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沖縄への旅

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沖縄県平和祈念資料館の見学は、2階の「歴史を体験するゾーン」から始まる。
「沖縄戦への道」、「鉄の暴風」、「地獄の戦場」、「沖縄戦の証言」、「太平洋の要石」
などのコーナーがあり、沖縄における「アジア・太平洋戦争」の実相に迫る。

2階の展示の最後にある「むすびのことば」のパネルには、次のように記されている。
これこそが、「沖縄」の全てを物語っているように思われる。
   沖縄戦の実相にふれるたびに
   戦争というものは
   これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
   と思うのです
   この なまなましい体験の前では
   いかなる人でも
   戦争を肯定し美化することは できないはずです
  戦争をおこすのは たしかに 人間です
  しかし それ以上に
  戦争を許さない努力のできるのも
  私たち 人間 ではないでしょうか
     戦後このかた 私たちは
     あらゆる戦争を憎み
     平和な島を建設せねば と思いつづけてきました
   これが
   あまりにも大きすぎた代償を払って得た
   ゆずることのできない
   私たちの信条なのです

平和祈念資料館の展示は、過去の惨劇と現在の状況説明だけで、終わることはない。
沖縄だけではなく、日本と世界の「未来」も見据える。
2階から1階に、緩やかなスロープ状の階段を降りると、「未来を展望するゾーン
(子ども・プロセス展示室)」がある。
このゾーンの「いま、せかいで何が」のコーナーでは、なくならない戦争・紛争、
いじめなどの人権問題、むしばまれる地球環境など、世界的な、あるいは、身近な
問題を取り上げ、その原因や、どうしたら解決できるのかなどを考える。
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/

(「沖縄への旅」一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147172.html?m=l

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「ひめゆりの塔」は、沖縄戦の当時、沖縄陸軍病院第三外科があった豪の跡に建つ慰霊碑である。
慰霊碑に隣接して、ひめゆり平和祈念資料館がある。リーフレットには、「"ひめゆり"の由来」に
ついて、次のように記されている。
  「ひめゆり」は植物の花のひめゆりとは関係ありません。
  沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、それぞれに校友会誌がありました。
  一高女は「おとひめ」、師範は「白百合」と名付けられていました。
  両校が併置されることによって、校友会誌もひとつになり、両方の名前の一部(「おとひめ」
  の「ひめ」と、「白百合」の「百合」)を合わせて「姫百合」となりました。
  ひらがなで「ひめゆり」となったのは戦後です。

米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立
第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある、南風原の沖縄
陸軍病院に配属された。彼女たちにとって、悲劇の始まりであった。
http://www.himeyuri.or.jp/JP/top.html

ひめゆり平和祈念資料館で、様々な展示物を観ていて、驚いたことが幾つかある。
◆ 見学者の中には、誰一人として、館内の様子や展示物を写真に撮っている人がいない。
◆「解散命令と死の彷徨」のコーナーのパネルには、次のように記されている。
   米軍が間近にせまった1945年6月18日夜、「解散命令」が出され、
   生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出されます。
   「解散命令」後の数日間で、100余名のひめゆり学徒が死亡しました。
◆ ここでは、「太平洋戦争」ではなく、「アジア・太平洋戦争」という言葉で表現
 されている。

「ひめゆりの塔」については、少しは知っているつもりでいたが、資料館の展示パネル
に「解散命令」という言葉があり、初めて聞く言葉と思われ、軍と官の命令で動員して
おきながら、戦況逼迫とは言え、責任を放棄して解散を命じたのかと、その非情さに驚き、
涙する。
資料館のリーフレットには、次のように解説されている。
  解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは入る壕もなく、昼間はソテツやアダン
  の茂みに身をひそめながら、攻撃が弱まる夜間になると海岸へと向かいました。
  傷ついた体を引きずりながら逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、
  重傷で動けずにその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされていく者、海岸で大波に
  のまれる者など、行き場を失い、父母の名を叫びながら死んでいく生徒が続出
  しました。生徒たちは米軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人も
  いました。
  6月20日から23日の間には多くの生徒が米軍に収容されましたが、なかには
  2カ月以上も逃げ回り、日本の降伏も知らずに8月22日になって収容された
  生徒もいました。

(「沖縄への旅」一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147172.html?m=l

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旧海軍司令部壕を中心に、海軍壕公園として整備されている。公園は、子供たちの
遊び場、緑の広場、お祭り広場、そして、旧司令部壕と資料館で構成されている。
この公園は、那覇市の南西、豊見城市(とみぐすくし)の小高い丘にあり、東シナ海、
那覇市街、首里城などを展望することができる。琉球王朝時代には、中国や薩摩から
の船の入港を知らせる「火番森(ひばんむい)」が置かれていたという。
http://kaigungou.ocvb.or.jp/top.html

資料館の正面パネルには、旧海軍司令部の司令官であった大田實海軍少将から海軍次官
宛に送った電文が紹介されている。大田司令官はじめ幹部6名は、米軍の猛攻を受けた
ため、1945年6月13日夜半、壕内で最期を遂げたという。
その一週間前、6月6日付とされる電文は、破損と劣化により判読できない部分もあるが、
復元された文面からは、大田司令官の真情が伝わってくる。特に、最後の数行は心を打つ。
  (前半は略)
  勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管
  日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ
  末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
  一木一草焦土ト化セン糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
パネルには「■は判読できず、意味不明ですが、原文のままとしました」と注記されている。

