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趣味の備忘録

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今月の歌舞伎座は、昼の部がとてもよかった。一本目「お江戸みやげ」は時蔵のお辻が実によく、ほろっとさせるを超えて、涙腺が緩みっぱなし。平成23年4月新橋演舞場の舞台で三津五郎(お辻)と翫雀(現・鴈治郎)(おゆう)で観て大好きな芝居になったのだが、今回は女形の時蔵が演じ、やや若い女性らしさで、芝居の現実味を高めていた。
三本目は河竹黙阿弥作の世話物の代表作の一つ「十六夜清心」。これまでは、この芝居はどちらかというと苦手で、特に「第一場 稲瀬川百本杭の場」は、女犯の罪で寺を追われた清心と、郭を抜け出した遊女十六夜のあまり動きのない長い掛け合いが退屈だった。

  ところが今回は、尾上右近が清元栄寿太夫を七代目として襲名して、初お目見えの舞台。
イメージ 2右近として歌舞伎役者を務めながら、清元の浄瑠璃をうたう栄寿太夫になった。まるで野球の大谷翔平の二刀流のようなもの。その右近が栄寿太夫として、今回この歌舞伎座で、舞台上出語りで初登場するのだから、視線はどうしても役者よりも清元連中に行ってしまう。  
こうやって舞台を観ていると、この清元の浄瑠璃「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいつき)」という曲は、粋で艶でなんて魅力的なんだろうと、この浄瑠璃を味わいはじめてしまう。特に若々しい栄寿太夫(右近)と老練な美寿太夫のゆったりした掛け合いのようなアンサンブルには、すっかり心奪われてしまった。いい清元だなあ。なんて情緒纏綿(てんめん)として心地よいのだろう。
(同じ黙阿弥の作で、「三千歳直侍」での清元の名曲「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)のほうは「一日逢わねば、千日の想いにわたしゃ患ろうて・・」を聞いたりしていたので、清元を味わうための下地は少し出来ていたのかもしれない。)

 この清元のほうに意識を置きながら、舞台をみると、清心の菊五郎と、十六夜の時蔵の所作が実にすばらしいことに気がつく。浄瑠璃に聞き惚れ、舞台に見惚れて、(以前は退屈だった)稲瀬川百本杭の場は、あっという間に過ぎ去ってしまった。次の場では、ちょいと吉右衛門が登場して舞台の格を上げてくれるし、ほんとにすばらしい「十六夜清心」だった。


家に帰って、さっそくSPレコードの棚を探す。ずいぶん以前だが、義太夫や常磐津や清元のレコードを集めていたことがある。戦前の伝統的な清元は、どんな感じだったのだろうか。あらためて聞き直してみたくなったのである。たしか、五世延寿太夫(戦前)の清元は「十六夜清心」があったか、あるいは、「三千歳直侍」だったか。
 確かにSPレコードで棚に「十六夜清心」はあったが、戦前の歌舞伎劇となっているもの。清元ではなかった。
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清元の名曲、「三千歳」があった。

名人五世延寿太夫のうただ。



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ついでに、同じ曲の清元を梅吉(三味線)+梅美太夫のもので聴いてみよう。かなり感じが異なる。このSPレコードはかつてよく聞き入っていたものだ。
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こうなってみると、ぜひSPレコードで今日の演目「十六夜清心」の清元「梅柳中宵月」を聞いてみたいものだ。いったいどんな感じなのか、とても楽しみである。



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(左) 日本盤  (右) 独オリジナル盤


以前から欲しかった、フルニエ(cello)+セル(指揮)ドヴォルザークのチェロ協奏曲(独グラモフォン盤)のドイツオリジナル盤。ヤフオクで3000円から、で出品されていた。盤面も上々そうだし、競って落札した。競った相手も次々登場してきたので、相当の高値まで上がってしまったが、えいやー、と競り勝った。
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一聴して違うのは、オリジナル盤は、音楽が躍動して生命力に溢れている、ということだ。日本盤のほうは、くすんでしまった死んだ形骸物なのではないか、と感じる。日本盤のほうは、何度も何度も実は聞いていたのだが、いつでもなにかぱっとしない演奏、わくわくさせてくれない形骸なのだ。なぜ、こんなに日本盤なのに聞いていたか、といえば、日本盤とは言っても、赤STEREOでレーベルはtulipのall right、という最初期盤だからである。相当いいはずだ、と思っていたからだ。
しかし、初めて聴いたこの独オリジナル盤は、喜びとわくわく感に満ち満ちている。低域が出ているとか、高音が輝かしい、とか、そういう素材のレベル(質料的)ではなくて、音楽そのものの(形相的)レベルで、違うのだ。
しかも、恐らく誰が聴いても、この差はあきらかだと思う。ひどい。ひどすぎる。
なんということだろう。


