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「憎くって肉喰うのでなく」すなわち「八紘一宇」が 志の真の御柱なのです。
「憎くって肉喰うのでなく」すなわち「八紘一宇」が志の真の御柱なのです。
中国人も韓国人もロシア人も「日本人馬鹿にするな!」
戦争には負けたけれど、魂まで敗れてはいない!
恨みは恨みを生み、怨んだら怨みかえし合うだけなのです・・・・愚かなことです。
もっと北アルプスの頂上からものを見るのです
小さな地球に人が憎しみ合うほどばかばかしい事はないのです。
「世界はみんな家族」の意味が理解できない馬鹿ども!
韓国の前大統領が竹島に上陸し、あろうことか日本の天皇陛下を土下座せよと罵倒した。
日本国民は腹が煮えくり返るほど激怒した
しかし
しかし
全ての韓国人が「李明博」と同じ考えなのか?
そうではないのだ
日本人が大好きな韓国人もいるのだ
北朝鮮は理不尽にも日本人の多くを拉致して返さない
だからといって北朝鮮の人民を憎むべきではない
すなわち
「罪は憎んでも人を憎んではならない」と考えている
日本の国旗を破り、燃やし天皇陛下の肖像を燃やす韓国人はいけないと思う
だがしかし
だがしかし
日本人が韓国や中国の旗を破り燃やしてはいけない
武士道に反するから
それが日本の誇りだから
いいか
いいか
まちがっても
韓国人は殺せ!とか
全朝鮮人は日本から叩き出せ!
などと言ってはならない
そこに
「憎くって肉喰うのでなく」
すなわち「八紘一宇」が志の真の御柱なのです。
「八紘一宇」というのは平たく言うと「世界は一家、人類は皆兄弟」という意味です。昭和15年(1940年)第二次近衛内閣の基本国策要綱、大東亜共栄圏の建設の精神として掲げられています。
「皇国ノ国是ハ八紘一宇トスル嚢国ノ大精神ニ基キ、世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ基本トナシ、先ツ皇国ヲ核心トシ、日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」
この「八紘一宇」は神武天皇(初代天皇)が橿原宮(かしはらのみや)に即位されたときに、「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と言われたのに由来します。「八紘」(はっこう/あめのした)は八角、四方八方のことで、当時の日本において、一つの家のようにやっていこうではないか、ということです。神武天皇は九州から東上してきて、奈良の近くで即位されましたが、周囲は全部土着の豪族たちです。ですからそれらを統一し、全部を一つの家として仲良くやっていきましょう、といった道徳的な意味です
吉野の宮司さまの
ブログ記事より、転載させて頂きました。
吉野の宮司さま、どうもありがとうございました
先日安倍総理より、以下のような発言がありました。
「他国を誹謗(ひぼう)中傷することでわれわれが優れているという認識を持つのは間違っている。日本の国旗が焼かれても、その国の国旗を焼くべきではない。それが私たちの誇りだ」
私はこの発言から、日本人古来の大和魂・武士道精神を感じました。
わたくし達真の日本人とは古来より、例え自分に唾を吐く者があろうとも、
相手に唾を吐き返すような真似は、決してしないのです。
それよりも、他人に唾を吐く者の、心の貧しさを気の毒に想い
真心からの、慈悲と慈愛を持って
人間本来の在るべき姿を、自らの背中を持って示す事により
他人に唾を吐く者達の心根さえも、改心させ導いて来たのです。
そのような、誇り高き歴史が、実在しています。
それは大東亜戦争前、白人や中国人に支配され、搾取されてきた国家の人々が
日本統治により、支配と占領と搾取から解放され
国家のインフラを整え、清き衛生観念を与えられ
質実剛健な生活と、森羅万象を敬う心の安寧を教えられ
平和統治により、自立国家への礎を築いて下さった、日本の先人達を
今も決して忘れる事無く、慕い敬い続けて下さる、その御姿に・・・・
誇り高き日本の歴史の真実を、感じる事が出来ましょう。
その誇り高き、偉大なる先人達の末裔である、わたくし達真の日本人とは
偉大なる先人達の愛心誠意に、決して背いては成りません。
わたくしは、偉大なる先人達の尊き御魂に
そのように、宣誓・誓約させて頂きたいものと・・・・・
心より、想い願っております。
そして太平洋戦争とは、
日本の侵略戦争であったとゆう
偽りの自虐的歴史観念を、信じている皆様へ
大東亜戦争は、白人や中国人の植民地支配から、
アジア各国を救済するための、独立戦争であった事実を知って下さい。
白人国家と中国は、日本がアジア各国を救済するため
大東亜戦争に参加した事実を頑なに否定、隠そうとしています。
そして日本が、アメリカを中国をロシアを、侵略占領しようとしたとゆう
偽りの自虐的歴史観念を、日本人に植え付けています。
かつて日本が、どこかの国を侵略した事実がありますか?
