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『田園に死す』の雛壇 ※ 雛壇で、つい連想してしまうのが、青年時代に観た映画『田園に死す』。忘れがたい強烈な印象を受けたこの映画は、有楽町の大劇場“日劇”の片隅にある「日劇文化」という小さな劇場で観た。今は既にない、小さな劇場の、小さなスクリーンで観た、この映画は、私に「寺山修司」を決定づける事になる。 『田園に死す』 予告編(1974年) ○ 映画『田園に死す』(監督・脚本:寺山修司) 寺山修司の詩作とJA・シーザー(本名・寺原孝明)の音楽とが見事にフュージョンして、異次元の芸術世界を出現せしめた。 タイトルバック『田園に死す』と共に始まる曲が「こどもぼさつ」。 児童合唱団が熱唱する、この歌は驚くほどドラマティックだった。 「こどもぼさつ」(唄:児童合唱団) 賽の河原に集まりし、水子、間引き子、めくらの子(まま) 手足は石にすれただれ、泣き泣き石を運ぶなり 指より出ずる血の滴、身内を朱に染めなして 父上恋し母恋し、呼んで苦しく叫ぶなり あゝ、そは地獄、子供地獄や 「化鳥の詩」(朗読:八千草薫) 化鳥(八千草薫)が、少年時代の私(高野浩幸)と嵐(原田芳雄)に、自分の過去を語りかけるシーン。八千草の東北訛りの語りは、淡々としていて、しかも哀切極まりない。 八千草薫が、むちゃむちゃきれいだった。寺山の“永遠の母親”像か。
とても長い戦争だったわ。私の家は田圃ニ反の水呑み百姓だったの。でも、父さんが出征したあとは、だれも田を耕す人がいなくなってしまった。母さんが心臓発作を起こして倒れて、田は荒れ放題になり、草はぼうぼうと生えていた。米びつの中はいつも空っぽだった。食べるものがなくて、盗みもしたわ。その頃、田を売らないか、という話があった。
夜になると、埋めた真赤な櫛が唄をうたった。母さんは嫌だと言った。黒い鞄を持った借金取りが毎日やって来て、田を売ることをすすめたんだけど、母さんは半狂乱になって、父さんに申し訳がない、父さんが帰ってくるまでは、田を手放すことなんてできないと言っていた。だけど、その母さんも、まもなく死んだわ。そして、田は人手に渡ることが決まり、わたしは他の町の親せきに引きとられることになった。わたしは、真夜中にそっと起き出して、売られてしまった夜の冬田に、死んだ母さんの真赤な櫛を埋めたわ。 畑をかえせ、田をかえせ、櫛にからんだ黒髪の、 十五の年のお祭りの、お面をかえせ、笛かえせ、かなしい私の顔かえせ。 (八千草の、「かえせ」の語りかけが、信じられぬほど悲しく美しい。) 私は焼跡の女巡礼、うしろ指の夜逃げ女、泥まみれの淫売なのです。 「母さん、どうか生きかえって、もう一度あたしを妊娠して下さい。 あたしはもう、やり直しができないのです。」 夢の中で、あたしは何度も田舎へ帰ってきたわ。 そして帰ってくるたび、田を掘り起こした。 すると、どこを掘っても真赤な櫛が出てきた。 村中の田という田から、死んだ母さんの真赤な櫛、 うらみの真赤な櫛、血で染めた真赤な櫛が、百も二百もぞくぞくと出てきた。 そして、どの櫛も口を揃えてあたしに言った。 「女なんかに生まれるんじゃなかった」 「人の母にはなるんじゃなかった」。 (ラストの部分、八千草の朗読が異様な迫力を帯びてくる。) 