今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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京都市 華頂山 知恩院

  除夜の鐘と言えば、知恩院

 ◇ 知恩院の由緒(華頂山知恩教院大谷寺)

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 除夜の鐘(梵鐘)と日本一の大きさを誇る三門で有名な知恩院は、祇園祭で知られる京都・八坂神社の東方、東山連峰の一つである華頂山山麓にあり、承安5年(1175)法然上人が浄土宗の総本山として開基したお寺です。山号は華頂山といい、「華頂山知恩教院大谷寺」(おおたにでら)が正式名称。法然上人がこの地で入滅したときには、簡素な庵があるだけの寺でしたが、後に秀吉や家康の庇護を受け、現在の壮大な堂宇が構築されました。特に徳川幕府は、ことあらば戦のための城郭に転用すべく多大な援助を惜しまなかった。境内の至る所に「丸に三つ葉葵」の紋所が目につきます。


 ◇ 知恩院の三門(日本最大の三門<山門>)

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知恩院三門は、仏道修行の悟りを示す「空門」「無相門」「無願門」の三つの門を表し、正式には三解脱門という。迷いから解放されようとする者が通らねばならない門を象徴する(のちには、智慧・慈悲・方便の三つに擬していう)。

 元和7年(1621)、徳川幕府によって建立された知恩院三門は、高さ24m、間口50mの重層入母屋本瓦葺きで、わが国現存の木造建築の中で最大の楼門である。平成14年5月23日、御影堂(本堂)とともに国宝に指定されました。

 知恩院の三門は、京都・南禅寺の三門(高さ22m)と山梨・久遠寺の三門(高さ21m)とともに日本三大門に数えられます。(一方で、東大寺南大門、法隆寺南大門、東照宮陽明門を日本三大門と呼ぶこともあります。)

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 ◇ 知恩院の御影堂(本堂)

 巨大な三門をくぐって数十段の広い石段を登ると、玉砂利を敷き詰めた境内が広がり、巨大な御影堂(みえいどう)が見る者を圧倒します。大殿(だいでん)とも称するこの建物は知恩院の本堂で、浄土宗開祖の法然上人の像を安置していることから御影堂の名があります。寛永16年(1639)徳川三代将軍家光によって建立されたもので、建築様式は桃山風の構造に唐様式を加えたもので、間口45m、奥行35mの単層入母屋本瓦葺き。幅3mの大外縁を巡らしています。


 ◇ 法然座像すっきり、知恩院で御身拭式(12月25日)

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 京都市東山区の知恩院(浄土宗総本山)で25日、宗祖・法然の座像のほこりをぬぐう師走恒例の「御身拭式(おみぬぐいしき)」が営まれました。

 この日、座像が安置された御影堂は、僧侶や檀信徒でぎっしりと埋まった。読経が響くなか、金色の厨子の扉が開かれ、僧侶4人が法然の座像を式台へ移した。このあと、佐藤諦学執事長らが座像に白い布をあて、頭から顔、胸を丁寧にぬぐった。

 檀信徒は普段より間近にある座像に、じっと手を合わせていた。念仏を唱和し、1年の無事を感謝し、新年の幸せを祈りました。御身拭式は約350年前から、12月の宗祖・法然の月命日に合わせて続けられています。


 ◇ 除夜の鐘も準備万端、東山・知恩院で試し撞き(12月27日)

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 京都市東山区の知恩院で27日、除夜の鐘の試し撞きが行われました。僧侶があお向けになって全体重をかけて撞きと、「グォーンッ」という重厚な音が東山に鳴り響きました。

 試し撞きは午後2時から始まり、長さ約4メートルの撞木についた親綱1本と子綱16本を僧侶が引っ張る。「えーい、ひとーつ」「そーれ」の掛け声に合わせ、親綱の僧侶が後ろ向きに倒れ込みながら撞いてゆく勇壮なもの。初めて撞いた知恩院で研修中の杉田善道さん(23)=静岡県=は「緊張したが、素晴らしい経験になった」と笑顔を見せていた。31日は午後10時40分から鐘を撞き始めます。


