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「人を恨めない優しい人」
人を恨む気持ちには、わけがある。何かが起きて、相手から被害や損失や恥辱を被り、恥や悔しさや怒りを引き起こされたから恨むのが普通であろう。わけもなくただ嫌いと言うだけでは、嫌悪や攻撃性は残っても、長く恨む感情には繋がりにくい。
しかし本来他人から受けた被害や損失、屈辱などを、遺恨に留めることのできない人もいる。優しく気弱すぎて、怒りも反撃も表面化させられないのである。「他人を恨めば自分の心が壊れてしまう」と述べる優しい人も数多い。物を取られたりひどく侮辱を受けたりしても、「他人と交渉したり相手に抗議したりする事が怖い」、苦手だと黙り込む。
当然この人達は、他の性格要因でカバーされない限り、やられっぱなしになりやすい。プライドや怒り、正義感などが特に強い人であれば対抗していけるが、そうでなければ「いじめ」の格好の対象になる。いじめはいびつな人間関係の一種であり、理屈抜きに繰り返し行われる。いじめに止まらず、恐喝、詐欺、窃盗、傷害からレイプに至るまで、多くの人達がこのような性格故に泣き寝入りしている。
周囲で見ている人がいて、何で反撃しないのかと促しても、「いいんです」と引き下がる。さらに自責傾向が付け加わると、自分が受けた被害を「自分が悪かったんです」と合理化し、加害者を弁護し始める。相手を非難すればばさらに自分の心が痛み、黙って我慢しておく方がいいという。自責傾向の強すぎる人への対応には困らされる。DV、暴行、レイプなどの対しても被害届が出なければ、警察も動けない事が多い。カウンセリングでそのことを話題にすることすら苦痛であるとなると、心的外傷(PTSD)とすら呼びたくなるが、似たような対人関係のすべてにおいてその人の基本的な姿勢である事が多く、個別の「外傷」に反応しているわけではない。
心の構造は複合的であり、独立した諸要素が共存する。自我の統一機能がこれらをどの程度「自分」としてまとめ上げることができるかは微妙なバランスに掛かっている。この人達にとっては怒りや闘争や攻撃心が自分の内部に生じると、同時にそれが恐怖や苦悩とも感じられ、怯えや罪悪感すら生じるらしい。烈火の如く怒り、火の玉のように統一できれば相手の攻撃は撃退できるのであるが。
しかし彼らはこうはなれない。自己分裂しないためには敵や屈辱の存在を認めず、敵意や攻撃心も燃やさず、そっと内部の平安を保ち続けるように勤めるのである。これが一番いい方法であると小さい頃から身につけており、他のパターンは取れない人によく出会う。そういう人の内面の行動様式を粗雑に変えることはできないし、実際に事件が起きればあとは家族や保護者がどういう態度を取るかにもかかってくる。しかし往々にして親もまた優しい人であることが多く、本人の気持ちを大事にして、過激な手段に訴えることは少ない。
http://www.akita-u.ac.jp/hkc/rancor.html
より
私は思う
そうだろうか?
ただ単に弱虫で勇気が無いだけなのではないか?
もちろん心的障害の場合は別である。国民的レベルの話だ。
「悪」への服従。
その後ろ姿を子どもは見ているのだ。
「なあ〜んだ、そうなんだ。」
・・・どうして「誇り」を持てるだろうか?
それが恥ずかしいから、自分の弱さを美化して誤魔化しているのではないか?
私は戦後日本人は「誇り」を失ったと思う。
外国を見てみれば、しっかりした国では命、家族、財産への攻撃、予告、暗示に国民が立ち向かっている。
「争いはいけない」と云う単純な理由で人間の尊厳、人権を放棄してはいけない。「服従」それは奴隷だ。
人間としての義務放棄を誤魔化しているように見える。
今の日本人は「悪」に服従している。
人間らしく生きるには「誇り」が必要なのだ。
戦争の害毒への反動で「争い」を拒否する気持ちは分るが、「悪」と戦う義務まで否定してはならない。
それは人間らしく生きるため、尊厳ある生き方のため、人類肯定のために必要であり、義務なのだと思う。
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