如何ならむ初山歩みの麻衣

理想がないものは、自己内で理と理が対立して、結論が出せない。

読書感

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私の投稿記事は実践理性批判(カント)、学生に与う(河合栄治郎)を随時引用致して居ります。

尚、このブログは現在戦闘中です。
縁害防止の為、コメントは鍵つきですと安心です。

ブログのアラシクズはゴミ籠に排除しました。
御覧になりたい方は早めにお申し出ください。定期的に完全削除致します。

red*u*g*2*0l
私の所にくるならば、先ず謝罪しなさい。↓
http://paranoiawatch.jugem.jp/?day=20080731
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NHK ラジオ 高校講座 国語総合 沖縄の手記から・・・より

                                    原作:田宮虎彦
ラジオの高校講座の朗読で久しぶりに大きな感動を受けた。

登場する「娘」の人物像

彼女は二十過ぎの若い娘で、作者は娘を夕闇の底で見る花のようだ。と例えています。戦場と言う恐ろしい闇に咲く一輪の花だ.という表現でしょうか。
彼女は落ち着いてしっかりしており、強い意志がその眼差しに現れていました。礼儀正しく行動力があり、看護婦として優れた技術を持っています。
民間の病院の看護婦なので、言わば部外者なのですが負傷者たちを見捨てて置けませんでした。
けれども自分が悲しみの底にある時でも、相手の気持ちを気づかう優しさを持っていました。

「文中の「私」」

軍の医務課分隊長で、軍の者ではない娘が壕に残ることはないと考え、南に下がることを勧めます。
娘を細やかに気遣いながら、ある時は激しく説得を続けました。
さて、この物語の中で私たち読者が深く考えさせるのは、娘が自分の命の危険を判っていながら、助かる見込みのない重傷者たちの壕に留まった。という点ですね。

娘は軍の部外者なので、もともと残る義務は有りません。また繰り返し私が南に下がることを勧め、一度はそれに応じたにも拘わらず、最終的には壕に残りました。それは何故なのでしょうか。看護婦であるという職務上の責任感もあるのでしょうが、それだけではばさそうです。

彼女は負傷者たちがもう回復の望みがないと判っていても、現にそこいる彼らを見捨てて自分が生き延びるということを納得できませんでした。そこには助からない負傷者たちの命も尊いものとして大切にしようとする彼女の人間としての限りない優しさが感じられます。
彼女が自決した陸軍少尉の壕にいたことにも何か意味があるのかも知れません。ただ、作者は娘の行動の理由をはっきりと言葉では表現していません。

所で作者はこの娘の行動をどのように見ているのでしょうか。作者はこの娘の行動を特別に立派な正しいこと、と言う意味合いで描いている訳ではなさそうです。生きられる者は生き残るべきだ。と言う私の考え方は当然ですし、作者の考えもそれに近いでしょう。

作者はこの娘の負傷者たちを見捨てなかったと言う行為を素晴らしいと美化して描いているのではなく、人間としての優し嗚をもった娘が戦場と言う地獄の中で、どうしてもそうすることを選ぶしかなかったこと。
そのことのむごさ。
その悲しさを静かに見つめ、描いているのです。
そして、その娘の命を私は何とか助けようとしました。それは軍医としての責任感からでもありますが、娘の心を深く知ったからでもありました。

この時、初めは他人であった、キヨの死が、その心をよく知った後の私にとって、家族の死と同じくらい辛く悲しいものとして襲ってきたのだ。と作者は言おうとしています。
恐ろしい戦争の中でも、このような人間同士の深い心の関わりがあるのだと言うこと。そういったことも作者はじっと見つめているようです。

さて、戦争と言う人間の行為が、限りなく恐ろしい、忌わしいものであることは言うまでもありません。
戦争によって生じる大きな不幸や悲惨を描いた小説も数多くあります。
この小説もそう言った意味をもつものですが、ここでは作者は一人の娘の心と行動、また彼女に関わった私の心と行動を描くことによって戦争の悲惨さ、むごさを浮かび上がらせている。と言うでしょうか。
(担当:渡辺真一)


私は思う。

孔子曰く「君子の徳は風、小人の徳は草。草、これに風を加えれば必ず伏す」。
あの「増長と傲慢」が君子だと言うのか。
何故、君子でもないのに伏すのか。
責任とれるのか?一死をもって大罪を謝し奉ることなど出来ないのだ。万死に値すると高松宮殿下が仰っておられる。

たとえば、当間キヨさんがあんな死に方を選択するしかなかったのは何故なんだ。
沖縄にその時生まれていたのが悪いと言うのか?

