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◇ 伊藤比呂美という詩人 1955年9月13日、東京生まれ。詩人、小説家、エッセイスト、翻訳家。東京都出身、都立竹早高等学校、青山学院大学文学部日本文学科卒業。 1978年、現代詩手帖賞を受賞してデビュー。「ラニーニャ」で野間文芸新人賞、「河原荒草」で高見順賞、「とげ抜き」で萩原朔太郎賞、紫式部文学賞を受賞している。1985年の『良いおっぱい悪いおっぱい』で、「子育てエッセイ」という分野を開拓。 ポーランド文学者の西 成彦氏は元夫。 ◇ 伊藤比呂美著 「読み解き『般若心経』」(2010年1月、朝日新聞出版) 「人間も、五十年以上生きておると、いやなことが多い」 死にゆく母、父の孤独、看取る娘の苦悩。苦しみにみちた生活から向かい合う日々のお経。 詩人の技を尽くしたお経の現代語訳を交えながら、仏教の教えを読み解く。 『小説トリッパー』連載を中心に加筆修正して書籍化したもの。 詩人の感性で経文にふれ、その簡潔な韻律と高貴な芸術性に驚嘆する。自らの言葉に置き換えてみたいという欲求を抑えがたく、般若心経を読み解く。 ※ 「般若心経」の最後の文字は、般若心経の4文字。これをTVドラマ「古畑任三郎」からの発想で、「般若心経でした」とする。 母は「早くお迎えが」とか、「死んじゃったほうが」とか、としよりのファンタジーではなく、真剣にいっていた。そばで父が、「そうだよ、早く死んじゃったほうがいいとおれも思うよ」と母の手をにぎりながらまじめに受け答えしていた。つまり、本人も家族も、死ぬ気まんまんで、逝かせる気まんまん。ただ治療とか医療とかいうものが、その倫理か知らないけどそういうものが、母や父やあたしとは、ちがった基準で動いている。 (「読み解き 「地蔵和讃」 母が死んで、父が残った」より) ※ 死ぬかもしれないと思われる時には、救急車は呼ばない方が良い。 救急救命士や医師により、延命治療がなされ、死ねなくなります。 助かるかも知れないと思われるときにこそ、救急車を呼ぼう。 伊藤比呂美さんのお母さんは、三年間、生きながらえた。幸か不幸か? 懺悔文 我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう] 皆由無始貪瞋痴 [かいゆーむし とんじんち] 従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]【語 or 口〔く〕】 一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ] 我(わ)たしが昔から造りだしてきた所の諸(い)ろんな悪業(あやまち)は 皆て始まりの無い貪、瞋(いかり)、痴(おろかさ)が由(もと)になり 身(からだ)、語(ことば)、意(いしき)従(よ)り生まれる所のもの 一切、我(わ)たしは今、皆(ひとつ残らず)懺悔する。 ※ 【懺悔】(さんげ):心を細かくきりきざむように悔いる。 わたしがこれまでになしてきた いろんなあやまちは はるかなむかしから みゃく みゃく とつながる むさぼる心・いかりの心・おろかな心をもとにして からだ・ことば・いしき をとおして あらわれて きたものだ わたしはいま きっぱりとここにちかう そのすべてを ひとつ ひとつ 心をきりきざむようにして 悔いていきます (「読み解き「懺悔文」女がひとり、海千山千になるまで」より) ※ 還暦を過ぎにし者の迷ひ道 萬の佛にも疎まれて 四弘誓願文(しぐせいがんもん) 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) 煩悩無盡誓願断(ぼんおうむじんせいがんだん) 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) ひとびとはかぎりなくいます。 きっとすくいます。 ぼんのうはつきません。 きっとなくします。 おしえはまだまだあります。 きっとまなびます。 さとりはかならずあそこにあります。 きっとなしとげます。 (読み解き 「四弘誓願」 ぼんのうはつきません。あとがきにかえてより) 伊藤比呂美 「カノコ殺し」 "Killing Kanoko" 『カノコ殺し』 「そら、脚だ。胎児の大きさを知るには四肢のどこかがいちばんいい。この場合は一五週で正しい」 大きさはほぼ三インチ。もぎとられたもも、ひざ、ふくらはぎ、足、五本のつま先でできている。 「一週間に二回、生きて生まれたことがあります。ここの女性たちがみんな、自分の赤ん坊を中絶する気持を何とかおさめようとしているこのフロアで、赤ん坊の泣き声がしたわけですからね」 というような本を読んでいると妹が、このあいだがきんちょをおろした、と言いました。 妹の語彙で、「がきんちょをおろした」「がきんちょはおろされた」 おめでとうございます。 カノコはおろされませんでした。 ひろみちゃんはやったことがあるか、と妹が言うので、ある、とこたえました。 でも、がきんちょをおろすというのは、わたしの語彙ではありません。 カノコはおろされませんでした。 わたしは、カノコによく似たはずの胎児の妊娠を中絶したわけです。 