報道管制下・隠された大地震津波』(新日本出版会)、『津波ものがたり』、『星はうつり雲は流れても−東南海大地震秘話』(童心社)、『津波−TUNAMI』(あゆみ出版)、『君子未然に防ぐ−地震予知の先駆者・今村明恒の生涯』(東北大学出版会)、『昭和東北大凶作−娘身売りと欠食児童』(無明舎)、1991年『津波ものがたり』で「日本科学読物賞」、「北の児童賞」受賞。2000年「日本自然災害学会賞」功績賞受賞。2003年「平成15年度防災功労者表彰(内閣府、防災思想の普及)、2006年「『岩手日報』社文化賞」を受賞。




 ◇ 悲しいけれど、人間の歴史は同じ過ちの際限ない繰り返し …

  「防波堤があろうがなかろうが、自分の命は自分で守る意識が大切だ」

 明治三陸大津波から百年の追悼式典が、1996年に岩手県田老町で執行されました。山下文男氏も参列された。 折りしも4ヶ月前(2月17日)に、ニューギニア沖地震(M8.2)が発生したばかりの時期だった。当然のことながら、太平洋沿岸に津波警報が発令された。ところがである。 三陸沿岸の住民の96%が避難勧告を知りながら、「我が家だけは安全だと思った」という理由から避難せず、実際に避難した人はわずかに19%のみだった。多くの人々が日本最高級の高さ10mの防波堤があるからと、安心しきっていた。 式典で山下文男氏は、声を大にして叫んだのであります。

  「防波堤があろうがなかろうが、自分の命は自分で守る意識が大切だ」

 ※ 私たちが、決して口にしてはならない言葉があります。
 「二度と同じ過ちを繰り返しません」
 曰く、愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ。


 『巌手広報』(明治29年7月1日)災地出張日誌(6月27日、宮古町に於て)

 田老は甚しと人は皆云へり。災害の翌日などに見たる人は一面是れ河原の如く此処は町村にてありしかと疑う許りなり。而して泥沙の中より隻手抜んであるあり。両脚のみ現はるゝあり。頭半分出たるもあり。丸で人間の沙漬を見たる如しと。嗚呼今年は吾県下に於て実に幾多の地獄を作り倣されたり。 家財破壊材は概ね海上に流亡し、陸上に存するもの僅に五分の一斗り。田老小湊等に於て生命を全ふせるもの最僅なる死屍発見の少なき亦怪しむに足らず。実に悲惨の極、県下又其比を見ざるべしと信ず。 広田村にては海中の死屍を捜索するが為め、魚網を卸して曳きしに、網に罹りて来りし者五十余人。余りに重くして曳き上ぐる能はず漸やく半分づつ分ちて陸に上げたりと。


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 ◇ 「日本一の防潮堤」無残 想定外の大津波、住民は茫然(3月20日)

 「日本一の防潮堤」「万里の長城」 … 。 住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちは茫然としている。 「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師・小林義一さん(76)は顔をこわばらせて振り返った。11日の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。

 小林さんは「防潮堤は安心の拠りどころだった。『防潮堤があるから』と逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をもっと高くしないと、これでは暮らしていけない」。 約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名がある。1896年(明治29年)の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。

 防潮堤は、昭和三陸津波襲来の翌1934年に整備が始まった。地元の漁師らによると、当時の田老村は、高所移転か防潮堤建設を検討。結局、海に近い所に住みたいとの村民の要望や代替地の不足から防潮堤建設を決断し、当初は村単独で整備を始めた。工事は中断を挟みながら段階的に進み、半世紀近く後の1978年に完成。総工事費は1980年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。

 こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。総延長も全国最大規模という。1960年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たが、田老地区では死者は出なかった。日本一の防潮堤として、海外からも研究者が視察に訪れるほどだった。

 しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500メートルにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。隣近所の多数の知人が行方不明になったという男性(45)は「津波の前では、頼みの防潮堤がおもちゃのように見えた。こんな津波を経験して、このまま田老で暮らせるのかどうか分からない」と泣きながら話した。

 今後の津波対策をどうするのか。漁師の川戸治男さん(69)は「漁師なら海の近くに住みたいと考えるだろうが、やはり高台の方に移住すべきではないか」と話す。 宮古市は津波防災都市を宣言している。地域振興課長の鳥居利夫さん(59)は「防潮堤は、これまで経験した大津波を想定して整備された。だが、今回は想定外だった。今後、どう津波対策を立てるのか。今のところ思いつかない」と肩を落とす。

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