皇紀2700年とゆう歴史の中だけでも、大東亜戦争以前のいついかなる時代、
日本が他国を植民地化支配した、歴史的事実がありますか??
日本国土国体の国魂は、他国占領の意思を持った日本人を、決して許しません。
よって他国占領の意思を持ち、国魂との心の絆・愛の絆を失った日本人とその子孫達は
いついかなる時代も、国魂によって自滅・滅ぼされて来ました。
よって、いつの時代もアジア各国を侵略し、
実際に植民地化する事により、支配占領して来たのは、
まぎれもなく、白人達と中国人達です。
モンゴルによる元寇しかり。白人による黒船来航しかり。
それが、歴史的事実です。
白人達と中国人達は、この事実を隠蔽するため、
大東亜戦争は、日本の侵略戦争であったと、
捏造した歴史教育により、日本人そのものを、洗脳支配してきたのです。
戦勝国家の意向の元制定された、日本国憲法により洗脳支配され
日本人の子孫当人達が、情けなくも忘れて去ってきた
偉大なる先人達の、愛心誠意の行為と意志を
アジア各国は、今も忘れずに、語り継いで下さっています。
以下のブログ記事をご覧に成れば、
大東亜戦争以前の日本統治により
白人や中国人たちの支配と占領と搾取から解放され
自立国家への道を歩む事に歓喜していた
アジア各国の熱い心情と意思が、ご理解頂ける事でしょう。
日本人が知らないインドが感謝する日本
そして、以下ブログ記事に紹介された
インドネシアの友人が、日本を想い歌って下さった唄をお聴きになれば
アジア各国の、日本の偉大なる先人達に対する親愛の情を
より強く感じる事が出来るでしょう。
記事より抜粋転載
桜よ 〜大好きな日本へ〜
インドネシア学生500人、大合唱
〜 歌詞紹介 〜
是非各転載元さまにご訪問頂き、秀逸な記事の数々をご覧下さい。 あなたとわたしを 今ここに ともにいかしていただいて ありがとうございます |
誇り高き日本
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皇太子ご夫妻 新国王夫妻らと笑顔で記念撮影
新国王夫妻らと記念撮影した皇太子ご夫妻(最前列の右端)
アムステルダムで2013年4月30日、ロイター
皇太子ご夫妻、オランダ国王即位式に出席
オランダのウィレム・アレクサンダー皇太子(46)の新国王即位式が30日午後(日本時間同日夜)、
アムステルダムの新教会で行われ、日本からは皇太子ご夫妻が出席した。
11年ぶりの海外公式訪問となった雅子さまは、28日午後(同29日未明)にオランダ到着後、退位するベアトリックス女王(75)が主催する晩さん会などへの出席を見合わせていたが、元気な姿を見せた。
皇太子ご夫妻は宿泊先のホテルから他国の王族らと共にバスで移動し、中心街にある新教会に到着。皇太子さまは礼服、雅子さまはアイボリーのアフタヌーンドレス姿で、周囲に手を振りながら新教会に入った。
即位式では、オランダ国歌演奏と共に新国王とマキシマ王妃(41)が入場。新教会前のダム広場には、オランダのシンボルカラーであるオレンジのシャツや帽子などを着けた国民が大勢集まり、新国王誕生を祝った。
オランダに男性国王が誕生したのは123年ぶり。新国王は、水問題に関する取り組みで皇太子さまとの交流も知られる。
オランダ王室、オランダ国民の皆様へ
謹んでお慶び申し上げます
オランダの新国王即位式のため、
皇太子殿下と皇太子妃殿下が、オランダを公式訪問。
式典に御参列なさり、仲睦まじく会話をされる、
両殿下のお写真を拝見して、大変嬉しく思いました。
皇太子殿下も、妃殿下も、笑顔がとても素適です
ご皇室の皆様が、御家族様・御一族様みな仲良く、
お健やかに、お過ごし下さいますよう・・・・・
心より祈念申し上げます。
そして良識ある日本国民の皆様へ
前記事にも記載しました通り、現在日本には、
日本内部にて諜報活動を行う事により、
日本を内部崩壊させようと調略工作している、
国際諜報機関が関与している疑いが、非常に濃厚です。
巷にあふれる、ご皇室への悪評も、
国際諜報組織が内部工作している、調略情報の可能性も高いです。
賢明なる日本国民は、それらを鵜呑みにしないよう、
厳重に注意すべきと思います。
しかし、こういった国際諜報機関の調略方法は、
いたって単純な、人心コントロール術に過ぎません。
ひとたび気が付けば、誰でも洗脳解除は簡単です。
現在国諜報組織が、ご皇室に行っていると疑われる、
調略活動の主なふたつを、下記に記載致します。
まず第一に、ご皇室の悪評を国民にばら撒き、
日本国民に、ご皇室への悪感情を抱かせようと試みていると思われます。
そして、ご皇室への悪感情から、
日本国民自らに、ご皇室解体の意志を持たせる事。
これがひとつめの狙いと思われます。
そして第二に、日本国民に抱かせた、ご皇室への悪感情を利用して、
