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平成23年12月10日(土)昨日:米大学チーム確認、ネズミは仲間見捨てない。
自分は得するわけでもないのに、困っている仲間を助ける。他人の感情を共有するそんな「共感」の能力をラットも備えていることが、米シカゴ大学チームの実験でわかった。 人以外では、これまでサルでしか確認されていなかったという。9日付の米科学誌サイエンスで発表した。
実験ではまず、罠の扉を外から頭で押して開けられるようにラットを訓練。そして1匹のラットを罠に閉じこめると、訓練を受けたラットは扉を開けて仲間を救出した。 罠の外にチョコレートがあるときも、自分が独り占めできなくなるのを承知でラットは扉を開けてやった。出てきたラットと接触できないようにしても行動は変わらず、仲間と一緒にいたいという自分の一方的な望みが動機でもないらしい。雌の方が仲間を助ける傾向が強かった。
※ 「人以外では、これまでサルでしか … 」、なんと言う驕り昂ぶりの生きものなのか、ニンゲンとは … 。 平生、身近な生きものに接しておれば、人は多くの触発を受け、教えられることに事欠かない。人だけが、神より賦与された才能である「本能」を忘れ、「人為」的な生きものへと堕落した。私たちが「自然回帰」するとき、私たちは自然(じねん)に生きることができるのだ。文化はもとより自然に背く。
1520年12月10日、ルターは教皇レオ10世の警告文を信徒の面前で焼く。
◇ マルティン・ルター(1483年〜1546年)
ドイツ(当時神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家、ルーテル教会創始者
修道士時代にルターは聖書を深く読むようになり、ウィリアム・オッカムの思想に触れた。1506年には司祭の叙階を受けたが、初ミサを立てる中で、ルターは弱く小さな人間である自分がミサを通じて巨大な神の前に直接立っていることに畏れを覚えた。当時のルターは、どれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても心の平安が得られないと感じていた。聴罪司祭であったヨハン・フォン・シュタウピッツの励ましもルターの不安を取り除くことはできなかった。
シュタウピッツの勧めもあって、できたばかりであったヴィッテンベルク大学に移って哲学と神学の講座を受け持つことになる。彼はここでアリストテレスの手法を適用したスコラ学的なアプローチの限界を感じ、神を理性で捉えることは困難であるという理解に達した。
その頃、ルターの心を捉えて離さなかったのはパウロの『ローマの信徒への手紙』にある「神の義」の思想であった。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、即ち正しいと確実に言うことはできない。この現実を直視していたルターは苦しみ続けたが、あるとき突如として光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をする。 そこでルターは人間は善行(協働)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。ここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれる。(=【信決定】)
大学で教える傍ら、司祭として信徒の告解を聞いていたルターは、信徒たちもまた罪と義化の苦悩を抱えていることをよく知っていた。そんなルターにとって当時、盛んにドイツ国内で販売が行われていた贖宥状(≒免罪符)の問題は見過ごすことができないように感じられた。 ルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。煉獄の霊魂が、本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減されるという考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた。
煉獄の霊魂の贖宥の可否については、カトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(ヴィッテンベルク城教会は大学教会を兼ね、その扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。これが後に『95ヶ条の論題』と言われるものである。ルターがこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、この論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明白であった。
『95ヶ条の論題』は直にドイツ語に訳され、国内で広く出回り始めた。既存のカトリック教会の体制への不満がくすぶっていたドイツ国内の雰囲気に、ルターの論題が火をつけることになった。1518年にはルターは論題を神学的考察の形でまとめなおした『免償についての説教』を発表。これに対する反論を記したカトリック司祭ウィンピーナは「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、教皇の不謬権への疑問と同じ意味を持つ」という指摘を行った。ここに至って、神学問題の提起を行ったルターが、にわかにローマ教皇への挑戦者という意味合いを持たされることになった。ルターの友人であったインゴルシュタット大学の教授ヨハン・エックは、ルター説はかつて異端と断罪されたヤン・フスの説と似ていると指摘し、ルターを激怒させた。以後、二人は激しい論戦を繰り返す。