 ◇ 知恩院の大梵鐘(浄土宗総本山)

 新しい年を迎えるにあたり、一年間の煩悩を払いのけることを目的に行います。鐘を撞く数は我々がもつ煩悩、108の数で行われます。知恩院の鐘は日本三梵鐘とよばれ、その大きさから、親綱を引く1人の僧侶と、子綱を引く16人の僧侶が共々に綱を握り「えーいひとつ」「そーれ」の掛け声のもと一打一打鐘が撞かれます。そして、鐘が撞き終わり、新しい年を迎えることになります。

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 高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トン。知恩院の梵鐘は、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られています。この大鐘は、寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人のときに鋳造されたものです。当初、この鐘を吊る環が、何度造り替えてもその重さに耐えかねていたところ、ある日、刀匠正宗・村正師弟が知恩院へ参詣の折り、この事を聞き師弟力をあわせて精魂込めて鋳造し、ついにこの大鐘を吊るすことができたとの言い伝えがあります。

 また、この大鐘を支える鐘楼は延宝6年(1678)、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されたもので、国内最大級の大鐘を支えるにふさわしく、静かななかにも堂々とした佇まいを見せています。この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘、成人式(1月)の折ですが、とりわけ除夜の鐘は、親綱1人・子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっております。

 ◇ ダイナミックな大鐘の撞き方

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 大鐘は17人の僧侶により撞かれますが、その内1人が親綱を持ち、仰向けにぶら下がるようにして撞き、残りの16人は子綱を持ち、掛け声と共に鐘を撞きます。約1分間隔で鐘を撞きますが、その合間に僧侶3人の念仏礼拝の声が響きます。鐘撞きの進行は、数取り役の僧侶が鐘を撞く合図と時間の配分、108打の数取り等々、除夜の鐘全般を指揮します。知恩院の除夜の鐘はこのように特殊な撞き方をいたしますので、ご参詣の方は鐘を撞いていただけません。

 除夜の鐘 当日スケジュール

 12月31日
午後4時00分、一般拝観終了(閉門)
 (昼間の参拝、庭園拝観が終了し、参詣入口が閉門されます。)

午後7時00分、除夜の鐘 参詣入口開門
 (女人坂入口が開門され、御影堂前まで進むことができます。)

午後8時00分頃、大鐘楼入口開門
 (一方通行の順に鐘楼の周りまで進むことができます。)

午後10時10分頃、御影堂での法要
 法要が終わって、一山僧侶が大鐘楼へ進みます。

午後10時35分頃、大鐘楼での法要
 (御導師並びに一山僧侶が大鐘の下で読経を行います。)

午後10時40分頃、除夜の鐘
 (一山僧侶により、108回の鐘が撞かれます。)
 例年、約3万人〜5万人の参詣者を受け入れます。

午後11時40分頃、参詣入口閉門
 (お待ちになる人数の頃合を見計らって、入口の門を閉ざします。)

 1月1日
午前0時20分頃、鐘撞きが終わります。

午前4時30分
(新年を迎えて、参詣入口が開門されます。)

