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太宰府も面白そう!

2012.4.4 太宰府も面白そう!
 
地元では、大宰府跡は「都府楼跡」(とふろうあと)または「都督府古址」(ととくふこし)と呼ばれているそうですが、この「都府楼」は【かつては「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていた】とあちこちに書いてありますし、「都府楼跡」には「大宰府政庁跡」の碑が建っていますから「大宰府=都府楼=遠の朝廷」が定説であり常識になっているのでしょうね。でも本当にそうなのでしょうか?
 
この「遠の朝廷」は長方形で縦200メートル、横100メートルぐらいの大きさで、南門・中門があり、北に正殿があったとも書いてありますが、いまそこに据えてある礎石は、「都府楼」の礎石のレプリカなのですから、門や正殿は「都府楼」の遺構であり、これが「遠の朝廷」の遺構と同じものだと考える根拠はありませんし、「都府楼」が造られたのは律令制後で、その時代には天皇は奈良・京都にいて朝廷はそこにあったのですから、ここに「朝廷」という名前が付けられたはずはありません。「太宰府と都府楼」、「都府楼と遠の朝廷」は時代も場所も全く違うものなのではないでしょうか?
 
現在「大宰府跡」の碑が建っている場所は、市町村合併によって「太宰府市」に入ったけれど元々は「太宰府町」ではないそうです。元々の「太宰府町」の8割を占めていたのが今の太宰府天満宮だということですから、初めに大宰府が置かれていたのはこちらなのでしょう。そこに大宰府があったから「だざいふ」が地名になったのであり、律令制施行後の奈良時代から平安時代にかけて新しく造られた役所は「とふろう」「ととくふ」と呼ばれて、地元では「だざいふ」と区別されていたのではないでしょうか。西鉄の駅名もこちらは「都府楼前」になっていますし(^o^)
 
本に書いたように、神武天皇は、卑弥呼やスサノオと同じ3世紀頃の人だと思われますから、その当時の海面の高さを、山の辺の道や遺跡から推定した60m前後とすると、現在の都府楼跡は標高38mですから、まだ海の底であり、「遠の朝廷」や「大宰府」が造れるような場所ではなかったようです。標高60m〜90mの天満宮の建つ丘が海(博多湾と有明海を繋ぐ水道)に面した高台で、交通の便も良い一等地だったと思われます。
 
また、宮跡には祀られているはずの祖廟も「都府楼跡」やその周辺にはありません。では、天満宮には?というと、天満宮自体はずっと後の世に造られたものであり、菅原道真を祀っていますから、これは天津族の祖廟ではありません。
 
けれど、その東北の宝満山の麓には、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、九州の総鎮守とされている竈門神社(かまど神社)があり、この神社の祭神は神武天皇の生母とされる「玉依姫命」なのです。立派な祖廟ではありませんか!
 
それらを総合すると「古代史探偵・推古」による推理では、東征以前の朝廷と役所の大宰府があったのは、現在太宰府天満宮のある丘の上であろうということになるのですが(^o^) 勝手に掘ってみるわけにはいかないし(^_-) 実際に確かめる方法はないかな〜?
 
天満宮の隣には、2005年に九州国立博物館ができたようです。ここの人達は、自分の足元を調査してみるつもりはないでしょうか(^_-) もし大宰府の奥にあったという「字・大裏」や「字・紫宸殿」と呼ばれていた場所が何処か分かれば、そこから宮跡のでる確率は高いと思うのですが。太宰府市に古い字名の記録は残っていないのかな?
 
 

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