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『明日への遺言』(2008年、上映中)
監督:小泉堯史
出演:藤田まこと(岡田資)、富司純子(妻)、西村雅彦、蒼井優、田中好子
ロバート・レッサー(弁護側、実にフェアな弁護をする)
フレッド・マックイーン(検察側、スティーブの息子で父親そっくり)
太平洋戦争末期、無差別爆撃を実行した米軍機の搭乗員を処刑した責任を問われ、B級戦犯として戦争裁判(横浜)にかけられた岡田資(たすく)中将。傍聴席から妻・温子や家族が見守る中、彼はひとり“法戦”に挑んだ。
部下を守るため全責任を負った岡田中将の潔い姿は、次第に法廷内にいる全ての人の心を動かしていく。そして、判決が下る…。戦勝国アメリカとの法廷戦争において、自己保身に終始する指揮官の多い中にあって、最後まで誇り高く毅然として立ち向かった岡田資中将と、その家族の深い絆を描いた真実の物語。
※ 映画のほぼ全編が法廷シーンと言う、極めて地味な作品だが、静謐な緊張感が美しく撮られている。富司純子などはセリフは一切なし、わずかにナレーションのように短いコメントが画面にかぶるのみ。表情の微妙なニュアンスのみで夫と会話をする。終始3台のカメラが回っており、法廷に登場する全ての役者は全方位の演技が求められた。長いシーンでは7〜8分を一気に撮ったと言う。英語と日本語との応酬で、ヘッドホーンを通じて通訳の言葉を聞くのだが、小泉堯史監督は実際に、日本人には日本語を、アメリカ人には英語を流している。映画で観るかぎりは不要と思われることでも、実際の軍事法廷をそこに出現させることに、監督としてのこだわりがあったようだ。
○ 1945年(昭和20年)3月10日零時8分、東京大空襲
アメリカ空軍B29爆撃機344機による焼夷弾爆撃。
死者約10万人、焼失家屋約27万戸。第二次大戦で最大級の被害。
明白なる無差別爆撃であり、戦争犯罪であった。
そして、名古屋、大阪へと。ついには、広島、長崎へ。
勝者の戦争犯罪が裁かれることはなかった。そして、勝者アメリカは…
今もなお、振り上げた拳を下ろせぬまま、もがき苦しんでいるのだ。
◇ カーチス・エマーソン・ルメイ
(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日〜1990年10月1日)
第二次世界大戦期の米合衆国軍人。戦後は空軍参謀総長まで登りつめた。
戦略爆撃の専門家、東京大空襲を初め日本焦土化作戦の立案者。
第二次世界大戦開戦当初、ルメイは無名の大尉であった。戦争はルメイにビッグチャンスを与え、中佐に昇進させた。英国に渡り第8空軍の一員として、ドイツ爆撃を指示。絨毯爆撃の戦術で大きな打撃を及ぼし、その功績で1944年に少将となる。
その後、第21爆撃集団司令官に赴任、グアムに移動。ルメイは対日作戦として、日本の都市の無差別戦略爆撃を立案する。これは前任者・ハンセルの精密爆撃作戦が手ぬるいと判断したため。高高度からの爆撃の標的破壊率が5%に過ぎなかったため。
ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、
低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする
爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする
搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す
攻撃は夜間とする、この4点だった。
さらにルメイは、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。ルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめる。日本側は都市の軍需工場、民間住宅を問わず、全て徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。焦土化作戦は東京・名古屋・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。
ルメイが考案した日本焦土化作戦について、当初「民間人攻撃は国際法に反する」と反対の声があがっていた。しかし「日本では民間人の居住地区でも軍需物資を作っている。それを考えれば民間人攻撃は戦略上重要なことだ」と押し切ったという。
※ 昨今、「品格」の言葉が安っぽくなったとは雖も、真の品格何れにありや?
◇ 戦争犯罪者・ルメイに勲章を授与する我がニッポン
日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄しているとは言うものの、対日無差別爆撃を指揮した当事者に、わざわざ勲章を与えることもあるまい。1964年、佐藤栄作内閣の時に、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で、カーチス・ルメイ少将に対し勲一等旭日大綬章を授与している。
後年、ルメイ自身が「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていただろう」と述べている。だが、ルメイは同時に「この空襲が日本の降伏を早め、日本軍による米軍への被害を最小限に止めた」と付け加えることも忘れない。同様の理屈は、広島、長崎についても言われるようだ。ルメイの前任者は、軍事目標への精密爆撃にこだわった故に更迭されている。ルメイは米軍の意志に沿って、戦争犯罪に手を染めたのだ。
勲章授与に関しては、もうひとつの興味深い話がある。元海軍航空参謀の源田実が戦後、自衛隊幕僚長時代に、みすみす性能の劣るロッキード戦闘機をF104Jとして選定した見返りに、アメリカから勲章を授与されており、源田実の勲章授与の返礼として、ルメイに勲章を贈呈した、と言うもの。
通常、外国人にたいしては天皇陛下が自ら臨席して授与(親授)するが、この時、昭和天皇は臨席なされなかった。天皇代理としての佐藤栄作総理大臣より授与する形をとった。源田実は退官後、参議院議員になっている。佐藤栄作は、後にノーベル平和賞を受賞している。そして、佐藤B作は、佐藤A作にはなれなかった。
陸軍中将・岡田資は、昭和20年に設けられ本土決戦に備えて、愛知県・岐阜県・静岡県・三重県・石川県・富山県を管轄する東海軍司令部の司令官の職にあった。戦後、彼は捕獲搭乗員38名の処刑の責任を問われ、1948年5月、B級戦犯として、横浜の連合軍裁判所において裁かれる。
低空飛行攻撃は、日本側の対空高射砲攻撃の射程内に入り、被弾するB−29の数が増え脱出し捕虜となるアメリカ兵が続出する。爆撃下の各司令部は、その対応に苦慮していた。そこで、憲兵司令部は外事課長の私信を各司令部に送る。文面は、各司令部において適当に厳重処分せよというものだった。以後は各司令部で、「適当に厳重処分=処刑」と判断し略式裁判が行われ、その殆どが重要戦争犯罪者の判決で直ちに斬首された。
戦後GHQ横浜BC級裁判で、捕獲搭乗員処刑の責任への追及が行われた。「適当に厳重処分せよ」との私信を出した外事課長は、処刑せよという命令は出していないと逃げ切り、無罪。その結果、多くの現場の責任者が有罪となった。
岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものである」と判断した。そしてこの裁判を「法戦(ほっせん)」と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを続ける、という覚悟だった。法戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最期を飾らんことを」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、一緒に起訴された19名の部下たちを救おうとした。さらに、搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置として正当であったことを立証して、日本軍に有終の美を飾ろうとした。
絞首刑の判決が下されて退廷する時、岡田中将は家族にひと言、「本望である」と告げ莞爾として立ち去る。翻って昨今のわが国に目を移せば、謝罪会見、責任転嫁のオンパレード。嗚呼、やんぬるかな。
※ 身はたとへ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂(松陰辞世の句)
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