 ※ 2008年が皆様にとって、良いお年でありますように。
 ◇ 国東市 妙徳山 泉福寺(大分県国東市国東町横手馬場1913)
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 曹洞宗妙徳山泉福寺は永和元年(1375年)大友一族の田原氏能が、母・無伝尼公(後光厳天皇の第三女)の発願により、無著妙融禅師を開山として創立したといわれています。
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 その後、天正9年(1581年)8月、豊後国主・大友義鎮(よししげ、後の宗麟)の兵火によって講堂を焼失するも、幸いにも室町中期から末期の唐様仏殿の様式を遺す大雄殿(仏殿)、開山堂等の主要な建物は難を免れ、その後、慶長10年(1605年)中津城主・細川忠興公によって再建されました。
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 明治4年までは、九州曹洞宗の総本山、根本道場として栄え、常住の僧侶も五百人を越えていたことが記録されている。今日も立派な建物が数棟あり、往時の格式の高さがうかがえます。また、それぞれの建物は屋根つきの渡り廊下で結ばれております。
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 泉福寺には、国重要文化財である開山堂(無著禅師墓塔)、宋板宏智録六巻、仏殿や県指定有形文化財の山門、『正法眼蔵聞書抄』31巻(道元禅師の孫弟子・経豪禅師筆と伝えられる)などの多くの文化財があります。
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 ※ 近年、無着成恭師が住職となられております。


 ◇ 無着成恭(1927年、山形県南村山郡本沢村の沢泉寺に生まれる)

 1948年、山形師範学校卒業。
 山形県南村山郡山元村(現上山市山元)山元小中学校(僻地1級校)に赴任。

 6年間勤務し、国語教育として生活綴り方運動に取り組む。クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が文部大臣賞を受賞。
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 1951年、クラス文集を『山びこ学校・山形県山元村中学校生徒の生活記録』(青銅社)として刊行、ベストセラーとなり、1952年には今井正監督によって映画化されました。しかし、無着先生と生徒らを取り巻く環境は、ここから激変することになります。今ほどではないものの、マスコミの取材攻勢に山形の寒村では、上を下への大騒ぎとなる。やがて、貧しい山村での「恥」を世間に晒したと言う反感を買って、無着先生は追われるように村から出てゆく。その後の生徒らにも悲喜こもごもの出来事が待ち受けていた。

 1953年、駒澤大学仏教学部に編入、卒業。明星学園教諭に就任。のち、教頭になる。科学的・体系的な言語の教育に没頭し、『続・山びこ学校』として当時の指導の成果をまとめた。1964年にスタートしたTBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者を28年間務める。

 1983年、明星学園退職。1987年、一鍬山福泉寺(千葉県多古町)住す。2003年、泉福寺(大分県国東町横手)に転任する。2004年、山形県上山市立山元小中学校にて、石碑「山びこ学校」の除幕。碑文に「きかんしゃの子どもはいつも力を合わせよう」とある。2006年、山元小学校、閉校。
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 ※ 無着師は現在、マスメディアへの露出を極力避けて老妻と泉福寺でひっそりと暮らしている由。永六輔曰く、「今の世だからこそ、無着さんは積極的に発言して欲しいのに本当に残念」。境内の落書きに、こんな一文があったとか。「住職はかなりの気分屋。気分がいいと開山堂(国指定重文)を見せてくれる。見せてくれる条件は、1、若い女性がいること2、一杯機嫌でいること。この2つが重要な条件です」。


 ◇ 『遠い「山びこ」(無着成恭と教え子たちの四十年)』佐野真一 :著
  一躍、時の寵児となった無着成恭と、名もない教え子たちが歩んだ
  その後の人生は明暗を分けた。

 『波』(新潮社、2005年5月号)の評論:柳田邦男
   (子どもが実存を凝視した時代)

 歳月は傲慢である。ジャーナリズムもまた傲慢である。両者は相互に共犯者となって、この国の人々が忘れてはならない出来事やある人物が生きた証を、容赦なく廃屋のように、遠い忘却の彼方に埋没させていく。いつも、新しい事件や話題の人物を追いかけることばかりに熱中しているものだから、生きる人間の人生街道のディテール描写や出来事の全体像の構築といった作業は、積み残されていく。(中略)

 「山びこ学校」という“事件”は、昭和二十年代、戦後の経済も社会も教育も不安定だった時代に、東北は山形県の貧困にまとわりつかれた山村・山元村の山元中学校を舞台に、青年教師・無着成恭を主人公にして展開されたものだ。だが、そう言い切ってしまうと、“事件”の多重な構造が見えにくくなってしまうので、佐野氏の『遠い「山びこ」』にそって、“事件”のいわば発展段階を次のように書き出してみる。