ご皇室の皆様の御心を傷つけ、ご皇室の内部分裂を計ること。
これがふたつめの狙いと思われます。
皇太子妃殿下、雅子さまと愛子さまへの悪評の数々・・・・・
これは上記国際諜報機関の、
ご皇室解体調略活動の、一環である可能性が高い・・・・・
私は、そのように感じております。
皇太子殿下御一家の、御心配事に関しては、
国民は自らの痛みと同様に想い、
愛情と真心を添わせ、お見守りさせて頂くのが道理です。
天皇陛下と皇后陛下は、いついかなる時も、
国民の心配事や悲しみを、我が痛みとして受け止めて下さり、
慰めと励ましを与え続けて下さるのです・・・・・
その両陛下の素晴らしき御姿を、人として在るべき姿の御手本を、
常に間近で拝見させて頂ける、
恵まれた日本国民として、生かして頂いておきながら、
両陛下の愛する御家族である、皇太子ご一家の御悩みや御心配事を
我が痛みと同様に思えない国民の浅ましさとは・・・・・
実に申し訳なく、情けない限りです。
よって良識ある日本国民とは、
ご皇室に対する、嘘か偽りかも知れない悪評にふりまわされるような、
そのような愚かな行為に、決して同調すべきではありません。
そしてご皇室の皆様に、御悩みや御心配事があると知ったならば、
両陛下同様に、我が痛みとしてお受け取りさせて頂き、
愛情を添わせ、真心からの励ましをもって、お見守りさせて頂く事。
それが私達の、真の日本国民の、
人として、本来在るべき姿、なのではないでしょうか・・・・・
あなたとわたしを 今ここに ともにいかしていただいて ありがとうございます |
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三輪山(大神神社HPより)
古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。 日本神話にも記載され、大和朝廷の設立当初から存在し、「日本最古の神社」と呼ばれる歴史、由緒ある神社です。
神社の中で最も重要な「本殿」を持たず、背後の三輪山そのものを御神体としており、神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)とされています。
神奈備とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や山(霊峰富士)をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智の滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいいます。
本ブログでご紹介させていただいた、神社のお話(九)大神神社の抜粋です。 人は死ぬと山に留まる
日本人の他界感には、天上他界、海上他界、山上他界などが混在しています。 多くの日本人の葬送習俗を主を為しているのは、山上他界が日本人の他界感の中心であると思います。 「日本古代の神祇と道教」などで知られる歴史学者の、故下出積興博士は、クニ(地方)の成立を語る中で、日本人の霊魂感に触れて、人は死ぬとその魂は親しい故郷を見下ろす裏山にしばらく留まり、その裏山からはその地方を代表する秀麗な山が見え、やがて弔い上げが終われば祖霊はその秀麗な山に移っていきますが、必要に応じて裏山に戻り、子孫の生活を見守ることもできる。そのような祖霊の交通をネットする中心的な山が一つ日本のクニ(地方)にはあり、祖霊の寄り集う地理的範囲として成立したと述べられています。 筆者の住居に近い兵庫県福崎町に生まれ、民俗学生みの親とされる故柳田国男氏の墓は丘の上にあり、下界を見下ろす素晴らしい場所に建っています。 自らの祖霊感を実践されたと言えましょう。柳田氏の娘婿で民族学者の故堀一郎氏は「大台ケ原に灰を撒いて欲しい」と遺言を残されました。 堀氏は大台ケ原を祖霊が集まるとされる三重県の出身でした。 山の神の去来伝承 春にご馳走を携えて山に入り、一日山遊びをする習俗を今でも行なっている地方があります。 大和には、ダケヤマ(岳山)と呼ばれ、特別の信仰を集めている山が存在します。 代表的なダケとして、北葛城郡の二上山があります。この山には四月二十三日にダケノボリの習俗があり、「ダケの水でご飯を食べる村」と言われ、「岳の郷」六十数ヶ村の村人が二上山に登る。 吉野郡竜門岳、高見山、山辺郡のホタテ山、その他多くのダケがあり、何れもご馳走を食べた後、つつじの花を手折ってきて、苗代の水口に立てて田の神様を迎え、水口祭を行います。 大和地方のダケは大小あっても、集落の裏山であり、生活を潤す水、稲作の水を配分する山であり、祖霊の留まる山でもあるのです。 拙ブログ「神社のお話(一)」でも述べていますが、春の稲作の始まりにあわせて、山の神は里に降りてこられ、田の神となり、稲作の成長を見守られ、収穫が終わると山に帰られるという山の神の去来伝承は、全国各地に存在しています。 山におられた田の神さまが 春が訪れあたたかになる頃になると山から里の降りてきて桜の木のてっぺんにお座りになられます。
