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三方よし
私の住んでいる滋賀県の有名なものの一つに近江商人がある。
近江商人は,丸紅商事,百貨店の高島屋,西川ふとん,等々 その創業者は近江商人の出身である。 江戸時代の話ではあるが,その近江商人の家訓には,今でもきちんと通用する話が多い。 『 三方よし 』は,その家訓のうちの一つ。 『 三方よし 』とは,中村治兵衛宗岸の書置(かきおき)(1754年)の文中にある。 自分だけのことを考えて一挙に高利を望んだりせず、損得は天道のめぐみ次第であると思い定め、 ひたすら人様(ひとさま)の役に立つことのみを心がけよという他国行商の教え。 一言でいえば,『 売り手よし,買い手よし,世間よし 』。これで 三方よし。 日本全国を市場として、広域に活動した近江商人は、売買当事者だけにとっての好都合な 取引のみでは満足せず、取引の背後に第三者の眼、すなわち周囲や、地域の人々のことを 絶えず視野に入れていた。社会の一員として商売を行い、取引に従事しているという意識である。 そうした社会の一員意識をもたなければ、商人としての立身も、 外来商人としての永続的な存続も繁栄もありえないことを、長い持下り商いを通じて 習得していたからである。 近江国外での他国行商を本務とした近江商人は、行商先の人々の間に信用という目に見えない財産を 築いていかなければならなかった。持下り商いは、一回きりの売込みではなく、 自分が見込んだ国や地域へ毎年出かけ、地縁や血縁もないところに得意先を開拓し、 地盤を広げていかなければならないのである。 巷には何度も同じような不祥事を起こしたり、公正取引委員会から繰り返し排除勧告を 受けたりしている会社もあります。 こうした会社の社員が考えている「当たり前」は、企業というのは利益を生むことが その第一の存在理由であり、多少、法から逸脱しても非難されるようなことにならなければ、 ともかく利益を挙げることが優先されると言うことでしょう。 会社は利益を生むための道具に過ぎないと考えるのは,企業をモノとしての面のみを見ているに過ぎません。 現代でもこの家訓(理念)を取り入れている企業は多い。 企業はモノであると同時にヒトでもあるのです。 当たり前のことを当たり前に行う。 誰もが知っているが,誰もがやらないこと。 企業理念だけではなく,宗教でもこの考えは当てはまると思います。 |
心に残った言葉
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縁(えにし)
人の世は縁(えにし)の糸のからみあい
たぐる幸せ
また不幸せ
出会いは縁である。この出会いは人知を越えたおおいなるものの計らいである。
出会いとは別に人だけとは限らない。今ある境遇,出来事,経験,当然人間。 すべてなにかの縁があって今の自分がある。 縁という言葉も,本来は物事の発端,原因や条件をあわらす言葉でした。 やがて,そこから生じた,人と人とのめぐりあいや結びつきも指すようになったということです。 私の師範,佐々木将人氏も片目であったが,そのことを後ろ向きに思わず, 前向きに『片目だから飯の種になる』と言っておられた。 片目に成ったことも一つの縁だという。 縦横に糸がめぐらされ,複雑に織り上げられている織物。 私たちの人生も,織物を紡いでいく作業に似ているような気がします。 目には見えない縁の糸を手繰り寄せたり,結んだり,もつれたり,切れたり。 しかし,たくさんの糸が織りなす織物ほど,美しい輝きを放っているように思います。 |
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水魚の交わり
魚と水のような深い関係ということ。
魚水の契り ともいうそうです。 水を得た魚のように,一番自分らしく,いきいきできる。 そんな関係だとしたら,素晴らしい関係だと思います。 「 魚心あれば 水心 」という言う方もあります。 これは,魚に水と親しむ心があれば,水も応じてくれるということ。 お互いが,相手があっての自分,と思う時, 心のよりどころとなる大きな存在となることが,できるのかもしれません。 また水は,「 あの二人は水と油だね。まったく反りが合わない。」という使い方もする。 英語でも Those two are like oil and water.という使い方をする。 水と油 という発想が同じなのが面白い。 組み合わせとして,魚と油が合わないのは,言うまでもありません。 |
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齢人(よわいびと) |
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どっちもいい
水を見たら
水の美しさを見ればいい花を見たら その美しさに見とれればいい 春もいいが 夏もいい 秋もいいが 冬もいい どっちもいい・・・・
武者小路実篤氏の詩です。「どっちでもいい」ではなく、
「どっちもいい」といっているのです。 「 で 」が入るか入らないかで、意味は全く異なります。 「どっちでもいい」ということばには冷たい響きがあって,なげやりな感じがします。 では、「どっちもいい」の方はどうでしょうか。 あれもいいし、これもいい。つまり、すべてがいいということで、 あらゆるものの中にそのものの良さを見出していこうとするように見受けられます。 それは、さまざまなものとの関わり合いを大切にする姿なのです。 「どっちでもいい」と、なかば投げ槍に過ごすのではなく、
「どっちもいいな」とすべてのものに暖かな慈しみの心をそそげたならば、
生活に潤いを持つことができるはずですし、これを仏教では「縁」というのです。 私たちは、気付くと気付かざるとにかかわらず、この縁によって一日一日を生きているのです。 これを「ご縁」としてありがたく受け取るか、「無縁」として無視するか? |