凄まじい戦争の姿を想像し、飢えを忍び、国のために戦った沖縄の人々の辛苦を想うとき、
大田司令官の悲痛の要請に、戦後、われわれは沖縄県民にどのように応えてきたのか、今、
われわれはどのように応えているのか、改めて自問自答する。

資料館には、この他にも様々な資料が展示されているが、中でも、観る者の心を打つのは数枚
の写真である。特に印象に残るのは、「一人とり残され、お守りだけを胸に泥んこでへそをかく
少年」と「米軍兵士からミルクをもらう少女」の写真である。この2枚の写真を見ただけでも、
「理屈は要らない」、「絶対に戦争をしてはいけない」と心に誓う。

続いて、旧海軍の司令部が置かれた壕に入っていく。
壕が掘られた1944年当時は450mあったが、現在では300mが復元されているという。
壕入口から階段を20〜30m降りていくと、薄暗い通路がどこまでも張り巡らされていて、
左右のところどころに部屋がある。通路も部屋も、すべて手掘りだという。
幕僚室だったとされる部屋の壁には無数の穴があるが、これは幕僚が手榴弾で自決した時の
破片の跡である。
見るに堪えないと思いつつ、「見なければ、ダメだ。この事実を見なければダメだ」との思い
で、暗い通路を歩き、1時間ほどで壕の外に出た。澄んだ青空を見上げ、空気の美味しさを
感じた。

(「沖縄への旅」一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147172.html?m=l

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沖縄県立博物館・美術館は、文字通り博物館と美術館が一体となった施設である。
リーフレットの第一面に載っているキャッチコピーは、
  沖縄の歴史と文化の「城(グスク)」へ ——
である。

最寄駅から10分くらい歩くと、広い公園の向こうに、博物館・美術館の建物が
見えてきたが、その雄姿には驚くばかりだ。正に、「城(グスク)」である。
この建築物は、丘の中心にそびえる城(グスク)をイメージし、隣接する公園から
繋がる、なだらかな丘となるようにデザインしたもので、素材は白セメント、琉球
石灰岩、海砂(サンゴ)で、表面をラフに削り、風合いを出しているという。
https://okimu.jp/
http://www.ishimoto.co.jp/products/148/
https://www.iwata-aa.com/single-post/2011/09/20/沖縄県立博物館%EF%BD%A5美術館%EF%BC%8D%EF%BC%91?name=p6j4y8-nike-about

われわれが入場した時、エントランスホールでは、地元の演奏家グループの発表会
が行われていて、自慢の演奏を披露していた。50人分ほどの折り畳み椅子が用意
されていたが、2階の回廊や階段に腰を下ろして聴き入る市民も多く、総勢100人
近くが、クラシック音楽に聴き入っていた。
われわれも、思わぬところで、クラシックの生演奏に出会うことができ、久しぶりに
「文化の香り」に触れた想いで、最後の一曲まで聴いた。

常設展のテーマは、「海と島に生きる」で、展示数は3000点を超えるという。
沖縄の自然史、考古学、美術工芸、民俗学などに関連する様々な展示物を観ていると、
縄文・弥生の時代から現代に至る「沖縄」の姿に触れることができ、時間の経つのを
忘れてしまうほどである。
ここの展示物で最も注目すべきものは、「王国の繁栄」のコーナーに展示されている
「龍柱と万国津梁の鐘」である。これらは、戦前まで首里城の正殿にあった本物だと
いう。一定時間毎に、この鐘の音が館内に響き渡る。

クラシック・コンサートと博物館の見学に時間がかかり、今回は、美術館に足を運ぶ
余裕がなくなってしまったのが、残念である。

(「沖縄への旅」一覧 )
https://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/folder/1147172.html?m=l

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雨の降る日は、観光地などを外回りするのは億劫になり、映画館に行くか、博物館などを巡る
ことになる。那覇市には映画館が幾つかあるものの、われわれの滞在中に上映されているもの
には観たいものがなかったので、博物館巡りをすることにし、先ず、那覇市歴史博物館に出掛
けた。
「博物館」というと、独立した建物で堂々と構えているものを想像するが、那覇市歴史博物館
は、沖縄県庁の向かい側にある複合商業ビルの4階の一角にある。
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/

リーフレットには、次のように記されている。
   沖縄県はかつて琉球王国として独自の国家を形成していました。
   王国は中国との冊封・進貢関係の下で、日本の幕藩体制と関わりながら交易国家として
   アジアの海に雄飛した歴史があります。那覇市は王国の王都として政治や経済の中心地
   であり、様々な文化が行き交い、その結実として、中国や日本から強い影響を受けた独自
   の文化が育まれました。

那覇市歴史博物館の内部は、特別展示室、常設展示室、企画展示室の3つのゾーンに分かれている。
特別展示室には、国宝「琉球国王尚家関係資料」を中心に王国時代の美術工芸品や文書・記録類が
展示されている。
常設展示室では、「王朝文化と都市(まち)の歴史」をテーマに、市民から寄贈された染織品や漆器、
書面などの史料をとおして、近世・近代の首里・那覇の歴史と文化を紹介している。
企画展示室では、われわれが訪問した時は、「金武家資料展」が行われていて、歌三線の歌聖と呼ば
れた金武良仁と、彼の子供で、戦前戦後を通じて組踊研究と普及に努めた金武良章が所有していた
品々が展示されていた。

(「沖縄への旅」一覧 )
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