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平成25年10月9日(水)昨日:みずほ銀行の暴力団融資、当時の頭取も放置。
みずほ銀行が信販会社を通じた暴力団員らへの融資を放置していた問題で、同銀行の佐藤康博頭取(親会社のみずほフィナンシャルグループ=FG=社長を兼務)が8日、問題発覚後に初めて記者会見を開き、2010年7月時点で、問題融資について当時の西堀利頭取にも報告が上がっていたことを明らかにした。また、佐藤頭取自身も11年7月のみずほ銀の取締役会などに出席し、問題融資の存在について知りうる立場にあったことも明らかになり、経営トップの進退問題になる可能性も出てきた。 問題融資を把握していたのが「担当役員まで」との従来の説明と異なり、金融庁に対しても事実と異なる報告をしていたことになり、みずほの杜撰さが改めて浮き彫りとなった。
みずほ銀行は8日、社外の弁護士でつくる第三者委員会(委員長・中込秀樹弁護士)を設置し、問題融資の原因究明を進める。佐藤頭取は自らの経営責任について「グループの責任者として、問題融資を知りうる立場であり、責任があると思っている。責任については、第三者委員会の判断を待って決める」と述べるにとどめた。 今月4日にみずほFGの法令順守担当副社長が記者会見した後、7日夜の西堀氏への聴取や社内調査などにより、問題融資を把握していたことが判明した。西堀氏は聴取に対して、10年9月のオリコに対する出資比率引き上げを控えた10年7月の段階で、「オリコの提携ローンの問題を認識し、反社会的勢力に対する対応の改善策を検討した」と話しているという。また、後任頭取の塚本隆史みずほFG会長(みずほ銀会長)に、オリコの問題融資が引き継がれたかどうかについて調査を続けている。
11年2月から12年1月までに開かれた、みずほFGとみずほ銀のコンプライアンス委員会と取締役会の計8回の会議で、問題融資の資料が提出されていたことも明らかになった。それぞれ10人前後が出席し、問題を認識できたのは「数十人」(佐藤頭取)に上っており、組織ぐるみの隠蔽が濃厚になった。 佐藤頭取も11年7月のみずほ銀の取締役会などに出席。佐藤頭取は問題融資について「知りうる立場にあったが、問題の本質を認識するには至らなかった」と釈明。結局、今年3月に金融庁の検査の過程でようやく問題を把握したという。佐藤頭取は問題の処理に専念するため、産業競争力会議の民間議員など全ての公職を辞任することを表明した。
追加行政処分を金融庁が検討:7日に元頭取関与の報告をみずほから受けた金融庁は8日、「当庁への報告において、事実と異なる報告を行っていたことは極めて遺憾」とコメント。故意に事実と異なる報告をしたのか、検査忌避の有無を含めた調査を進め、追加の行政処分も検討する。
※ 「故意に事実と異なる報告」をした事は間違いなかろう。銀行と“闇金”との“もちつもたれつ”の“甘い関係”は周知の事実。 そして、個人事業主の「みかじめ料」には強気のお巡りさんも、銀行さん相手には矢張りかなりの“甘い関係”を温存している?
10月9日は、鳥海昭子の命日 です。
◇ 鳥海昭子(とりのうみ 、1929年〜2005年)歌人 エッセイスト
山形県鳥海山麓生まれ。 1949年、歌誌『アララギ』入会。その後、『歌と観照』『短詩型文学』に所属する。家出同然で上京して、様々な仕事を経験しながら学費を稼ぎ、1955年に國學院大學文学部日本文学科卒業。 児童養護施設に洗濯婦として働き、身寄りのない子供たちの継母として26年間勤め上げた。1985年、歌集『花いちもんめ』で第29回現代歌人協会賞受賞。1992年、東京都文化功労賞受賞。 現代歌人協会会員。児童養護施設勤務経験をもとにした随筆も執筆している。
2005年、NHKラジオの「ラジオ深夜便」にて誕生日の花にちなんだ短歌を一年間発表。放送期間中に死去したが、歌の発表は2006年3月まで継続した。 今もなお、鳥海昭子の短歌は放送されています。
※ ラジオ深夜便『誕生日の花と短歌365日』 NHKサービスセンター 2005.12刊
母子草とその名教えし一瞬の 母のない子の表情(かお)を忘れず
書きためた日記の包み携えて 家出せんとす悲しよ我は
石垣の石の一つが母に似て みつめていると自分でもある
青いくるみがどさっと落ちる八月の 臓物みたいな故郷がある
もがきいる畳の上の虫ひとつ つまびらかにも見ていたるなり
盗癖の子の手をとれば小さくて あったかいのでございます
嵐の中の自分を自分で呼びつづく 低く確かだ立ちあがるべし
◇ 今日の誕生花・シュウカイドウ(シュウカイドウ科)
花言葉は、「片思い」「繊細」。(花は左右非対象で脆い)
十一人一人になりて秋の暮 子規
※ 日清戦争に従軍記者として遠征した子規は、帰途の船で喀血。神戸で入院、須磨で療養する。後に、松山の漱石の下宿に逗留すること一ヶ月余。友人・柳原極堂の『子規言行録』に、「子規君は一ヶ月余の逗留の後、松山を去られたが、其の節、三津浜まで君を送ったのは都合十名であった」とある。十一人で賑やかに三津浜まで行き、その後の独りの淋しさは時節柄なんとも遣る瀬ないものがあった。
※ 新古今集所収の「三夕の和歌」
さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
心なき身にもあはれは知られけり しぎ立つ沢の秋の夕暮れ 西行
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家
三人は淋し過ぎたり後の月 虚子
※ 「後の月」は「十三夜」の異名で陰暦九月十三日の満月のこと。
旧暦八月十五日の「中秋の名月」に対して「後の月」と呼んだもの。
病める手の爪美しや秋海棠 杉田久女
書を愛し秋海棠を愛すかな 山口青邨
秋海棠遠きことのみよく覚え 神蔵 器
シュウカイドウの盛りの庭に佇つ人が 独りもいいと静かに言いき 鳥海昭子
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