そして・・・「さぁ〜〜里の民たちよ 稲作の準備をするのじゃ」 と民たちに
お知らせするために桜を咲かせられるとも言われています。
さくら の 「さ」は 稲 「くら」 は 神座(かみくら)のくら で神さまがお座りになるところで、「さくら」 は田の神さまが宿る木と言われ、日本人が太古より桜を愛でた淵源とも言われています。
山の神、すなわち祖霊であるといえましょう。最後は神となる
長野県下伊那郡阿南町新野に今も残る、古い形の盆踊りがあります。 先祖を招き、先祖と共に三日間踊り明かすお祭りです。踊り台には注連縄が張られ、踊りはじめには台の下で神事が行われます。最終日の夜半すぎには、各家では送り火を焚いて先祖の霊を送り返します。新仏と無縁仏が踊り場に残り、この瞬間から朝大火を焚いて踊神を送り返すまで人々はたたり伝承を聞かされ踊ります。送り終わった後決して振り返ってはならないと言われています。 亡くなってからまもない人は「ほとけ」と呼ばれます。三十三年、地方によっては五十年の弔い上げを済ませると「神」になります。「ほとけ」は人の個性が残っており、供養の仕方が悪かったり、死者を蔑ろにする不注意が子孫にあると祟りを為すと言われてきました。 子孫を温かく包む神
死の清まる期間を得て、「ほとけ」から「かみ」となります。祖霊として一括される神性になると、神は無条件に子孫を包み込む神となります。 稲魂(いなだま)を育て、水を配り子孫の生活を見守る祖霊の場所が山だったのです。 日本人にとって山は死や誕生に関わる重要なものであったのです。 日本の旧国名をヤマト(山処カ)と呼んだのは大きな文化的意義が存在しているのです。 江戸時代の伊勢豊受大神宮の祠官、中西直方の詠歌集「死道百首」のなかに、 「日ノ本(ひのもと)に生まれ出でしに益人(ますひと)は神より出でて神に入るなり」と述べています。 そこには祖先の神から出たものは、祖先の神に帰っていくという死生観が語られており、日本人の生命は祖先から自分、そして子孫へと永久に血と心の連続性を形成していくものであり、神葬祭の祝詞(のりと)にも 「天翔(あまがけ)り、国翔(くにがけ)りして見そなはしませ」とあるように、亡き魂が常に現世の我々を見守っています。 先人は、祖先の魂に恥じぬ行いをと身を律してきました。 現世の我々には、それが欠けているように思えてなりません。 もう一ヶ月もすれば、お正月です。民族が大移動します。 故郷に帰られたら、故郷の山々を仰ぎ見ていただきたい。きっと祖霊の息吹を感じるでありましょう。 ※参考文献 「神葬祭大辞典」加藤隆久篇 「古代の日本」下出積興著 「柳田国男の先祖感」神社新報
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人生儀礼は、一朝一夕にはじまったものではありません。 我々日本人の祖先が、連綿と行なってきたものです。 医学が今日ほど発展していなかった昔、子供の成長を神々に祈り、子供は親の長寿を神々に感謝し、祈ってきた神と共にあった我国の根幹を為したものでした。 やってみればわかります その大切さを・・・・ [大人の儀礼]
成人式 成人式とは、子供の段階から大人の社会へ仲間入りするための儀礼をいいます。昔、男子は十五歳前後になると、衣服を改めて冠をかぶる「元服加冠(げんぷくかかん)」の儀式を行い、大人になったことを祝いました。女子は髪を初めて結い上げる「髪上げ」の儀式をもって大人になった証(あかし)としました。これが成人式の始まりといわれています。
私たちが日常使っている「冠婚葬祭(かんこんそうさい)」という言葉の「冠」はここから来ており、成人式がいかに重要な儀式であるかうかがえます。 神さまのご加護(かご)によって、無事に二十歳(はたち)を迎える事ができたのですから、まずは地元の神社に詣で、感謝の心で成人報告をし、今後のご守護をお祈りするご祈祷を受けることが古来の慣(なら)わしです。そして、今後の人生を、自分の責任と努力によって切り拓き、自立した社会人としてのつとめを自覚し、より良い社会を築くために、世の為、人の為に尽くすことを誓う日が成人式なのです。 「成人の日」は、昭和二十三年に「大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝い励ます」との趣旨のもと、国の祝日に定められました。しかし、昨今の成人式では、この主旨と厳粛さを新成人自らが否定するような事態が全国各地で起きています。