まず日本プレスの音。



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次に今回入手したoriginal ドイツプレス(初期盤)。






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発売当時の日本(1960年代〜70年代)は、では、どんなだったのだろう。あのフルニエのすごいレコードが出た!すばらしいはずだ。独グラモフォンだ。しかし、日本で発売されたレコードの音は、死んで生命力の乏しい形骸だったとしたら。
 極東の国の人々は、いい演奏に違いない、と自分に言い聞かせて、このレコードを聴いていたのだろうか。当時のドイツグラモフォン社は、極東の国にはどうでもいい劣化したマスターテープしか送ってこなかったのだろうか。それとも日本支社でのレコード製作技術が実にお粗末だったのだろうか。
この差を聞いて、なにかとても悔しい気持ちに襲われた。私が青年時代に聞いていたレコードは、本場のものとはずいぶん違うものを聞かされていた、ということなのか。
 しかし、まあ、いいだろう。いま、21世紀もこんなに経って、50年前の名演が瑞々しい音で生き生きと聴けたのだから。
                  ★
 日本盤のジャケットとオリジナルドイツ盤のジャケットを見比べていると、なんだかフルニエの写真の差が、そのまま音の差を表現している!ように思われてきた。モノクロで動きのない遺影のような日本盤のフルニエと、生き生きとしたカラーで溌剌と演奏しているオリジナル盤のフルニエ。名は体を表す、ではないが、ジャケットは音質を表す、ということか。
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装置はいつものように、LINN LP12(+urika2) (KANDID) + LINN Klimax DSM/2 + WE205D single AMP + Tannoy III LZ (red monitor) である。



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このラファエル=フリューベック・デ・ブルゴス指揮の「スペイン組曲」というレコード(DECCA SXL 6355)1968年は、LPレコードのオーディオ再生の面白さを味わうには最適のレコードである。
Recorded in November 1967 in der Kingsway Hall, London by Kenneth E. Wilkinson / Production: John Mordlen
例によって、ケネス・ウィルキンソンの録音、会場はキングスウェイホールだから、申し分ない。
 このレコードはお茶の水のディスク・ユニオンで1年前に購入して、すぐに私の超マイフェーバリットシングズ(My favorite things)になっているものだ。公開のオーディオサロンなどでもよく掛ける。
 ところでこの1年前に購入したものは、<やや初期盤>であり、ほんとの初期盤ではない。

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このDECCA盤はレーベルのデザインが、年代別に4つのグループに分かれる。ED1~ED4で、この場合は、上段のレーベルが狭いのでED4(narrow band)の時代。そして今回(昨日、e-bayで落札したもの)入手したのは、ED3(wide band)。

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似ているが、上段のバンドが広い。左上がMADE IN ENGLAND となっている、などの特徴がある。これはこのレコードの「初期盤」と見なしていいだろう。そうなると、これまで聞いてきたのは、「やや初期盤」。リリースされたのは、「初期盤」が1968年ぐらい、「やや初期盤」はそれから二三年後、だろうか。


さて、この「初期盤」と「やや初期盤」。音はどのぐらい違うのだろうか。


◆まず「やや初期盤」の方から再生してみる

聞き馴染んだ音の出方である。
プレーヤーはいつものように、LINN LP12 カートリッジがLINN KANDID、urika2を通して、LINN Klimax DSMにEXAKTリンクで入力する。urika2はカートリッジが拾った微少電流を、早い段階でデジタル化してRIAA補正を行う。アナログの最先端なのに(なので)デジタル信号出力なのである。
このLINN LP12(+urika2)という存在は、アナログ=対=デジタル、というような二項対立を超えてしまっている。
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URIKAからURIKA2に変更する場合には、多少勇気がいった。URKIAなら出力が600オームのライン出力で汎用性があるが、URIKA2となると出力はデジタル信号、EXAKTリンクとなる。するとLINN Klimax DSM(など)の装置が必須となるからだ。
比較して、すぐにurika2への更新を決意したが、それもこれも、LPレコードの初期盤がより魅力的な音で鳴ること、の一点につきる。
話しがよこにそれてしまったが、さて、ED3初期盤のほうはどのようになるのだろうか。聞いてみた。