1518年10月、アウクスブルクでの審問は、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めたが、ルターは聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められないと主張。逮捕を恐れたルターはアウクスブルクから逃亡したが、教皇もルターの保護者フリードリヒに配慮し、ルターに対してそれ以上の強い態度に出ることはなかった。ルターは自らの身の潔白を主張し、公会議の開催を求めていた。公会議の決定は教皇を超える権威を持つという公会議主義の思想が色濃く残っていた時代であった(ルターの求めた公会議はやがてトリエント公会議において実現することになる)。
カトリック教会との断絶が決定的となったこの頃、ルターの周囲には賛同者たちが集まり始めた。ルターが1520年にあいついで発表した文書は、宗教改革の歴史の中で非常に重要な文書であり、ルターの方向性を確定するものになった。それは『ドイツ貴族に与える書』『教会のバビロニア捕囚』『キリスト者の自由』であった。『ドイツ貴族に与える書』では教会の聖職位階制度を否定し、『教会のバビロニア捕囚』では聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定、『キリスト者の自由』では人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書を引用しながら主張されている。
1520年12月10日、ルターは教皇レオ10世の警告文を信徒の面前で焼く。
レオ10世は回勅『エクスルゲ・ドミネ』(主よ、立ってください)を発布して自説の41ヶ条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。これを受けて1521年の回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』(ローマ教皇として)によってルターの破門が正式に通告される。
偽名を用いて地に臥したルターは、一年ほどを思索と著述に専念する。有名な新約聖書のドイツ語訳が行われた。聖書をドイツ語に訳したのはルターが初めてではなかったが、エラスムスのギリシア語テキストをもとにしたこの聖書は、後にドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれることになる。同時にこの時期に修道生活を否定する論文も著述している。 だが、ルター不在の状況は深刻な弊害を伴った。教会の破壊から始まって市内が無法状態の様相を呈するようになった。1522年5月7日、見かねたルターが一年の沈黙を破ってヴィッテンベルクで人々の前に再び姿を現し、数回にわたる説教で過激派を糾弾、暴力を伴う改革を否定し、行き過ぎを警告した。
聖書には論拠はなかったが、カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。そのため司祭であったルターも独身生活を続けていたが、徐々にその意義について疑問を持つようになった。ルターは肉体的欲望そのものは罪であり悪いことであると考えていたが、結婚によって肉体的欲望は正当化され罪にならなくなると考えるようになった。また修道者のように神のために結婚しないことをよいものであると認めていたが、その反面、常に肉体的欲望に悩まされるのなら結婚するべきだと思うようになった。結果としてルターは数多くの修道者たちに結婚を斡旋するようになった。 自身も1525年6月、41歳の時にカタリーナ・フォン・ボラという15歳年下で26歳の元修道女と結婚、三男三女をもうけた。
◇ 脚本家の市川森一氏死去 70歳
大河ドラマ『黄金の日日』や『ウルトラマン』シリーズなど人気ドラマを手がけた脚本家、市川森一さんが10日、肺癌のため死去した。70歳。葬儀・告別式の日程などは未定。喪主は妻・美保子さん。 市川さんは25歳の昭和41年に特撮番組『快獣ブースカ』で脚本家デビューし、『ウルトラセブン』や『傷だらけの天使』など多くの人気番組を生んだ。映画『異人たちとの夏』(平成元年)で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。 長崎県出身。1966年に日大芸術学部を卒業後、1981年に『港町純情シネマ』で芸術選奨新人賞、1982年に『淋しいのはお前だけじゃない』で第1回向田邦子賞、1989年に『もどり橋』などが評価され芸術選奨文部大臣賞を受けた。今年11月には旭日小綬章を受ける。 雄大なスケールの大河ドラマから人間の機微に通じた人情ドラマまで幅広い作風で知られ、最近では『蝶々さん』が話題を呼んだ。 日本放送作家協会の会長を務め、テレビの情報番組のコメンテーターとしても活躍した。
◇ 今日の誕生花・フユサンゴ(ナス科)
花言葉は、「神秘的」。
駆けて来て父よりも子の白き息 桜井博道
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ 能村登四郎
さりげなく今年も此処にフユサンゴ 赤くつぶらな実を光らせる 鳥海昭子
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