式に出席する若者が、外見だけは晴れ着で着飾って一人前の大人のように装っていても、久し振りに再会した友人との談笑に興じるあまり、式典を主催する自治体の長の式辞や講演に関心を示さず馬鹿騒ぎをして、自分自身のモラルの低さを露見させる場になっていることは残念なことです。 成人を迎える若者には、「素敵な人」になってもらいたいと思います。「素敵な人」とは、年配の人からも、後輩からも、あらゆる人から見て魅力がある人のことをいいます。そのためには、相手に不快な思いをさせない気配りや、思いやりの心をもって自分の内面を磨き、高めることが大切です。自分と気の合う同じ世代の友達とばかり付き合っていては、こうした人間として一番大切な感性が養われません。社会では、さまざまな世代の人たちとの交流が不可欠です。成人式を契機に、「素敵な人」「尊敬される人」を目指す誓いを立てて欲しいものです。 神前結婚式
イザナギ、イザナミの神さまのことを知れば、結婚の意義もわかります。 『古事記』という日本最古の書物の中に書かれている神話には、日本の国の成り立ちからの出来事が伝えられています。この中に伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)、男女のお二人の神さまは、天上の神々が示された「この未完成な国を立派なものにしなさい」とのお言葉によって、地上の「おのごろ島」に降りられたとき、そこに宮殿を建て、「天の御柱(あめのみはしら)」という天にまで届く聖なる柱を巡って結婚の儀が執り行われ、そこから日本の国土や山川草木をお生みになったと伝えられています。
現在の神前結婚式は、その神話の精神を受け継いでいるのです。すなわち、神前で結婚式を挙げることは、神話に伝えられる日本の発展の基礎を固められた、伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神さまのご結婚と同じ意味、使命を持つものと考えられ、長い人生を共に助け合いながら社会に貢献して行くことを神さまにお誓いする、人生の最も大きな節目としての意義があります。 神前結婚式の形が整えられたのは、室町時代からといわれています。ただそれは現在のように神社や結婚式場の儀式殿で行われるのではなく、各家庭の床の間がある座敷において行われていました。平安時代の宮廷、貴族の間で執り行われてきた結婚の儀式は、今日の皇室のご婚儀に受け継がれていますが、一般には、家々の床の間のある座敷において行われていたのです。床の間には伊邪那岐、伊邪那美の二神、或いは天照大御神、大国主命等の神名を記した掛け軸を掛け、その前にお祝いの品や種々のお供物を供え、その前で神酒を戴いて夫婦の固めの盃を交わす形のもので、公家や大名から一般民衆にも普及し、長く明治時代に至るまでの一般的な結婚式の形態でした。現在広く行われている結婚式の形式は、明治三十三年、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)と九条節子姫(後の貞明皇后)のご成婚に始まります。宮中の歴史においてはじめて賢所(かしこどころ、天照大御神さまをおまつりする御殿)の神前で婚儀が行われ、この皇室のご婚儀を契機として民間においても、神社の神前で執り行われる神前結婚式が生まれ、それが次第に普及し現在のように定着してきたのです。 筆者の甥が昨年結婚しましたが、人前結婚式とかで、神に祈り、誓いを建てる式次第は省略されていました。
これでは、結婚式の意義を成し得ません。
伝統、文化を継承してほしいものです。
神前結婚式
古くからのしきたりである結納を経て、先ずは神社や結婚式場に予約をします。大安や友引、先勝等の吉日を選びます。神前でお祓いを受け、祝詞を奏上していただき、三々九度(さんさんくど)の盃を交わした後、新郎新婦は誓詞を読み上げ、神前に生涯の愛を誓います。親族固めの盃を交わし、結婚が二人の間だけのことではなく、両親や親族に支えられ今の自分たちがあることに感謝します。真の日本人として、地域社会の一員として認めてもらう大切な儀式であることを自覚します。 近年、様々な形の結婚式が行われていますが、氏神さまに見守られ成長し結婚するわけですから、伝統と格式のある日本古来の神前結婚式を和装で挙げるのが最善といえます。 文金高島田に角隠し(つのかくし)・白無垢(しろむく)姿の花嫁衣裳に込められた思いは、純真無垢な気持ちで嫁(とつ)ぎ、やさしい気持ちを持って、一日も早く嫁ぎ先の家風になじみ、幸せな一生を過ごせるようにとの願いが込められているのです。 厄年(やくどし)と厄祓い(やくばらい)