うばたまの 黒髪ふるわせ なくきみに 何のことばの いずるべきか


彼女の姿勢は胎児の姿勢だ。
この世が厭なのだ。

誰のせいでそうなったのだ。

陛下のせいなどにするな。
皇室の歴史、即ち日本の歴史は「増長と傲慢」との戦いだった。
かって「増長と傲慢」は反省した試しがない。

死んで行った人たちは、自分が何故こんな辛い思いで死なねばならなかったのか訪ねている。


答えろ!

2本音と建前

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[正義を認められない人達]

ブログで「正義」を主張すると反発を食らう。
何故かを考えてみた。

それは世界観に次のような違いがあるからではないだろうか?
1.結果が出せない話に何の意味があるのか。(現実主義)
2.そもそも、どうあるべきかは明確にさせて置くべきだ。(理想主義)

本音で生きている人々は自分の生活に直接影響しない事柄に己のエネルギーを費やすなど、愚の骨頂なのではなかろうか?
つまり、暴力団、闇組織などの「悪」に自分が被害を受けていなければ、「悪」に立ち向かうなど実生活では他人事で縁の無い事柄なのであろう。
では、自分がその被害者になったならばどうするのか?恐らく自分は仲間がいるから大丈夫。或いは公権力、弁護士に保護してもらえる。と思っているのであろう。

例えそれで問題解決できたとして自分が依拠している社会に対して、その意味でどのような貢献をしたのであろうか?
今、警察庁資料をどれだけの人々が閲覧しているのか。↓
http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm#bouryokudan
被害に遭って苦しんでいる人々を無視し、弱者にシワ寄せして置いて、争いはいけない等と常識人面する「事なかれ主義者」たち。この種の人が最も性質が悪い。

当事者同士のことしか頭に無いのである。社会的職務、公職の立場の者が、こんな考えをもったら世も末である。
袖手傍観するから「悪」が蔓延するのです。
自分達の国家、社会、倫理・道徳ではないですか。
これだけ「悪」、暴力に慣れ親しんでいる戦後の現代日本人。どこまで堕ちていくのか。

国家が崩壊しているのです。国家、社会に対して享受するばかりで、参画意識が欠如して当然にしている。
納税していれば好いと思っているのではないか?

結果が出せないからと云って,考えることも、話などすることも意味がないなどという理屈はない。
そもそもどうあるべきかを明確に、且つ即座に答えられねばならない。

その為には常時この問題に関心を持ち、対話せねばならない筈である。

本音と建前1

日本人独特の「本音と建前」

ブログで正義を述べた時の意見の対立を考えてみた。

一つ浮かび上がってきた対立は。
(1)ホンネで生きる考え方。
(2)建前を重んじる考え方・・・・・(私)


私は本音と建前がセットになって一本という世界観は「甘えそのもの」なのではないかと考えている。

これを認めていたのでは近代思想としての民主主義は成立しないのではなかろうか?
何故ならば、民主主義は「自律」を前提にしているからである。


                            土居健郎の「表と裏」より
実際、日本人は随分昔から建前・本音の二本立てで人事万般を考えて来ているように思われる。
しかも、それは一つの事柄について云われているのであって、建前と本音二つ合わせて一本と言う風にあらかじめ理解されていることに注意せねばならぬ。
公と私に相当する英語のパブリックとプライベートでは両者が厳密に区別された領域として決して交わらない。
「徒然草」第141段に於ける内容。
京の人間がキレイゴトを言うのは、建前を云うだけのことで、偽善に類すると考えるのは間違っている。
むしろ何とか建前をたてようとするところに、彼らの誠実さを見るべきである。

