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{ 何が正しくて何が間違っているのか(2)}
NHK「知への旅」ルネッサンス より
ヤン・フスの死から100年後、一人の男が再び教会に異議を申したてました。この異議申し立てはヨーロッパを二分し、彼の名を永遠に歴史にとどめることになりました。その人物とはマルティン・ルターでした。
「私が大学で学んでいた時、図書館でヤン・フスの説教集を見つけた。
その本を読んだ私は驚きを隠しきれなかった。なぜこれ程の洞察力と知性をもって聖書を解説した人物を火あぶりにしたのだろう。その名前は忌まわしいものとされていたので、その名を口にしたら天が崩れ落ちるのだろうかと思った。悲しい思いでその本を閉じた。」
ルター
ルターもフスと同じように、こう信じていました。聖書の言葉が全てである。神と人間の間に介在者は必要ない。
昼も夜も、私は、人は信仰によってのみ義とされる、と言う言葉の意味を考え続けた。私は途方に暮れて、もがき苦しんだ。そして突然、私はこう思った。
「そうだ、信じる者は皆、救われるのだ。」
私は生まれ変わり、天国に足を踏み入れた心地がした。」
フス
「異議に立ち向かう者には、真実の瞬間とでも言うべきものがありました。苦しみもがいている内に、突然ひらめき、自分が何をすべきかが判るんです。その瞬間、彼は解放感を味わいます。心が解放されるのです。そして後戻りはできなくなります。」
セオドア・K・ラブ
プリンストン大学歴史学矜持
キリスト教徒には信仰と聖書が有ればよい。聖書を通じて、人は神と直接結びつくことが出来る。介在者としての教会は必要ない。それがマルティン・ルターの発見した真実でした。
ルターは教皇の唱える教義と聖書の教えとの間に明らかな矛盾を見て困惑しました。
しかし勤勉な修道士としての教育を受けたルターは、最初自分の考えを隠していました。
所が1517年、教皇レオ10世はローマのサンピエトロ大聖堂の改築費用を捻出する為に、新たな贖宥状を発行しました。
どうしたら罪を償えるか悩み続けてきたルターにとって、金で罪を償う贖宥状は許せないものでした。
「キリスト教徒の金は強欲な大聖堂に吸い込まれて行く。ローマ中の教会や宮殿、城壁や柱が我々の金で建てられる。だが贖宥状で罪を償うことはできないのだ。」
1517年、ルターは贖宥状を批判する文書をウィッテンブルグ城の教会の扉に貼り出しました。いわゆる95ケ条の論題でした。
「95か条の論題」 1517
ルターは慎重に言葉を選びながら、贖宥状の販売は聖書に反することを公にしています。ルターは神学者たちに議論を促すつもりでしたが、反響はルターの予想を超えて広がって行きました。
教皇はザクセン侯フリードリッヒにルターを捉える様、命じました。
「親愛なる息子よ、かの邪悪なマルティン・ルターをそなたが保護していると聞いておる。直ちにルターを捉え教皇庁に引き渡すよう命ずる。」
レオ10世 1475−1521
しかしフリードリッヒの返事は。
「ルターの説を撤回させるに足る理由があるとは思えません。彼をローマに送るにしても、追放するにしても、それは彼が異端であると宣告されてからで好いでしょう」
フリードリヒ3世 1463−1525
ザクセン侯 ドイツの反皇帝派有力諸侯
ルネサンスの君主の保護により、ウィッテンブルク城の教会は宗教改革の砦となりました。
フリードリッヒの保護を受けてルターは異議申し立てを続けました。
彼の主張は教会の壁を超えて広く世間に知られたのは、ルネサンス最大のある発明のお陰でした。
そう、活版印刷でした。
15世紀の半ば活版印刷が実用化されると知識は特権階級のものだけではなくなりました。すでに人文主義の本が出版され、印刷機の威力を証明していました。
今度はルターの番でした。彼はローマカトリック教会に対する痛烈な批判を展開、彼の支持者も文章や絵で教皇派を風刺しました。
教皇派も反撃しました。どちらが正当かを争う戦いが始まりました。ルター派とカトリック派は世界初の宣伝戦争を繰り広げたのです。
教皇レオ10世はルターの主張を嫌というほど聞かされました。そして1520年、教皇は遂に異議を唱え続けるルターを破門にするという勅令を出します。
「主よ我々の申し立てを裁きたまえ。
イノシシが主のブドウ園を荒らしている。ドイツで古代の異教が息を吹き返しつつあることに我々は深い悲しみを覚える。多くの誤りを含むマルティン・ルターの著作は燃やされるべきである。ルター自身は60日以内に、教皇庁に服従すべきである。」
レオ10世