厄年とは、災難に遭遇したり、病気にかかったり、事故にあうなど、身辺に不幸や災いが起きやすい年齢のことをいいます。数え年で、男は十三歳、二十五歳、四十二歳、六十一歳。女は十三歳、十九歳、三十三歳、三十七歳、六十一歳といわれ、特に男の四十二歳、女の三十三歳は「大厄」ともいわれています。もともとは、中国から渡来した陰陽道(おんみょうどう)の影響によるもので、室町時代からは公家や武家社会で信じられ、近世になって民間に広がったものです。四十二歳が「死に」三十三歳が「散々」と呼ぶなど、言葉遊びの要素もふくまれることから、この年齢が定着したのは江戸時代のことと考えられています。厄年とは、私たちの祖先が永年にわたる営みを通して心と身体の調子が不安定になる年齢というものを体得し、我々子孫にまで伝えられてきた社会的慣習のことです。 男女の十三歳は、昔なら一人前とみなされ、子どもから大人の入り口に差し掛かる頃であり、身体の調和がうまく取れない時期といえます。女性の厄年からいえば、十九歳は思春期の心も身体も不安定な時期であり、また三十三歳といえば出産も一段落し、母体が変調をきたす時期といえます。また、男性の厄年でいえば、二十五歳は社会に出て最初の試練にさらされる頃であり、四十二歳は働き盛りで知らず知らずの内に無理を重ねる年頃です。そして男女の還暦である六十一歳は、定年を迎え社会の一線から退き、疲れの出る頃とされています。これらの厄年は医学的に見ても人の一生の心身の周期に合っており、理に適っているのです。 厄祓いは数え年で行います。今は誕生日が来ると歳を重ねますが、古来より、お正月に年神さまをお迎えして、この一年の幸福をいただくのが年の始まりとされ、そのときに歳を取ると考えられていました。したがって元旦から厄年に入りますので、お正月に厄祓いをするのが慣わしです。遅くとも節分までに行うのが一般的です。 特に男性四十二歳、女性三十三歳は大厄といわれ、その前後の年を、前厄、後厄といい、前厄から三年間は神社で厄祓いのご祈祷を受けます。厄年の期間は「祈り」「慎み」の心を持って過ごすことが大切です。 方位除け(ほういよけ)
迷信・気休めではありません 自然の摂理に基づいています 私たちの日常で、にっちもさっちも行かない状態を「八方塞(ふさ)がり」だとか「この方角は鬼門(きもん)だ」更には「年回りが悪い」等といいます。家相や方角、そして年回りから来るあらゆる災いを除く祈願が方位除けです。 現代の社会では、必ずしも地相や家相にかなった家を建てることは容易ではありませんし、家の引越し、増改築、旅行などによって、知らず知らずのうちに悪いとされる方位を犯しながら日常生活の中で事に当たらなくてはならないことが多々あります。 「八方塞がり・鬼門・病門」の年に当たっている方は、年回りによる祟(たた)りや障りがあるといわれ、厄年と同様にお正月に方位除けのご祈祷を受け、一切の災いをお祓いし、安心して一年を過ごされるとよいでしょう。 長寿のお祝い
父母、祖父母たちをはじめ、一家のものが長寿であることほど、おめでたいことはありません。家族一同揃って長寿を寿(ことほ)ぐとともに神社に参拝し、平素のご加護に感謝し益々壮健で長生きするよう祈願いたしましょう。長寿の祝いとは、年祝いとも言います。中国より伝来した頃は、四十の初老の賀から始まり、以後十年ごとに九十賀まで祝いました。奈良時代には貴族の間で長寿を祝うしきたりができ、室町時代に入ると、このほかに六十一歳、七十七歳、八十八歳、九十九歳、などにも、それぞれ祝いの意味を持たせて、日本的なお祝いをするようになりました。そして江戸時代に入ると民間でも盛んに行われるようになりました。 人生経験豊かな年長者に敬意を表し、ますますの健康と更なる長寿を願って盛大にお祝いを致します。 【長寿のお祝いの年齢とそのいわれ】
「還暦(かんれき)」六十一歳 還暦の字のとおり子、丑等の十二支(じゅうにし)と甲乙丙などの十干(じっかん)が生れた時と同じになる、つまり暦が元に戻ることから名付けられたもので、生まれた年の干支を「本卦(ほんけ)」ともいい、「本卦がえり」ともいいます。 「古稀(こき)」七十歳 中国の詩人・杜甫の詩「人生七十年古来稀なり」から取った名称です。 「喜寿(きじゅ)」七十七歳 喜びという字の草書体が七十七と読めることから「喜字の祝い」ともいわれます。扇子に「喜」の字を書いて贈る習慣もあります。 「傘寿(さんじゅ)」八十歳 傘の略字が八十に読めることからきています。 「米寿(べいじゅ)」八十八歳 米の字を分解すると八十八になることからきています。 「卒寿(そつじゅ)」九十歳 卒の略字が九十と読めることからきています。 「白寿(はくじゅ)」九十九歳 「百」という字から一番上の一を取ると「白」になることから、百引く一で九十九歳をいいます。 「上寿(じょうじゅ)」百 歳 このうえない長寿という意味で百歳以上のお祝いをさします。 日本人は遠い昔から、神さま、ご先祖(せんぞ)さまを敬い、感謝をする心を大切にしてきました。平穏な生活に感謝をしたり、日々の出来事を報告するなど、神棚(かみだな)や祖霊舎(みたまや、仏壇)に頭(こうべ)を垂れ、手を合わすことは、ごく自然な感情であり清らかな心のあらわれでもあります。人生儀礼も行わないという人も聞きますが、冒頭にもかきましたが、とても大切なことです。
