如何ならむ初山歩みの麻衣

理想がないものは、自己内で理と理が対立して、結論が出せない。

OH鑑

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私の投稿記事は実践理性批判(カント)、学生に与う(河合栄治郎)を随時引用致して居ります。

尚、このブログは現在戦闘中です。
縁害防止の為、コメントは鍵つきですと安心です。

ブログのアラシクズはゴミ籠に排除しました。
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red*u*g*2*0l
http://blogs.yahoo.co.jp/redpurge2oo92oo9 なる輩に。
私の所にくるならば、先ず謝罪しなさい。↓
http://paranoiawatch.jugem.jp/?day=20080731
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今日は大東亜戦争開戦の日、

日本はアメリカの実力を知らず、ただ成り行きで開戦に踏み切ったと言う話を聞く。

しかし当時に我が身を置いて考えてみると溺れるものは藁をも掴む、或いは窮鼠猫を咬むといった事情もあり得るのではないでしょうか?

では勝つ見込みをどの程度もっていたのだろうか?

「日本はまたその勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。
日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。
なるほどアメリカは大国である、
軍備もまさっている、しかしそれがどうしたと云うのだ、そんな事はみんな始めから予想されていたことであり、我々ははじめから問題にしていないのだ、
と彼らは言っていた。

そのころ日本人は、日本の大新聞「毎日新聞」で、次のような記事を読んだ。

「もしわれわれが数字を恐れていたならば、戦争は始まらなかったであろう。敵の豊富な資源はこのたびの戦争によって始めて作り出したのではない。」  (菊と刀より)



「数字を恐れぬ戦い」で勝った例は歴史上、常識と言えるほど無数にある。

此の戦争の場合、結果論ではないが・・・そう思わずには開戦に踏み切れなかった。
或いは先の安定よりは、目先の石油に手を出さずにはいられなかった。
目を見張るばかりの破竹の勢いで席巻する(*1)
ドイツの真似をしたかったのではないだろうか?                  (*1)09.5.21追記

人類の進歩は科学では著しく顕著になってきました。
しかし、人格という面ではどれほどの進歩があったのでしょうか?
幾ら時代が進歩しても、人間の知は相変わらず誕生という白紙状態から出発するわけです。

江戸時代の学問は人を造ることでしたが、現代の教育は知識の詰め込みと
篩い分けになってしまいました。
現代日本の若者の中で、この矛盾に気づいた者は混迷する教育界の中の彷徨える子羊と言ってよいでしょう。
身近に真の意味の教師が居ないのであれば、先人の教えに学べば善いと思います。


世にもの学びのすぢ、しなじな有りて一様ならず。

学びようの次第も、さして教えんはやすきことなれども、そのさして教えたるごとくにて、果たしてよきものならんや、又思いの外にさてはあしき物ならんや、実(まこと)には知りがたきことなれば、これもしひては定めがたきわざにて、実はただ其の人の心任せにしてよき也。

詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まず怠らずして、励みつとむるぞ肝要にて、学びやうは如何ようにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也。

如何ほど学び方よくても、怠りてつとめざれば功はなし。又人々の才と不才とによりて其の功いたく異なれども、才不才は生まれつきたることなれば、力に及びがたし。

とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得るべし。(宣長)

現代人は自分がどれだけ無意識の内に、既成概念の虜囚とされているのか自覚しているだろうか?

幾ら時代が進歩しようが、人間自体は相変わらず、誕生という白紙状態から始まる。

しかし、真心は生まれつき持っている。
ただ知識が増えると真心を軽視するようになる。



古へのこころを知らでは道は知りがたきわざになむ有りける。

そもそも道は もと学問をして知ることにはあらず。

生まれながらの真心なるぞ道にはありける。


真心とは よくもあしくも生まれつきたるままの心をいふ。

然るに後の世のひとは おしなべて かの漢意にのみうつりて 真心をば失いはてたれば

今は学問せざれば 道をえ知らざるにこそあれ。 (玉勝間より)

日本人って何?

昨今は日本人としての自覚の無さがよく話題になっています。私は国粋主義でも外国かぶれでも有りませんが自国の文化のルーツははっきりともっています。

「儒者の皇国のことをば知らずとてあること」
儒者に皇国の事をとふには、知らずと言ひて恥じとせず。から国の事をとふに、知らずと言ふをばいたく恥じと思いて、知らぬ事をも知り顔に言ひまぎらはす。
こはよろずをからめかさむとするあまりに、其の身をも漢人めかして、皇国をばよその国のごともてなさむとするなるべし。

されどなほから人にはあらず。
御国人なるに儒者とあらむものの、己が国の事しらであるべきわざかは、
但し皇国の人に対ひてはさあらむを、から人めきてあかんめれどもし漢国人の問ひたらむには、

我はそなたの国のことは良く知れれども、我が国の事は知らずとは、さすがにえ言ひたらじをや、もしさ言ひたらむには、己が国のことをだにえ知らぬ儒者の、いかでか人の国のことをば知るべきとて、手を打ちていたく笑いつべし。(玉勝間 一の巻初若菜より)

何時の世も人の考え付くことは同じなのですね。
子供の「イジメ」は大人の真似をしているのではありませんか?
政治抗争も民衆の間に起きている事の縮図なのではありませんか?

悪逆の者の仕方は、人の上の非を見出し聞き出して、語り広げ慰むなり。
又、「何某こそ斯様の悪事故、御究にも逢ひ、閉門蟄居仕居り候。」
などと無き事までも言ひはやらかし、世上普く取沙汰させてその者の耳に入れ、

扨はこの事顕われ候と存じ、先ず病気分にて引き入り候時、
「我身に悪事ある故、手前から引き取りたり。その仔細御改めあるべし。」
と沙汰して歴々の耳にも入れ、止む事なく悪事になる様に仕なすものなり。

この手を知らで、うろたゆる者を笑ひ、悪事にして面白がり、
又我身の為の工(タク)みにも仕るものにて候。
度々ありし事なり。広き御家中なれば、斯様の侫悪の者、何時の世にもあるものなり。
覚悟すべき事なり。   (「葉隠れ 五七話」より)

「悪智慧」は政治の必須機能なのでしょうか?
この逆手を使って相手を陥れる手段もあるのではないでしょうか?

でも、この畜生道に対し、その上を行く
「話を聞き覚え、書物を見覚ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く為なり。」
を信じ、実践して行こうと思います。

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