「もう賽は投げられた。引き返せないのだ。
教皇庁が私をどう思おうと、どうでも好いことだ。彼らとは和解しない、永遠に彼らと関わるつもりはない。
彼らが私の著作を燃やすなら、私もお返ししよう。教皇の教練集を燃やすのだ。あれこそ異端の書だ。」
ルター
「人は迷いを超えて為すべき事をするんです。私がウーマン・リブ運動の出発点となった本「新しい女性の創造」を書いた時、私はどうかしているんじゃないかと言う気持ちの揺れがありました。自分の信じることが社会の常識に挑戦するものだと言う事が判っていたからです。でもあの本があれ程の革命を引き起こすとは思っていませんでした。ほんとに予想もしていなかったんです。もしそれが判っていたら、その責任の重さに、きっと震え上がっていたと思います。」
ペティ・フリーダン
ウーマン・リブの火付け役
「新しい女性の創造」著者
「私たちは学生運動をしながら、自分のことを改革者だと思っていました。歪んだ体制が改革を拒むのなら革命的とも言える位の行動をして、体制を変えて行くしかないと思っていました。ちょうどルターが、神に忠実であろうとすれば、既成の教会と戦わなければならなかったのと同じことです。」
トッド・ギトリン
アメリカ学生運動の元指導者
「60年代アメリカ」著者
ルターはもう後戻り出来ませんでした。
ドイツの新しい皇帝カール5世はルターをウォルムスの帝国議会に呼び出しました。ルターはヤン・フスの二の舞になる事を恐れず、喜んで出かけて行きました。
ドイツ・ルネサンスの1521年、ルターは彼を非難する人々の前に立って力強い演説をしました。
「私の良心は神の言葉に従うものだ。だからこそ私は自説を撤回しない。良心に背いては正義も平和もないからだ。神のご加護を。アーメン。」
ルター
ルターの一歩も引かない挑戦を受け皇帝カール5世は勅令を出しました。
「これよりルターは異端を宣告されたものとする。彼を支持する者も有罪。彼の著作は人々の記憶から抹消されるべきである。」
カール5世 1500−58
ドイツ神聖ローマ皇帝 ドイツ諸侯と反目
人々はルターの運命をかたずを飲んで見守っていました。ルターが行方不明になると殺されたのではないかと言う噂がながれました。ドイツルネサンスの先駆的な画家アルブレヒト・デューラーは日記にこう記しています。
「金曜、マルティン・ルターが裏切りによって捕えられたと言う噂を聞いた。彼の生死は判らない、もし既に殺されてしまったとしたら、それは反キリスト的な教皇制度を非難したからだ。彼はキリストの真実の為に受難したのだ。」
画家アルブレヒト・デューラー
1471−1528
しかし、ルターは生きていました。ザクセン侯フリードリッヒによって連れ出されワルトブルグにある彼の城に匿われていたのです。ルターはルネサンス時代の二人の君主、ザクセン侯フリードリッヒと皇帝カール5世の勢力争いの駒となったのです。ルターはここで支持者と離れて自ら唱えた異論について、一人思索を深めることになりました。
ルターは聖書をドイツ語に翻訳し始めます。
ウィクリフやフスと同じ様にルターも又、キリスト教徒は聖書の言葉に直に触れるべきだと考えていました。
1522年に出版された聖書のドイツ語訳はベストセラーとなりました。
聖書のドイツ語訳出版 1522
ルターの敵はこう書き遺しています。
ルターの聖書は大量に出回り、皆に読まれている。床屋も靴屋も女も、たいして知識もない者も、それがあたかも真実の泉であるかの様に読んでいるのだ。
それがキリスト教の分裂を招くものであると人々に判らせることは出来ないのか。
ルターはこのような批判に、黙っていませんでした。
「信じるも信じないも、その人の良心しだいだ。教区の司祭は人の意思に口出しすべきではない。人々が自分の意思で信じるものを認めるべきである。人々を縛り付けてはならない。」
ルター
ルターがワルトブルクで隠遁生活を送っている間に、彼の宗教改革の政治的、社会的影響は広がって行きました。ドイツでは農民たちルターの考え方に触発されました。
「ルターは全て人は自由だと言う。だが、我々の領主は、奴隷として生まれたからには、領主に絶対服従しなければならないと言う。
領主が我々を農奴の身分から解放する事を望む。」
ルターは彼の主張から枝分かれした新たな異議申し立てが始まったことに気づいていました。
「平民も考え始めたのだ。領主に見下されることに反発して力を結集するようになったのだ。
ルター
ルター
領主たちは鎮圧のための兵士を繰り出しました。多くの農民が拷問され、辱めを受け、殺害されました。最終的には、農民側の死者は12万にも達したと言われています。