日本人が日本人であるために・・・・ 拙稿は、神社のお話(二十)人生儀礼を再寄稿したものです。
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十一月十五日は七五三です。 七五三は、子どもの人生儀礼の代表にあげられます。
昨今、日本人が日本人らしさが無くなってきたと言われています。 人生儀礼とは、人生の節目ごとに行われる大切な儀式です。 神様に感謝と、奉告をしましょう・・・・・ 往古の昔より、我が国では、年令を数え年で数えてきました。数え年とは、誕生日に関係なく、生まれた年を1歳、翌年を2歳として数えます。1月1日元旦をもって年が改まり、年令も日本人全てが一緒に年をとると考えられていました。 七五三や厄年祓い・年祝いは、数え年で行うのが昔からのしきたりです。 赤ちゃんの儀礼
安産祈願(あんざんきがん)と腹帯(はらおび) 腹帯の効果がいま見直されています。懐妊すると五ヶ月目の戌の日に、母体の健康と、赤ちゃんが月満ちて元気に誕生するようにとの願いを込め、神社で安産祈願を受け、腹帯を着けます。「帯」を着けることから「帯祝い」とも「着帯の儀」ともいいます。この帯祝いの歴史は平安時代にさかのぼります。正式な腹帯は「岩田帯」といわれる、紅白の絹二筋と白木綿一筋を重ねたものです。 腹帯は、母体の保護安全のために懐妊五ヶ月の戌の日を選んでお腹に巻きます。戌の日を選ぶのは犬が安産であり、丈夫な子を産むとされ、それにあやかるためともいわれています。腹部の保温や、胎児の位置を正常に保つための理にかなったもので、授かった新しい命に対する社会的な認知の儀礼でもあります。 神さまの思し召しで胎内に宿った胎児の健やかな発育を願い、帯び祝いをします。普通は木綿の腹帯で、長さは六尺ほど、あるいは縁起をかつぎ七尺三寸五分にします。腹帯を着けることにより、子供が育ちすぎず、お産が軽く済むように願う日本固有の出産文化でもあります。 産湯(うぶゆ)
赤ちゃんが生まれて初めてするお清め 赤ちゃんが生まれるとすぐに湯をつかわせます。生後三日目につかわす湯を昔は産湯といって重視していました。産湯には、氏神さまがお守りくださるその土地の水を使いました。「〇〇で産湯をつかった」など、産湯が人の出生に大きく関わっていたことを聞かれたことがあると思います。赤ちゃんにとって産湯は、出産の際の穢(けが)れ祓い清める禊(みそぎ)であり、人間社会の仲間入りをさせるという重要な意味があるのです。 命名(めいめい、名づけ)
お七夜(おしちや)に命名 赤ちゃんが誕生したら、先ずは名前を決めなくてはなりませんが、役所への出生届けは生後十四日以内に提出すればよいのですが、誕生から七日目を「お七夜」といい、命名をします。
出産前に夫婦で字の画数や意味を考え名前を準備したり、あるいは尊敬する人や長老に名づけ親になっていただきますが、本来は生命をいただいた氏神さまから、その子の名前を授けていただくのが好ましいでしょう。神社に相談されると、お子さんの幸福を神前に祈り、相応しい名前を命名していただけます。 名前は単なる識別符号ではありません。一生の幸せを祈って、慎重に考え、読み方の難解なもの、あまり奇抜な名前はほどほどにしたいものです。決まりましたら命名書を書き、家の神棚に貼ってお披露目します。用紙は半紙、または命名用紙に書きます。 初宮参り(はつみやまいり)
赤ちゃんが初めて神社に参拝し、氏神さまの氏子として認めてもらい、健やかな成長と神様のご加護を願うものです。
日一日と可愛く成長するわが子。この子が丈夫に賢く育ちますようにと出産後初めて氏神さまにお参りに行くことを初宮参りといいます。初宮参りとは、お産の穢れを祓うと共に、子どもの無事誕生を感謝し、今後の健やかな成長を願い、氏神さま、または安産祈願をした神社にお参りします。「神さまの御霊(みたま)を賜ってお蔭様で無事誕生しました。今日よりこの子も神さまの氏子となります。末永くお見守り下さいますよう宜しくお願いします」と奉告かたがた神社でご祈祷を受けます。一般には、男の子は三十一日目に、女の子は三十三日目以降に神社にお参りしますが、地方によっては百日目に行うなど若干の違いがあります。天候や、母子の健康状態を見て参拝の日を選びます。お宮参りには赤ちゃんに母親の実家から贈られた晴れ着を着せ、姑や母親が抱いてお参りするのが古来よりのしきたりです。お宮参りは地域の人から認知してもらうよい機会でもあります。 