(1)昭和二十三年四月に旧制師範学校を卒業したばかりの無着が、自らの故郷の山元中学校に赴任し、一クラスしかない一年生四十三人に、村や家や自分の現実を直視した作文――佐野氏によれば「貧しい山村にしがみついて生きるほか術のない子供たちが、いかに生きるべきかを必死で自問した生活記録」――を書かせ、それらを無着と生徒たちが一緒になって編集し、ガリ版刷りの作文集「きかんしゃ」を次々に作っていた約三年間。

(2)作文の一つが文部大臣賞を受賞するなど、「きかんしゃ」の作文の数々が全国的に注目を集めるようになったことから、中央の出版社が「きかんしゃ」の作文を抜粋して、単行本『山びこ学校』を出版(昭和二十六年三月)したところ、ベストセラーとなり、無着が一躍マスコミの寵児となるとともに、学校と子どもたちがマスコミの取材攻勢にさらされるようになった時期。

(3)無着が昭和二十七年の衆議院選挙で地元日教組の社会党候補者の応援活動をしたり、とくに日教組幹部一行に加えられてウィーンでの世界教員会議(昭和二十八年七月)に参加した際に、予定外のソ連入りするという行動をとったりしたことから、地元で「アカ」呼ばわりされるようになり、結局、村を追われる形で教職を辞め、上京するまでの時期。

 この変遷を見ると、「山びこ学校」という“事件”は、敗戦によって戦後民主主義が導入され、経済的貧困の中で現場の教師たちがそれぞれに生活に密着した教育の取り組みを試行錯誤していた時期から、昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争を契機に、国による教育の統制化の揺り戻しへという変動が、濃厚に関連していることがはっきりとわかる。

 もし無着がマスコミや日教組の神輿に乗らずに、ひたすら地道に子どもたちと向き合う(1)の段階の現場実践を貫いたなら、あるいはたとえ『山びこ学校』を単行本化しても、無着が子どもたちをマスコミ攻勢から守ることを重視したなら、「山びこ学校」は“事件”ではなく、教育と子どもたちの可能性を考えさせる、さらに豊かな記録となったに違いない。

 佐野氏の『遠い「山びこ」』は、無着と四十三人の教え子たちの今日に至る四十年を、一人一人を探し訪ねて来し方を聞き取ることまでして検証し、政治思想や教育理論にとらわれずに、“事件”の全体像を明らかにしたものだが、再読してなお私の胸に惻々と響いてきたのは、やはり子どもたちの村や親や自分の生活を見る眼と文章表現の鮮烈さだった。

 当時代表的な作文として喧伝された江口江一少年の「母の死とその後」、うさぎを殺す自分の心をリアルに描いた平吹光雄少年の「うさぎ」をはじめ、〈雪がコンコン降る/人間は/その下で暮しているのです〉といった詩の数々。それらを読むと、いのちとダイレクトに響き合う言葉の表現というものは、たとえ子どもの作文や詩であっても、苦難に満ちた自らの生存の状況を肉眼で凝視したところから湧き出てくるのだと実感する。

 子どもたちがIT革命によってバーチャルなコミュニケーションに漬かっている今、「山びこ学校」の作文や詩の数々には、言葉と考える力の発達について、厳しく問いかけるものがある。
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 ※ 無着成恭師が怒ってます。「俺は、宗教者こそ真の教育者であるべきだと思っている。寺のやるべきことは弟子を育成することだ。口をすっぱくして弟子を教育しなければならない。日本中のお寺が本気で子弟教育をすれば、日本は必ず変る」。

 ※ 私は、親こそが吾が子の教育者であり、宗教教育は親でしか出来ないことだと思っています。日本中の親たちが本気で吾が子の躾をすれば、日本は必ず変わります。今の親たちの優先順位1位は、一体なんなのでしょうか?