ルターが残虐な弾圧を支持したことに憤慨したトマス・ミンツァーは農民側に立って、新たな異議申し立てをしました。
「マルティン・ルターは貧しい者には神の言葉さえ有れば十分だと言う。彼は判っているのだろうか、日々の糧を得るのに勢一杯で神の言葉を読む時間もない人々が居るということを。
領主が貧乏人を苦しめ、川を泳ぐ魚、空を飛ぶ鳥までも自分のものだと主張する。嘘つきマルティン先生はそれを見てアーメンと言う。日和見主義のマルティン先生に何の勇気があるものか。ウィッテンブルクの教皇め、フラフラと軟弱な、このおべっか野郎。」
トマス・ミュンツァー 1490−1525
ドイツの宗教家 農民戦争の指導者
最大の皮肉は、最大の改革者であるルターが革命に背を向けたことでした。自分の主張を守る為にルターは反動的になりました。自分の説に固執する熱意は時にローマカトリック教会以上でした。
「私の教義は誰にも判断させない。例え相手が天使でもだ。キリスト教徒には命を賭けて信じる事ができる明確な教義が必要なのだ。」
「自分の信じる道を発見した者は、それをどこまでも守り、自分の思う通りに世の中を変えて行こうとします。自分はどうすべきか判っているのだからと。しかしそれは傲慢で反人道的な行為です。人々の生活を考えていないからです。」
プロニスワフ・ゲレメク
ポーランド「連帯」元活動家 下院議員
プロテスタント教会と、復興をしたカトリック教会の対立は宗教戦争へと発展しました。お互いに相手の信仰を認めようとせず、殺しあったのです。
ヨーロッパ中を恐怖と殺戮の嵐が吹き荒れました。
やがて自分たちと違う信仰に対する寛容の精神を求める声が高まって行きます。
フランスの人文主義者セバスチャン・カスティリオは異論を唱える者に対して新しい考え方を示しました。
「人を殺した所で教義を変えることは出来ない。ただ人が死ぬだけなのだ。」
セバスチャン・カステリ・ヨン 1515−63
フランスの神学者 人文主義者
異論に対しても寛容の精神を示す。
この考え方こそがルネサンスが到達した人間の叡智でした。
「ルターや他の改革者たちが行き過ぎとも言える挑戦をしなかったら、現代と言う時代はやって来なかったでしょう。」
トッド・ギトリン
アメリカ学生運動の元指導者
「異議を唱えると言う事は、人類の歴史に於いて非常に重要なことです。
教会と言う既成の権威に立ち向かった人々の精神は、今日の社会の中でも脈々と生き続けています。」
プロニスワフ・ゲレメク
ポーランド「連帯」元活動家
宗教改革から500年経った今も、権威に対して異議を申し立てる人々がいます。
今日、街頭で抗議運動が出来るのも、ルネサンス時代に偉大な先人達が居たからなのです。
「ヤン・フスやマルティン・ルターが宗教、政治、社会の権威に立ち向かっただけではありませんでした。
彼等は、そのつもりが有ったかどうかはともかく、異議を唱える者が居なければ権威は簡単に独裁者になり得ることを教えてくれたのです。
ルネサンスの勇敢な思想家たちのお陰で、私たちは異議を唱えること、そして異なった考えに対して、寛容の精神を示すことの大切さを知っています。
本当に自由であれば、真実はどこまでも追求できると言う事を私たちは知っています。それはルネサンスの末期にイギリスの詩人ジョン・ミルトンが書き残した言葉によく表れています。」
案内役
イアン・リチャードソン
イギリスの俳優 英米の舞台を
中心に 映画 TVでも活躍
「知ろうと言う気持ちが大きければ、当然多大な議論が行われ、様々な意見が登場する。真理と虚偽とを組み打ちにさせるがよい、自由で公開の場の対決に於いて真理が虚偽に負けた例があるだろうか。」
「言論の自由―アレオパチティカ」から
これは今日に於いても、最も解き放たれた理想です。その理想はルネッサンスと呼ばれる時代かちが受け継いだ遺産なのです。
私は思う。
言うこととやる事が違う。
それを追求すると暴力となって返ってくる。
力を信ずるものは道理は後回しなのだ。
人々の上に立てるだけの人格を持たない者がリーダーになるからおかしなことになるのだ。
歴史を振り返ってみれば、どのリーダーが何を間違ったか知ることができる。
むろん、「もしも」や「こうしていれば」は無意味な愚痴かもしれない。
しかし後世への良き、悪しき手本であることは間違いない。
トップリーダーは比較困難なものを比較選択し、データ不足の中で決断しなければならない。
統率すべき部下がどれだけ責任感をもってことに当たっているのか知らなければならない。
フスやルターは何を我々に伝えてくれているのだろうか?