◆次に「初期盤」を再生してみよう。




もちろん、ここには大困難がある。オーディオ装置で再生した音を、再び録音装置を使って収録しそれをなんらかの再生装置で聴く。そういう意味では、オーディオも<その時その場で>聞かなければ本当には分からない、はずだ。
しかし、それを承知の上で述べるならば、やはり「初期盤」のほうが自然で素直な音がしているように感じられる。弦のtuttiの歪み感(0:30, 0:58あたり)がより少ない。初期盤はtuttiになった時にも混濁しない。金管の音(01:16あたり)も素直で自然であり、「やや初期盤」は金管がやや派手になりすぎてうるさい。01:45あたりのベルの音は初期盤になると、さらに透明でクリアになり、なんとも<気持ちいい!!>のである。

「こんな微少な差異を見いだしてどうするんだ!?比較しなければ分からないじゃないか。もう初期盤、初期盤というのはやめよう。。」
自分のなかでもこのような言葉がなり響く。しかしながら、空間性が潰れていなくて深々とクリアに響きわたる初期盤の音楽を聞いてしまうと、やはりどうしようもなくなる。
初期盤フリーク。もう泥沼である。いや、まだ泥沼に一歩足を踏み入れた程度なのかもしれない。



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デ・ブルゴス指揮の「スペイン組曲」 「初期盤」(右)と「やや初期盤」(左)

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名録音技師のケネス・ウィルキンソンが録音した多くの名レコードのうちでも、その音のよさ空間感などで一、二に挙げられる「ロイヤル・オペラ・ガラ・コンサート」(1959)。このオリジナル盤は(前にも書いたが)ヤフオクだと20万円、e-bayだと40万円を超える値段で出品されていて、とてもとても手を出せるしろものではない。そんなわけで、2005年にスペインでリマスタリングされた復刻版を手に入れて楽しんでいた。
 先日、フラウト・トラヴェルソの世界的第一人者の有田正広氏と、銀座のオーディオサロンで、レコード鑑賞対談をやったときにも、このレコードを私のお気にいりとしてかけた。

「クロサキ教授のオーディオ哲学サロン第3回 〜古楽トラヴェルソ奏者・有田正広氏 再び」

そのとき、私は同録音で別のリマスタリング盤(2016年)も入手したばかりだったので、その別物のレコードも同時にかけた。2016年盤は、ぱっと聞いた感じでは迫力があっていい感じだが、2005年盤のほうが、自然でいい音がする、と有田氏も会場の方々もほぼその方向で意見が一致した。
 そんなわけで、私はますますこのレコードのオリジナル盤(絶対高価すぎて買えないけれど)を聞いてみたいなあ、という気持ちになっていた。
 そんなとき、いつものようにヤフオクでこのレコードで検索していたところ、とても面白い存在のレコードがある、ことを知った。
{米盤は二枚組でリリースされたが、本来のオリジナルである英国では一枚に編集されVICS番号で初出となる}とあった。なにい!英国盤があるのか。そこでe-bayで検索すると、あった!しかも相場は1万円から2万円。もうレコードに関しては金銭感覚が狂っているので、「安い!」と思い、さっそく入手したのである。それが届いた。



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右側が英国盤 (1967年)。左側は下が2005年盤。上が2016年盤。

この英国盤。表題も「バレエ名曲集」と平凡だし、ジャケット・デザインもおざなり。ジャケットを見る限りでは、こんなすごい演奏と録音だとはとても思えない。

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なんともどうでもいいようなシリーズの一枚として出されたような感じ。裏面を3種類並べてみた。
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この英国盤は、DECCAレコードで製作したもの。「NewYorkのR.C.Aのマスターレコーディングから製作した」Made from a master recording  of R.C.A.,N.Y.
とある。英国盤はRCA VICTROLA ということになっているわけだ。DECCAとRCA、Victorolaとvictorなど関係がとてもややこしい感じ。レコードレーベルは次のようになっている。

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音は、やはり!!すばらしかった。空間性が潰れていない。実にひろびろとしたサウンドステージ。低弦部の音の動きが気持ちいいほどで目に見えるようだし、木管楽器の質感が実に美しく描きだされる。やったあ!ついに完全なオリジナル盤とは言えないけれど、英国でプレス発売されたものとしては初期盤となる。
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」のマーチ。わくわく、どきどき感がすごい。次にあの音がやって来るぞ!というぞわぞわ感は初期盤ならでは、の感覚である。
もうここで止まりたい。これで充分だ!米盤二枚組オリジナル盤は、おそらくこの英国盤と大差ないだろう。大丈夫。と自分に言い聞かせる今日だった。