 ◇ 国東市・大光寺の文殊・普賢菩薩、宗派を超え開眼供養(2008年3月17日)

 国東市国見町の大光寺で17日、文殊と普賢の二菩薩の開眼供養があった。同寺は臨済宗だが、曹洞宗で同市国東町の泉福寺住職無着成恭師(80)が導師として供養を実施。宗派を超えた儀式は珍しく、県内各地や神戸、福岡などから約120人が集まった。

 大光寺は1274年に創建。1996年から年6回ずつ文化講演会を開き、無着師を講師に招くなど交流を深めてきた。無着師はラジオ「全国こども電話相談室」の回答者を約30年間担当したことで知られる。

 両菩薩は別府市の笠置三男さん(71)と国見町出身の親族が寄贈し、檜造りで高さ約110センチ。両菩薩は釈迦如来の脇侍で文殊は知恵、普賢が行をつかさどり、本堂に釈迦三尊がそろった。この日は無着師が筆を振りかざして点眼。檀家らも焼香して両菩薩に魂が吹き込まれた。大光寺の代表役員武多成道さん(68)は「開眼が幅広い交流の縁になれば」と話した。

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 ◇ 天下の奇観・懸空寺(山西省)

 中国北部の山西省、崖にへばりつくように建てられた寺、それが有名な懸空寺。山西省北部の大同市付近にある。1400年前に建立されたもので、中国に唯一残った儒教、仏教、道教を一体化した独特の寺。

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 元は“玄空閣”と言った。「玄」とは道教の教理、「空」とは仏教の教理、のちに懸空寺と改名された。寺全体が断崖に引っかかっているという様子を物語る。

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 この寺は峡谷の小さな盆地内にあり、両側は百メートル以上もある絶壁で、懸空寺は崖にへばりつくように空中に引っかかっており、地上50メートルの地点にある。遠くから見ると、重なる殿閣を10数本の細い木が下から支えているのが見え、寺の上には大きな岩が突き出ており、観光客を威圧する。

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 懸空寺には大小40の部屋があり。楼閣は桟道でつながれ、観光客は桟道を渡る時、おもわず息を殺し忍び足になるが、ギシギシという音はしても懸空寺は決して落ちないと言う。

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 「公輸天巧」の四文字の内、「天巧」の二字が見える。↓
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 上から突き出た岩は傘の役割りをして寺を大雨から守り、またどんな洪水が来ても浸水する気遣いはない。山々が強い日差しをさえぎり、夏は天然の空調施設となります(冬もクーラーですけど)。木造にして、これまで1400年もの風雪によく耐え、保存されてきました。

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 懸空寺は、十数本の支柱が支えているように見えるが、寺を支えているのは実は断崖に深く差し込まれた横木の梁であり、この梁は地元特産のツガの木を用いています。桐油につけてあり、シロアリに食われる心配もなく、防腐作用もあります。懸空寺の下の支柱は、懸空寺の重さを支え、高さのバランスをとる役目を果たす。

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 この地域は交通の要衝となっており、懸空寺の下には重要な道がある。崖に寺を造り、信者の参拝に便宜を図ったとも、常に川が氾濫しこれを金竜の祟りだと考えたので、仏塔の替わりにこの寺を立て、竜を退治しようと考えたとも伝わる。

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 懸空寺桟道の岩壁に、「公輸天巧」の四文字が彫られています。これは懸空寺の建造技術を称えるもので、「公輸」とは、2000年前に生きた職人・公輸般のことであり、彼は中国の建築師が公認する鼻祖(開祖)。

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 つまり「公輸天巧」とは、公輸般のような天才的職人ならずんば、この建築物は成し得ぬというほどの意味あい。

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 ※ 高所恐怖症ならずとも、脚に力が入り直に震えてしまうとか。

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 ※ 是雖天下之奇観、尚為君開仙境妙

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