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平成26年3月10日(月)昨日:羽生選手「被災地のこと忘れないで … 」。 ソチ五輪のフィギュアスケート男子で日本初の金メダルを獲得した羽生結弦選手(19)(ANA)が、読売の単独インタビューに応じ、被災地への思いを語った。 メダルを取って、震災で傷ついた日本にプレゼントしたい。そんな思いで臨んだソチ五輪でした。でも、実際に優勝したら、無力感に襲われました。金メダルも、復興の直接の手助けにならないって感じたからです。 練習拠点を、生まれ育った仙台からカナダに移してまで目指した金メダルですが、「被災した故郷を離れて本当に良かったのか」との思いも起きました。 3年前のあの時、ぼくは仙台のリンクで練習中でした。氷が波打ち、立っていられないほどの揺れ。「このまま死んでしまうのか」と恐ろしく、泣きながら逃げ出しました。あの時の光景は今でも頭の中でフラッシュバックします。涙が止まらなくなって、夜もうなされます。 競技をやめようと思ったこともありましたが、翌12年の世界選手権で、たくさんの応援をもらって銅メダルを獲得して気付きました。被災した人たちを勇気づけたいと思って滑っていたけど、実は自分のほうが支えられていたということに … 。五輪も同じです。応援に背中を押してもらいました。金メダルは自分だけではなく、応援してくれたみんなで取ったと思っています。 金メダリストとして、すべきことも見えてきました。「被災地のことを忘れないでほしい」という思いを伝えるために、これからも滑り続けるつもりです。(3月10日 読売) 3月10日は、渥美 清の誕生日 です。 ◇ 渥美 清(1928年〜1996年) 本名:田所康雄 俳号:風天 1934年11月、上野の板橋尋常小学校入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠する。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け、徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。 1951年、台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。 1954年、肺結核で右肺を摘出し、サナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。 右肺を無くした事でそれまでのドタバタ喜劇が出来なくなる。その後は、酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。 1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画デビュー。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。 1963年,野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て『男はつらいよ』の構想が練られた。 1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』では,アフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取りつかれ、プライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(1967年〜1968年)などが有名。 1968年、フジテレビにてドラマ『男はつらいよ』の放送が開始される。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では、ハブに噛まれて寅さんが死ぬと言うストーリーに抗議が殺到した。 1969年には「罪滅ぼしの意味も含めて … 」、松竹で映画『男はつらいよ』を製作した。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化され、山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズは、27年間48作も制作された。シリーズの大成功以降は、「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。 1979年(昭和54年)4月、NHKで放映されたドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。以降は、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあり、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。 その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が、『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目『男はつらいよ 寅次郎紅の花』だった。 『男はつらいよ』42作目以降は、病身の渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくなった。晩年は、撮影の合間に寅さんのトランクを椅子代わりにして腰掛けていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に頼んでいる。 撮影の見物客からは、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえないので、「愛想が悪い」と渥美を批判することもあったという。 体調が更に悪化した42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。 第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技だった。49作目は秋からのクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だったのだが … 。48作に出演できたのは、奇跡に近いとのことだった。 1996年8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて逝去。享年68。 「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。そして8月13日、松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれた。 山田洋次監督が弔辞を読み上げた。 5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、「遺作となった映画に出演できたのは奇跡」といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。 死後、渥美に国民栄誉賞が贈られた。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで二人目。 妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた。渥美は亡くなるまで、芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。 ◇ 「寅さん」で成功し、「寅さん」で終ってしまった … 渥美 清 脚本家・早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となり、渥美は早坂との旅行を大変楽しみにしていた。東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、早坂の故郷である愛媛県北条市(現・松山市)にある「北条鹿島」はお気に入りで、何度も訪れている。 早坂作のドラマ『花へんろ』(ナレーション:渥美 清、舞台は北条市)の中で、渥美の最後の句「お遍路が一列に行く虹の中 … 風天」が登場する。 早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧し、渥美も何とか抜け出そうとの思いがあった。 渥美自身は尾崎放哉役を熱望し、早坂も脚本を用意したが、寸前で他局が尾崎放哉をドラマ化してしまったため、急遽、種田山頭火に変更した。渥美と早坂はあちこち取材旅行に訪れたが、クランクイン寸前になって、渥美から降板の申し入れがあった。理由は体調不良やスケジュールの不具合などいわれるが、周囲からの「寅さん」のイメージ損失を嫌う軋轢などと思われる。 渥美降板により、主役がフランキー堺となったこのドラマ『山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく』は、モンテカルロ国際テレビ祭(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。 早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。 ※ 中学生の頃、伯母さんに連れられて入った銀座の喫茶店には、芸能人の色紙が沢山掲げてあった。色紙の文字は中学生には読みにくく、辛うじて「渥美 清」のサインが読めたとき、私は嬉しくて大きな声で「渥美 清が居る」と色紙を指さした。すると、隣のテーブルの上品そうな御婦人が小さな声で、「渥美 清が来ておりますよ」と教えてくれた、確かに彼は、目立たぬように店の奥まった処におり、三人の若い女性を大いに笑わせていた。 ◇ 恥ずかしく情けない … 埼玉スタジアムで「差別的」横断幕が掲げられた J1浦和は9日、8日に埼玉スタジアムで行われた鳥栖戦で、場内に入るゲートに「JAPANESE ONLY」と書かれた横断幕が掲げられ、「日本人以外お断り」の差別的な意味に受け取れる可能性があるため撤去したことを公式サイトで発表した。 浦和によると、試合中の午後5時ごろ、同スタジアム北ゴール裏ゲートのコンコース側に横断幕が掲げられているとの情報をスタッフが入手し、速やかに撤去を指示。通常は掲出した当事者との合意の上で取り除く手順になっており、最終的に試合終了後の午後6時すぎに強制的に撤去した。 クラブは当事者を特定し聴取しており、あらためて公式サイトで報告する。 今後について、「明らかに差別的で不適切であるとクラブが判断した場合、横断幕などの撤去を行います」とした。また、スタンド内に配置した警備会社スタッフから、試合中に差別的発言が聞こえたとの報告を受けており、今後事実確認を行うとしている。 浦和は今季から差別的発言など重点禁止6項目の順守を掲げる「SPORTS FOR PEACE!」プロジェクトの強化に取り組んでおり、「今回の事案を極めて深刻に受け止め、差別的な発言などに関する対策をより強化していきます」としている。 ◇ 今日の誕生花・シュンラン(ラン科) 花言葉は、「飾らない心」。 蓮華草我も一度は子供なり 子規 いかなごにまづ箸おろし母恋し 虚子 春蘭や岩間を雨の流れ出す 金子青銅 春蘭の水の匂のほかはせず 後藤比奈夫 雪に耐え風雨をしのぎ藪中の シュンラン今年の花を咲かせる 鳥海昭子 |

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