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旧海軍司令部壕を中心に、海軍壕公園として整備されている。公園は、子供たちの
遊び場、緑の広場、お祭り広場、そして、旧司令部壕と資料館で構成されている。
この公園は、那覇市の南西、豊見城市(とみぐすくし)の小高い丘にあり、東シナ海、
那覇市街、首里城などを展望することができる。琉球王朝時代には、中国や薩摩から
の船の入港を知らせる「火番森(ひばんむい)」が置かれていたという。
http://kaigungou.ocvb.or.jp/top.html
資料館の正面パネルには、旧海軍司令部の司令官であった大田實海軍少将から海軍次官
宛に送った電文が紹介されている。大田司令官はじめ幹部6名は、米軍の猛攻を受けた
ため、1945年6月13日夜半、壕内で最期を遂げたという。
その一週間前、6月6日付とされる電文は、破損と劣化により判読できない部分もあるが、
復元された文面からは、大田司令官の真情が伝わってくる。特に、最後の数行は心を打つ。
(前半は略)
勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管
日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ
末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
一木一草焦土ト化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
パネルには「■は判読できず、意味不明ですが、原文のままとしました」と注記されている。
凄まじい戦争の姿を想像し、飢えを忍び、国のために戦った沖縄の人々の辛苦を想うとき、
大田司令官の悲痛の要請に、戦後、われわれは沖縄県民にどのように応えてきたのか、今、
われわれはどのように応えているのか、改めて自問自答する。
資料館には、この他にも様々な資料が展示されているが、中でも、観る者の心を打つのは数枚
の写真である。特に印象に残るのは、「一人とり残され、お守りだけを胸に泥んこでへそをかく
少年」と「米軍兵士からミルクをもらう少女」の写真である。この2枚の写真を見ただけでも、
「理屈は要らない」、「絶対に戦争をしてはいけない」と心に誓う。
続いて、旧海軍の司令部が置かれた壕に入っていく。
壕が掘られた1944年当時は450mあったが、現在では300mが復元されているという。
壕入口から階段を20〜30m降りていくと、薄暗い通路がどこまでも張り巡らされていて、
左右のところどころに部屋がある。通路も部屋も、すべて手掘りだという。
幕僚室だったとされる部屋の壁には無数の穴があるが、これは幕僚が手榴弾で自決した時の
破片の跡である。
見るに堪えないと思いつつ、「見なければ、ダメだ。この事実を見なければダメだ」との思い
で、暗い通路を歩き、1時間ほどで壕の外に出た。澄んだ青空を見上げ、空気の美味しさを
感じた。
(「沖縄への旅」一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147172.html?m=l
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