『田園に死す』 オープニング 「地獄篇」(唄:新高恵子、天井桟敷合唱団、東京混声合唱団) あゝ、あゝあゝあゝ あゝ、あゝあゝあゝ(もののあはれを感じさせる) 日は暮れて鐘は鳴る、寺の迷い子が手でまねく 日は暮れて鐘は鳴る、死んだ我が子の赤い櫛 (ちょっぴり、アポリネール風) 「桜暗黒方丈記」(唄:児童合唱団・天井桟敷合唱団) 天に鈴ふる巡礼や、地には母なる淫売や 赤き血しほのひなげしは 家の地獄に咲きつぐや 柱時計の恐山、われは不幸の子なりけり 死んでくださいお母さん 死んでくださいお母さん 地獄極楽呼子鳥、桜暗黒方丈記 「惜春鳥」(唄:蘭妖子、児童合唱団、東京混声合唱団) 間引きを強要された女(新高恵子)が、子供を川流しにする。子供を追いかける女の遥か後方から、流れて来る雛壇のシーン。やがて流れ寄るものが、雛壇と知れる。次第に雛壇の映像が画面いっぱいになる。音楽もそれに呼応してボリュームアップしてゆく。 スクリーンを見つめていて、あれほど感動したことは後にも先にもなかった。身の毛もよだつ程の感動を味わった。その後、雛壇を見ると、その時のBGMが頭に響き渡った。天井桟敷の蘭妖子という女優、その名の通り面妖なる人物であった。その風貌、その声音がいかにも天井桟敷だった。 姉が血を吐く 妹が火吐く 謎の暗黒壜を吐く 壜の中味の三日月青く 指でさわれば身もほそる ひとり地獄をさまようあなた 戸籍謄本ぬすまれて 血よりも赤き 花ふりながら 人のうらみを目じるしに 影を失くした天文学は まっくらくらの家なき子 銀の羊とうぐいす連れて わたしゃ死ぬまであとつける 『田園に死す』 惜春鳥 雛壇 「短歌」(朗読:寺山修司) 朴訥な東北訛りで寺山修司が自作短歌を朗読する。彼の声は同世代の男たちを 魅了し、抗し難い呪縛力をもって、他を圧倒した。 ほどかれて少女の髪にむすばれし 葬儀の花の花ことばかな 亡き母の真赤な櫛を埋めにゆく 恐山には風吹くばかり とんびの子なけよ下北鉦たたき 姥捨以前の母眠らしむ かくれんぼ鬼のまゝにて老いたれば 誰をさがしにくる村祭 濁流に捨て来し燃ゆる蔓珠沙華 あかきを何の生贄とせむ 見るために両瞼をふかく裂かむとす 剃刀の刃に地平をうつし 新しき仏壇買ひに行きしまま 行方不明のおとうとと鳥 吸いさしの煙草で北を指すときの 北暗ければ望郷ならず 「和讃」 少年の私(高野浩幸)が草衣(新高恵子=間引きした女)に犯されるシーン。 これはこの世のことならず、死出の山路のすそ野なる、さいの河原の物語 手足は血しほに染みながら、河原の石をとり集め、これにて回向の塔を積む 一つつんでは父のため、二つつんでは母のため、三つつんでは国のため 四つつんでは何のため、昼はひとりで遊べども、日も入りあいのその頃に 地獄の鬼があらわれて、つみたる塔をおしくずす 「人々はどこへ」(合唱:天井桟敷合唱団・東京混声合唱団) ラスト・シーンの曲。スキャットの繰り返しで、曲調が次第に盛り上がって映画終了。田舎の古びた家で、現在の私と過去の母が、共に向かいあって黙々と食事をしている。カメラが若干退かれる。堅牢に思われた田舎家の三方の壁面が、作り物のセットのようにぱたぱた倒れると、そこは新宿の雑踏の只中。意表をつく演出に、観客が唖然とする中、時空を越えた母子は雑踏に紛れてゆく。これまでの出演者が次々と現れては消えてゆく。実に見事なラストだった。 たかが映画・・・、本籍地:東京都新宿区新宿字恐山。 ※ 他に、春川ますみの「空気女」の演技が良かった。全く現実味のないリアリティーとも言うべき、いわく言いがたい雰囲気が漂って、映画に奥行きを与えた。 ※ 過去はつねに、自分自身によって、脚色されてゆく。
我々は、たとえ現在において無力であっても、 過去と、将来においては、何らの拘束も受けない。 その延長線上にこそ、「現在」という一点が存在している。 |

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