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MYUのブログ
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西暦1969年、昭和44年5月、私はこの世に生を受けた。
現在伊勢神宮斎主の黒田清子さまも、昭和44年のお生まれだ。
 
また1969年5月は、一ヶ月に満月が2回起こる「ブルームーン」とゆう珍しい天文現象があり、「ダブルウェーサク」が祝われた、とても稀有な年だった。
 
 
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ウェーサクの日は、仏陀の誕生だけではなくその悟りも祝い、また、仏陀の入滅も記念する日です。

仏陀の誕生の日、悟りを開いた日、入滅の日が全てインド歴第二月の第一満月の夜(陰暦の5月)だったと言われ、この月の満月は、太陽が雄牛座から登るウェーサクの日、「ウェーサク」はスリランカで使われるシンハラ語でのインド暦第2月の名前からきており、グレゴリオ暦では4月から5月頃の満月にあたります。

日本や中国などの大乗仏教の国々では、仏陀釈迦牟尼は4月8日に誕生し、悟りを得たのは12月8日であり、涅槃に入ったのは2月15日といわれていますが、タイやスリランカなど上座部仏教の国々では、仏陀の誕生日は、ウェーサクの日という名でより親しまれています。

この日は世界中の何百万人もの仏教徒がこの時を華やかに、あるいは、静かな内省のうちに祝い、世界にその教えを与えてくれた仏陀に敬意を表し、彼が追い求め、ついに悟りによって得た偉大な慈悲の心を思い出す機会です。

インドを出発点とした仏陀の教えは仏教として世界のあらゆる地域に広がりました。仏教の美術や文化そしてさまざまな仏教の慣習は、それぞれの国々で理解され適応してまいりました。とはいえ、多くの慣習は本質的に世界共通になっています。

1999年12月15日に国連は、ウェーサクの日を世界の重要な日として認識し、このウェーサクの日に世界中の国連の施設でお祝いをすることを奨励するという決議を行いました。

それ以来私たちは、国連本部および世界中の国連事務所で、ウェーサクの祝賀を仏陀の日としてすべての宗派が一緒になってお祝いをすることになりました。

世界には様々な多様性があり、さまざまな文化や慣習があります。
私たちはそれを理解した上で、世界の仏教徒が宗派、人種、国境を越えて一つに集まれる日として、国連に認識されたこのウェーサクの日を世界の重要な日として、一つに集まることを皆様に呼び掛けたいと考えます。

ウェーサクの日にお釈迦様の祝賀に世界中の仏教徒と共に集まりましょう。
               ≪ 国連ウェーサクの日 日本設立委員会 ≫
 
 
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私の子ども達も、2人とも5月に産まれた。
1週目はMAR、2週目は母の日、3週目はRUNE、4週目はMYU。
我が家の5月は、毎週家族で乾杯とご馳走とケーキで祝い、感謝のお祭りだ
だからウェーサク満月が、1〜4週目のどこに来てもOKだ(笑)
 
また私が魂の兄さまと慕っている伊勢白山道氏は、大乗仏教の国々で釈尊生誕日と言われている「4月8日」が誕生日だ。
私と兄さまは「男女」とゆう事もあり、色々な意味で「陰陽」の間柄と言える。
しかしまさか誕生日まで「陰陽」の間柄として、仏陀釈迦牟尼に御縁があったなんて・・・本当に驚いてしまう(笑)
 
 
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私が産まれたのは、早朝だった。
早朝3時過ぎから母の陣痛が始まり、母を産院に送り届けた父が一旦自宅に戻り入院準備を整え、再び産院に戻るため自宅を出ようとしたその時、私が誕生したとゆう連絡が入った。
 
自宅を出た父は、産院に向かい急ぎ自転車をこいだ。
その時父の目の前に、これまで一度も見た事がないような、とてつもなく大きく真っ赤な太陽が登ってきた
 
燃えるように真っ赤に輝きながら登ってくる、朝陽を見ながら自転車をこいでいた父は、「この俺に娘が生まれた!太陽の娘が産まれた!!」と感激で胸一杯になった事が、つい昨日の事のように忘れられないと・・・
今でも私の誕生日が来るたび、父は毎年必ずその話を繰り返してくれる。
 
しかし私の誕生に大喜びしていたのも束の間、産後母が体調を崩してしまう。
床上げの時期になっても母の出血は一向に収まらず、むしろ出血がどんどん増え、やがて高熱を発するようになってしまった。
 
どうも様子がおかしいと産院を受診してみたら、胎内に胎盤が残留して腐敗しており・・・「後産の失敗」とゆう医療ミスだった。
しかし当時そんな医療ミスは日常茶飯事だったのか、それとも両親が若すぎたのか・・・母は腐敗した胎盤を取り除く処置を受けただけで、産院に何の賠償責任もしてもらえないまま帰され、その後すっかり身体を壊してしまった。
 
3歳になって間もない兄と、産まれたばかりの私を抱え、身体を壊した母の育児は、一体どれほど大変だったのだろう・・・
私が物心ついた頃にはもう、母は身体だけではなく心までもが壊れていた。
 
きっと母は日頃の家事をこなすだけで精一杯、もう限界だったのだろう・・・
幼子の粗相は一切許さず、水をこぼしては怒鳴られ、食べ物を残しては殴られ、兄妹喧嘩をすれば往復ビンタをくらった。
 
だから物心ついた頃から私は、母に怒鳴られないよう殴られないよう、一日中母の御機嫌を伺うような生活だった。
そして子供心に私は、壊れている母を憐れに想った。
 
「でもやっぱり私のお母さんは、間違っている。」
子ども心に私は、ずっと母の過ちが悲しかった・・・
 
そして私が3歳の時、母は奇跡的に再び赤ちゃんを授かった。
しかし私を産んだ時の医療ミスのせいで、母の胎内はやはり壊れていて「胎盤機能障害」とゆう症状に陥っており、せっかく授かった赤ちゃんが無事育つかどうか判らない状態だった。
 
しかし母は毎日病院に通いつめ、お腹の赤ちゃんに栄養を与えるための点滴を毎日受け続け、その努力の御蔭でお腹の赤ちゃんは少しづつ育っていった。
でも何度も流産の危機に陥り、母が入院するたび私と兄は親戚に預けられた。
 
私は母に毎日病院に連れて行かれ、母の点滴中毎日じっと座って待っていた。
時々母の知り合いの看護婦さんが私に折り紙をくれたり、顔見知りになった看護婦さんが絵本をもってきてくれたりした。
私はこの時3歳だったが、親切な他人の情けが本当に嬉しかった事を、まるで昨日の事のように憶えている。
 
そして母の入院中預けられた親戚の家では、子どもらしく伸び伸びと過ごす事が出来て、私はとても快適だった。
でもやはり母とお腹の赤ちゃんが心配で、早く無事産まれて欲しいと願っていた。
だから可愛い弟が産まれた時は、本当に嬉しかった。
 
しかしやっと産まれた弟は、とても未熟な虚弱児だった。
そして誕生して早々に、成人まで生きられないかもしれないと宣告を受けた。
それからの母は、弟の育児にどんどんのめり込み・・・ますます壊れていった。                                 <つづく>
 
 

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