カノコによく似たはずの胎児は成長して、カノコによく似たはずの生児を わたしは得られたかもしれませんが、それはカノコのことではない。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 わたしは搔爬による妊娠中絶したことがあります。 滅ぼしておめでとうございます。 あなたのあかちゃんは大きかったから、お乳が出ますよと医者は言った。 と言われても、ただへらへら笑っているより対応のしかたが分らない。 へらへら笑う。 へらへら笑う。 へらへら。 へらへら。 でもおめでとうございます。 ほんとうにお乳は出てきました。 つよくひねると白い液がにじむ程度で、乳房ははらないし、かゆくもなんともない。 かわいくもなんともない。 おめでとうございます。 何にせよ、お乳が出るってことはめでたい。 何もなかったところから、のめて甘味もあるものが、わくんですもの。 それをのめば太れるんですもの。 お金を出して買う「牛乳」と同じようなものを、わたしが分泌するのですもの。 おしっこみたいに分泌するのですもの。 つばや涙やおりものみたいに分泌するのですもの。 肛門から口から尿道から膣から、夥しい乳がわいて出てくるんですもの。 うれしくなって たのしくなって おめでとうございます。 わたしは妊娠中期に中絶したことがあります。 あかちゃんが男でしたか女でしたかとたずねたのですが あかちゃんという言い方では嘘をついています。 胎児と言わなければいけない。 当然、男か女か教えないことになっています。 ショックが大きいから 母体の 母体は考える。 カノコに似た女の胎児かカノコに似た男の胎児か。 わたしは妊娠中毒症したことがあります。 わたしは胞状奇胎したことがあります。 子宮にあふれたつぶつぶを全部見てしまいました。 あれもやっぱりカノコに似ているはずです。 わたしは子宮癌したことがあります。 わたしは子宮と卵巣摘出したことがあります。 わたしは分娩したことがあります。 わたしは微弱陣痛の吸収分娩したことがあります。 わたしは会陰切開したことがあります。 たのしい妊娠したことがあります。 子宮は充実して 全身は充血して いくらでも過食して 分娩のことを考えると 際限なくマスターベーションできた。 のぼりつめる娩出の瞬間を思いやる。 たのしい妊婦の指の動き。 わたしはだから哺乳したこともある。 滅ぼしておめでとうございます。 六か月経ち、カノコは歯が生えて 乳首に噛みつき乳首を噛み切りたい いつも噛み切る隙をねらっている。 カノコはわたしの時間を食い カノコはわたしの養分をかすめ カノコはわたしの食欲を脅かし カノコはわたしの髪の毛を抜き カノコはわたしにすべてのカノコの糞のしまつを強要しました。 カノコを捨てたい。 汚ないカノコを捨てたい。 乳首を噛み切るカノコを捨てるか殺すかしたい。 カノコがわたしの血を流すまえに、捨てるか殺すかしたい。 わたしは嬰児殺ししたこともあります。 死体遺棄したこともあります。 産んですぐやればかんたんです。 みつかりさえしなければ中絶よりかんたんです。 みつからずにやってのける自信は、いくらでもあります。 カノコはいくらでも埋められます。 埋められたカノコおめでとうございます。 おめでとうございます。 しないではいられない性交。 受胎せずにはいられない何十人ものカノコ。 まびかずにはいられない何十人ものカノコ。 ひとりだけのぞいて それが今のカノコで それが乳首を噛み切りたい。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 たのしい継子のせっかん。 たのしい継子殺し。 わたしはしたことがあります。 自分の子の方がかわいい。 たのしい子捨て。 わたしはしたことがあります。 自分の方がかわいい。 おめでとうおめでとう。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 みんながいわってくれて 源一郎さんがメドック 樋口さんがバラの花 浩平さんがうさぎさん 石関さんがくまさん 宮下さんがおむつかばん 志郎康さんが犬はりこ 阿部さんと岩崎さんが現金 のんちゃんがケーキ 兼子さんが8ミリ 小崎さんが電報 みんながいわってくれて ありがとうありがとう。 うれしいカノコは乳首を噛み切る。 滅ぼしておめでとうございます。 わたしはカノコをたのしく捨てたい。 じめじめじゃなくうしろめたくなく たのしくカノコを東京に捨てたい。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 滅ぼしておめでとうございます。 (てる子ちゃん、中絶しておめでとう)
(みほ子ちゃん、たけちゃんをすてておめでとう) (くみ子さん、ともくんをころしておめでとう) (まりさん、ののほちゃんもすてれば?) (まゆみさん、胎児は男でした?女でした?) (りこちゃん、こうたくんもそろそろすてごろ) (みんなですてよう、乳首を噛み切りたくて歯を鳴らしている) (娘たち) (息子たち) |

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