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今日のLPレコードプレーヤーは、
LINNのLP12。内蔵イコライザーurika2が内部に入っている。カートリッジはLINN KANDID。このプレーヤーは、初期盤や再販盤、復刻盤の違いをいやというほど明確に描き出してしまう。このLP12(+urika2)にしなければ、こんなに初期盤フリークにはならなかっただろう。因果なプレーヤーだ。

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歌舞伎で単に「六代目」といえば、尾上菊五郎(六世)(1885~1949)を指す。歌舞伎で最高の名優は誰か、というのを言い当てるのは難しいが、この六代目も当然そのひとりに入るだろう。十八世勘三郎や清元の当代延寿太夫(だから尾上右近も)その血筋をひいている。
この六代目の松王丸の隈取「押隈」を二年ほど前にオークションで落札、入手した。隈取りは歌舞伎独特の化粧法だが、これを、歌舞伎役者が絹布や紙に押して写し取ったものが押隈。通常はひいき客へ記念に贈ったりしたものである。
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 歌舞伎座などで行われる俳優祭に行くと、チャリティとして、役者の「押し隈」がたくさん出品される。入札方式なのでつまりはオークションになるが、なかなかゲットすることは難しい。数年前、吉右衛門と鷹之資の「連獅子」隈取のダブル「押隈」が出品されていたときには実に欲しかったのだが、高価すぎて手が出なかった。押し隈は、役者の顔に直接布を押しつけて写しとったものだから、その布にはその役者の汗や皮膚(の表面?)も付いているはずだ、と思うと、とても貴重な存在に思える。だから、<あの>六代目の押し隈が相当の安価で入手できたときには躍り上がるようにうれしかった。

六代 菊五 三朝 松王

のキーワードでは、これがあの六代目菊五郎の押し隈かどうか、判断しにくかったのかもしれない。確かに落款はそれだけである。(出品された時には、「菊五郎」や「六代目」などという記述はなかった。だれの押し隈か、分からない状態で出品されていたのである。)

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松王は「菅原伝授手習鑑」の主役である松王丸。有名な4段目「寺子屋の段」では、松王丸は隈取りはしていないから、これは3段目「車曳の段」のときのものだと思われる。梅王丸と桜丸とが敵の牛飼いとなっている松王丸(この三人は三つ子の兄弟)とやり合う場面だ。

六代目の俳号は「三朝」で俳句もよくしたらしい。

この押し隈に書いてある句は

三人の 釣り兄弟や 沙魚(はぜ)日和

すばらしい!句だ。

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(三人乃 釣り兄弟や 沙魚日和  三朝(六代目菊五郎))

なぜなら、三人の釣り兄弟とは、おそらく「菅原」のこの三つ子兄弟を暗に示していて、その三人が仲良くはぜ釣りで、釣り糸を垂れている、という句。芝居では三人は和解することなく3段目「賀の祝い」でも大げんかしたまま。桜丸は切腹にいたるわけだから。「菅原」からこの句を読むと、ほんとに涙したくなるほどのいい句である。
六代目の「松王丸」は見ることができなかった(まだ私は生まれていない)が、この句を見るだけで、本当にすばらしい松王丸を演じていたのだろうなあ、と想像される。
 それにしても、我が国の文学・演劇として18世紀中庸に「菅原伝授手習鑑」全五段、「義経千本桜」全五段、「仮名手本忠臣蔵」全十一段の三大名作が相次いで作られたのは奇跡的出来事である。この三作は人形浄瑠璃および歌舞伎の演目として抜群のクオリティを有している。この三作だけが繰り返し歌舞伎座でかかる、というのが最高の幸せだと私などは考えてしまう。

 この押隈は最初、軸装されていた。しかし継ぎ目のところが若干剥がれいたので、友人の直し職人に依頼したのだが、補修は難航を極めた。じゃあ、いっそのこと、まくり(裸)のまま額装すれば、ということになって、このたびようやくおさまったのである。
となり上の浮世絵、江戸時代の版画はやはり松王丸(中村芝翫)。寺子屋の場面で、首実検をしている図である。「車曳」の松王と「寺子屋」の松王が並んでいてうれしい。

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