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平成22年11月29日(月)昨日:沖縄知事選、仲井真氏が再選 伊波氏ら破る。 米軍普天間飛行場の移設問題が焦点になった沖縄県知事選。県内移設容認から選挙前に「県外移設」に転じた現職の仲井真弘多氏(71)が、「国外移設」を主張した前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)を退けた。ともに「県外」を唱えて主張の違いが見えにくくなる中、仲井真氏は経済振興の訴えに力を割いて支持を集めた。「最低でも県外」と語りながら基地問題で迷走した民主党政権への不信もあって、県民は現実路線の知事を再び選んだ。 「日本全体で考えてほしい」。報道陣のインタビューに応じた仲井真氏は、普天間飛行場の移設問題に触れ、「日本全体で」という言葉を3度繰り返した。 普天間飛行場の県内移設を容認してきた仲井真氏が「県外移設」を掲げて選挙戦に臨む決意を固めたのは9月半ば。「百八十度、自分の考えを変えるような、みっともないことはしたくない」。直前までそう漏らしていたが、選挙戦に入ってからは、「北海道から鹿児島までのヤマトで探してもらいたい」と繰り返した。県内移設反対を訴えていた伊波氏の主張の独自色を抑えることに成功した。 選挙戦では、これまでやり玉にあげてきた普天間を巡る民主党政権への批判も抑え、沖縄振興で「政府と話を始めている」と何度も強調した。 「県民の心を一つにして、県外移設を実現していきたい」。有権者に伝えた言葉がこれから試される。 28日夜、投票率の低さを問われた伊波氏は、「この知事選で民主党が明確な指針を示さなかったし、普天間問題での政府の対応をみて、『選挙に行っても何も変わらないのでは』という思いが県民に広がったと思う」と語った。 伊波氏を支援した名護市の稲嶺進市長は「負けはしたが、仲井真知事から『県外移設』や『日米合意の見直し』という言葉を引き出させた。条件付き容認という知事の立場を変えさせるまで追い込んだということが選挙戦の成果だ」と話した。 ※ 「日本全体で考えてほしい」と言う思いを、我々は重く受け止めなくてはならない。戦前戦後を通じて、沖縄を日本の捨て石とし軍事上の要石として、“本土”の安穏を図った我々の“原罪”を忘れることは決して許されない。改憲でわが国の軍事力保有を容認してでも、沖縄の米軍基地を少しでも撤退させるべきだろう。 仲井真氏が安保堅持を、伊波氏が安保破棄を主張する中での今回の結果だった。安保の犠牲者とも言える沖縄県民にとって、佐藤政権での“本土復帰”とは何だったのか? 我々はまたしても、沖縄を人身御供にしてしまったのか。沖縄返還から暫くして、沖縄県民がこのように言っていた。「返還されても何も変らない。米軍基地はそのまんま。変った事と言えば、NHKが只で見られなくなったことだけ … 」。 11月29日は、勝 新太郎の誕生日です。 ◇ 勝 新太郎(1931年〜1997年、本名は奥村利夫) 市川雷蔵と共に大映の二枚看板として一世を風靡、歌手活動もした。勝プロダクション時代には、プロデューサー・脚本家・監督としても活動。勝新の愛称で親しまれた。アクが強く、黒澤映画の主演に起用されながらも、意見の対立から降板している。 その時の両者の弁、「あの本は、オレをイメージして書いている。代役(仲代達矢)では失敗する」、「監督は二人いらない」。 かくて映画『乱』は、クランクイン早々に波乱に見舞われたのだった。 ◇ 『座頭市物語』(1962年) 勝新太郎の代表作である座頭市シリーズの第一作。原作は子母沢寛。 浪曲「天保水滸伝」の題材として広く知られる侠客の抗争と、その登場人物・平手の造酒(みき)をからめ、ほぼオリジナルの作品になっている。 勝新太郎は1954年の大映入社から白塗りの二枚目ばかりを演じてきたが全く芽が出ずにいた。しかし、1960年の『不知火検校』では、それまでになかったダーク・ヒーローを演じて新境地を開いた。続く1961年には、『悪名』が公開されてヒット。そして、1962年の『座頭市物語』の登場だった。さらには1965年の『兵隊やくざ』と、次々にヒットを飛ばし、勝新にとっての三大シリーズ物が開幕したのだった。 ※ 「『座頭市』は、子母沢寛の随筆集『ふところ手帖』にほんの数行書かれているものに肉付けしたヒーローである」とは、よく書かれる記事のようだが、『座頭市』は、原稿用紙にして二十枚ほどの短編として完結している。 キネマ旬報増刊『日本映画作品全集』の『座頭市』の項に、原作は「『ふところ手帖』にたった一、二行記されていた」云々、とあるのを引き写した記事が広く世間に流布したものと思われます。 近頃の学生さん、卒論をネットからの孫引き、曾孫引きで間に合わせるのはいけませんよ。 ◇ シルヴィアさん死去 肺癌闘病1年半(2010年11月28日午後1時) 「別れても好きな人」などのヒットで知られる女性歌手のシルヴィア(本名・松田理恵子)さんが28日午後1時頃、肺癌のため都内の病院で死去した。52歳だった。昨年5月に癌が見つかり、闘病生活を送りながら歌手活動を続けていた。今年9月下旬に再入院し、同27日には危篤状態になったが約2か月間、意識がないまま病魔と闘っていた。通夜・葬儀は親族のみの密葬で行い、後日お別れ会を行う予定。喪主は長男・中山貴大(きだい)さん。 “デュエットの女王”シルヴィアさんが、長い闘病生活の末、この世を去った。関係者によると、この日午後1時、穏やかに息を引き取った。 1983年にソロ転身後、ずっと歌手活動を続けていたシルヴィアさんに肺癌が見つかったのは昨年の5月末。のどの調子が悪く、全身にだるさを感じ、精密検査を受けたところ、ステージ4まで進行した肺癌がみつかった。すでに手術は不可能な状態だった。 約1か月間入院し、抗癌剤や放射線治療を行い、6月末に退院。その後は月1度の定期健診や入退院を繰り返しながら歌手活動を続けてきた。癌についてはごく親しい関係者だけに知らせ、周囲には隠していた。 当初は余命半年と言われたが、気力で仕事を続け、昨年10月にはシングル「愛の街 稲城」を発売、遺作となった。今年に入っても数か月に1度ライブを行い、8月には広島・三原市でのイベントに出席。約40分のステージを無事にこなした。 だが、9月に入って再び体調を崩し、同月下旬に入院。同27日に危篤に陥ってから、延命措置は行わなかったが、約2か月間も意識がない状態で闘い続けた。1995年12月に離婚した前夫でフリープロデューサーの中山敏久さん(55)と、一人息子の中山貴大さん(19)が、ほぼ毎日看病に通い続け、この日も2人が最期を看取った。 シルヴィアさんは1979年にロス・インディオスの女性ボーカルとして、「別れても好きな人」でデビューし、ミリオンヒットとなる。1982年には菅原洋一とのデュエット「アマン」も大ヒットし、1980年から4年連続でNHK紅白歌合戦に出場。透明感ある歌声と美貌は、“デュエットの女王”と評された。 1983年に「愛のキャラバン」でソロ転身後も、テレビ番組やステージで活躍。中山さんと離婚後は女手ひとつで貴大さんを育て、闘病中も大学生の貴大さんのことを心配していたという。 「もう1回、紅白に出たいなあ … 」。 シルヴィアさんと30年来の付き合いの事務所関係者によると、シルヴィアさんは最後まで、歌への情熱を燃やしていた。癌発覚前は新曲が出る度に、「これがヒットすれば、紅白ですよ」と話したという。 最後のステージとなった8月のイベント前には、闘病中にもかかわらず懸命なトレーニングを積んだ。足腰が弱くなっていたため、体力をつけるために自宅周辺を散歩したり、毎朝、ボイストレーニングに励んでいたという。 「自分の命のように最後まで気にかけていた」(関係者)のは、一人息子・貴大さんのこと。冗談で「息子が結婚したら、その前に死んじゃうもん」と、話したこともあったという。関係者は「9月に一時危篤状態となったが、その後2か月間も生き延びたのは息子さんのことが気がかりだったのでは … 」と話した。 ◆ シルヴィア:本名・松田理恵子。1958年3月21日、大阪府生まれ。大阪でスカウトされ1979年にロス・インディオスの初代女性ボーカルとして加入。「別れても好きな人」「うそよ今夜も」「コモエスタ赤坂」などヒット曲を連発。1983年に「愛のキャラバン」でソロデビュー。 「別れても好きな人」 昭和54年 ◇ 今日の誕生花・イチョウ(イチョウ科) 花言葉は、「長寿」。 銀杏ちる兄が駆ければ妹も 安住 敦 早暁の月とイチョウの競い合う 黄色かがやく輝くきいろ 鳥海昭子 |

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