万事、建前と本音の二本立てで行く日本人全体を外国人と比較した場合にも、ある程度まで当てはまるだろう。たしかにこのやり方だと人々の間の摩擦を最小限に食い止められる。日本人が一般に繊細な気遣いや思いやりを特に喜ぶのも恐らくその為であるにちがいない。

甘えたくとも甘えさせてもらえない時は容易に恨みに転ずる、恨みが全面に出ている時は内に甘えを秘めていると云ってよいのかもしれない。これは精神分析の方で、愛憎半ばする状態を称してアンビバレンス(両極性)というのに相当する。要するに甘えだけで他に何も支えがないと、容易にアンビバレンスの状態に陥る危険が存するのである。

この二本立てはバランス感覚そのものであると云ってよい。建前と本音の二本立てが自覚されているところでは、アンビバレンスが無意識に放置されコントロール不可能になるということがない。
建前と本音がどのように形成されるかという点について、一言だけしておこう。


それは幼少時の家庭環境と、その後の学校教育および社会教育において培われる人間関係を通してである。そしてこのように見てくると、建前と本音が心理学的また社会学的概念である社会化および自我意識と重なることがはっきりする。建前はまさに社会化の産物であり、本音は自我意識の表現であると言える。この二つの特殊な関係が常に暗黙の中に自覚されていることが極めて特徴的であると云うことができるのである。


・・・この矛盾を前提にした世界観は確かに世界にも珍しいのではないか。暗黙の了解事項が仲間・派閥を形成し、徒党を組ませている筈だ。
幾ら対立を避け、協調をもとめるにしても、それはアンビバレンスを避けんが為に、本質的問題解決を「先伸ばし」しているだけなのではないか。(*1)
その場その場さえ旨く切り抜ければ良い、という刹那的実存主義を感じる。

例えば(*2)
「京の人間がキレイゴトを言うのは、建前を云うだけのことで、偽善に類すると考えるのは間違っている。
むしろ何とか建前をたてようとするところに、彼らの誠実さを見るべきである。」
・・・これを欧米型社会で訴えた場合共感を得るのだろうか?


●日本社会が封建制村社会から、何時までたっても抜け出せないのは
この「本音と建前合わせて一本」のせいではなかろうか。            (*1) (*2)追記09.2.3

野蛮

人間の尊厳を否定する「悪」とは何か?

この世を闘争世界として捉え、弱肉強食を是認し、知を勝利の為の技に使う。

彼らは勝つことが善であり、力こそ正義であると信じている。

己が欲望に対する障害や敵対する者にはあらゆる騙し技と暴力を用いる。



ガリヴァー旅行記 スウィフト著

第四章フゥイヌム国渡航記より

ヤフー
私のすべての旅行を通じて、これほど醜悪な動物を見たことも、またこれほどただもう訳もなくむかむかするような嫌悪感を私がいだいた動物もなかったように思う。

頭、手、顔など外観から見た限りでは私とそっくりなヤフーたちは、一見賢そうにみえるし、悪事にかけては大変な悪知恵の働く連中だ。
ヤフーたちの間に支配者格の者がおり、そいつがきまって他の奴よりも体も「不恰好」なら、「性根もひねくれた」奴ときている。
この「指導者」はできるだけ「自分にそっくりの」お気に入りを引き具しているのが普通だ。
そのお気に入りの仕事というのが、「主人の足と尻を舐めることと、次々に雌のヤフーを支配者の小屋に連れてゆく」ことでありその褒美として時折驢馬の肉一切れを貰うのである。

この「お気に入り」は仲間全員に嫌われており、したがって身の安全を守るためにいつも、「指導者の身辺に」へばりついている。
といっても、いつまでもその職に留まっているわけではなく、もっと醜悪な奴が見つかると忽ち首になる。すると、その瞬間、後継者はその地域の全員を、若い奴も年寄りも雄も雌もそれこそ文字通り全員を糾合し、自ら先頭にたって押しかけてきて、彼の頭から足にいたる全身にくまなく排泄物を浴びせかける。

・・・後は余りにも人間社会の醜さを如実に捉えていて、投稿できません。ご関心ある方はご自分で読んでください。
余りにも現実に一致しています。「人間としての恥」におののきます。


red*u*g*2*0l
http://blogs.yahoo.co.jp/redpurge2oo9 なる輩に。
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