現実主義者は「力」を信じ、理想主義者は「理」を信ずる。
結果は現在の通り「力」が勝利している。
しかし、「力」は人々を押さえつけることはできても、人々を治めることはできないのだ。
権力者はそれを忘れてしまうのだ。
自称、民主主義のリーダーを唱えながら、多数の貧民を押しつぶしている大国。
この少数の富裕層向き国家群は覚醒すべきではないのか?
確かに低所得層は教養がない。道徳、知性に欠けるところがある。
それはやむを得ない。出発点からハンデを背負っているのだから。
それは自由市場経済の自然な成り行きだ。
問題は勝利者層である。
競争に勝ったからそれで良いのだろうか?
個人の自由なのだろうか?
早い話が、暴力団が成り上がって政治、経済を掌握したら、どんな国家になるのだろうか?
デタラメな法律がまかり通るだろう。
彼らの世界認識は弱肉強食世界である。世の中は闘争世界なのだ。
闘争社会に於いて「弱さ」は「悪」なのである。
皆さん、貴方の世界観では現実社会は闘争社会ですか?
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sw5491 様、ご無沙汰しております。
お変わりはありませんか?。。
ご訪問・心強いお言葉ありがとうございます。
同感・痛感してる内容で、、、
今のこの世界、どうすればいいんでしょうか?
昔と違って、最先端技術で、想像もできない手口を使い、
殆どの人達が騙されたことさえ気づかず騙され、やられてる現実を。
あらゆるところが腐りきって、
腐ってる人達が連日、正義、人権、福祉、環境、愛国、良心などを掲げてる現実を。
偽が真より真らしくて真に勝ち、
不意が正義より正義らしくて正義に勝ち、
悪が善より善らしくて善に勝ってる現実で、、、
無力さに怒り、悔しい思いをする毎日で、
とても悲しく、辛くて、苦しい、、
いつからこのような世の中になったのでしょうか?。。
2014/10/15(水) 午前 10:47 [ ansund59 ]
ansund59さん、今日は。
安部さんが首相になったので日本でも力の論理が動きだしました。
私は必然的な動きだと思っています。
中国、韓国のムーブメントは承知の上の意思を示しています。
ですから日本としては自分の意思も明確にしておくべきです。
私は愛国心を持っています。
現在の日本は天皇制が崩壊して一体的に確立されていた、社会的道徳・倫理が崩壊してしまいました。
戦後、アメリカニズムが進みましたが、所詮日本人は日本人なのです。
ラップの真似は出来ても、あの強烈な自負心や積極進取の真似はできないのです。
2014/10/16(木) 午後 3:24
彼らの個々人はキリスト教の文化の上に生きていますから、社会悪に飲み込まれないだけの免疫力をもっているのです、
一方、日本人は本来は、謙虚で出しゃばらず服従するのがすきなのです。
戦前いた、所謂、近所のカミナリ親父たちは敗戦で自信、発言力を失い黙ってしまったのです。
その結果、若者たちは自分たち、仲間内でかってにルールを作ってしまったのです。
我々にはアメリカの真似はできないのです。
フロンティア精神や自律の精神はアメリカの独立運動と開拓生活のなかから生まれたのであって、日本人には無理なのです。
ではどうすれば良いのでしょう?
私は両方の良いところを吸収発育するしかないと思っています。
つまり蔓延ってしまったヤクザ・暴力団の文化を街々から排除し、自律した精神をこの国に育てるしかないと思います。
戦後我々は争いはいけない、和を大切に。と教わってきました。
しかし、戦争に負けようが、原爆を落とされようが「悪」とは戦わなければならないのです。
2014/10/16(木) 午後 3:29
つづき、
抽象的な意見に聞こえるかもしれませんが、私はその通りにいきています。
今、日本の「正義」は負け続けています。
警察は暴対法に基づき暴力団排除に努力していますが、どうも外務省の向こう側に逃げられ、手を打てないように見えます。
これは政治家が問題の先伸ばしをやっているからだと思います。、
問題は憲法改正ではありません。
「地位協定」の筈です。
このせいで、せっかく小渕首相が命を犠牲にして成立させた「暴対三法」も効力をそがれているのです。
なぜ地位協定がポイントになるのか?
なぜなら外国マフィアは日本の悪徳調査会社(実は暴力団)を使用しているからです。
建前は対テロ、対スパイです。実際は利権ですが。
http://blogs.yahoo.co.jp/sw5491/65673948.html
費用はいくらでもデッチアゲ請求できるでしょう。
セキュリティは犯罪を必要としているのです。
2014/10/16(木) 午後 5:34
上記の
http://blogs.yahoo.co.jp/sw5491/65673948.html
が動作しない時は「Yahoo JAPAN!」のホームページの検索窓から検索してください。
2014/10/17(金) 午後 8:24
test
2014/12/6(土) 午後 6:58
test
2014/12/6(土) 午後 6:58