地方によっては、生後一年目の初めての誕生日に「初誕生参り」を祝います。満一歳の誕生日を無事に迎えられたことを感謝します。誕生日前に歩き始めた子には「一升餅」を背負わせ、わざと尻餅をつかせるところもあり、これから二本足で歩く新しい魂の力を身につけさせるためのお祝いともいわれています。 お食い初め(おくいぞめ) 生後百日目に、赤ちゃんにはじめて本膳(一汁三菜)を食べさせるまねをする儀式を「お食い初め」といいます。「この子が一生食べ物に困らないように」という親の願いが込められています。赤ちゃんの食器を整え、食膳には、赤飯や尾頭付きの焼き魚、煮しめ、なます、お吸い物を並べ、食事の真似をさせます。また丈夫な歯が生えるよう「歯固め」として小石を添える習慣もあります。地方によって違いがあり生後百二十目にお食い初めを行なうところもあります。初めにご飯から食べさせるまねをします。お食い初めの塗り膳は神社で受けるか、ベビー用品の店で購入できます。 女の子の初節句
生まれて初めて迎える節句を「初節供」といいます。節目の行事の時には、家族で神さまに料理等をお供えしてお祝いをしてきました。
神さまのお供え・・・ということで、”節供”と書かれていましたが、現在は”節句”を使うことが多いようです。
3月3日を「上巳(じょうし)の節供」(桃の節供)といい女の子の節供。
5月5日を「端午の節供」(菖蒲の節供)といい男の子の節供。 お雛(ひな)さまの原型は? 女の子が生まれてはじめて迎える三月三日を初節句といいます。「桃の節句」「上巳(じょうし)の節句」ともいわれ、昔、中国ではこの日を「悪日」とし、水辺に行って口をすすぎ、手を洗い、身を清める習慣があり、お祓いの行事でもありました。これが日本に伝わり「上巳(じょうし)の祓(はらえ)」として定着し、紙で作った人形(ひとがた)で身体を撫で、息を吹きかけ、その人形に罪穢れを移し、海や川に流すといったお祓いの行事となりました。この人形は流し雛(ながしびな)ともいわれ、時代を経て、王朝風の美しい雛人形へと変化し、人々に親しまれるようになりましたが、お雛様の原型はこの流し雛です。初節句には、お嫁さんの実家から雛人形が贈られることが一般的な傾向です。親王飾りの男雛は天皇陛下を表し、向かって左に、女雛は皇后陛下を表し、向かって右に飾るのが正しい飾り方とされています。宮中の伝統を三人官女(さんにんかんじょ)、五人囃子(ごにんばやし)、随身(ずいしん)、衛士(えいし)、左近の桜(さこんのさくら)、右近の橘(うこんのたちばな)に見ることが出来ます。 娘の幸せな将来を願い、嫁入り道具の雛形(ひながた)を飾ります。雛あられ、菱餅などの縁起物をお供えしますが、菱餅の赤・白・緑の色は桃の色・白酒・蓬(よもぎ)を表し、これらには邪気を祓う力があるとされています。貞操・良縁成就を祈りハマグリの吸い物もお供えします。早めに飾り、ひな祭りが終わったらすぐ片付けます。片付けが遅れると婚期が遅れるなどともいわれます。桃の花と菜の花を活けて祝います。
男の子の初節句
男の子が生まれて初めて迎える端午(たんご)の節句を初節句といいます。中国のしきたりが平安時代に日本に伝わり日本古来の慣わしと結びつきました。端午の「端」には初めという意味で、「端午」は月の初めの「午(うま)」の日を指し、これは数字の五と同じ音であり五を重視する中国の思想から漢時代以降は五月五日を端午の節句というようになりました。 端午の節句には、滝登りをする鯉のように力強く育つことを願い鯉のぼりを飾ったり、立身出世するよう鎧兜(よろいかぶと)・武者人形を飾って、健やかな成長を祈ります。 五月人形は甲冑を中心に、のぼり・太刀、弓矢・太鼓・陣笠・軍扇を飾り、菖蒲酒・粽(ちまき)・柏餅を供えます。その日には邪気を祓うとされている菖蒲と蓬の葉を軒につるし、更に湯船に入れ菖蒲湯にする行事が行われます。「菖蒲」が「尚武」に通じることから、男の子の成長を盛大に祝うようになったのです。柏餅をお供えする由来は、柏の葉は新芽が出ないと古い葉が落ちないことから、「家系が途絶えない」すなわち子孫繁栄につながり、五月節句に欠かせないめでたい食べ物とされたのです。 [子供の儀礼]
三つ子の魂百までも。あなたが行なう儀礼がお子さんの心を豊かに育みます。 七五三のお参り 七五三とは、古くからの風習に由来する子供の年祝いのことで、
・3歳の「髪置(かみおき)」〜男女ともこの日から髪を伸ばし始める儀式
・5歳の「袴着(はかまぎ)」〜男の子が初めて袴を着ける儀式
・7歳の「帯解(おびとき) 」〜女の子が着物の付紐から帯にかえる儀式
七五三は、子どもの人生儀礼の代表にあげられます。数え年三歳の男の子と女の子、五歳の男の子、七歳の女の子が十一月十五日に氏神さまにお参りし、健やかな成長と健康を祈ります。七五三と呼ばれる儀式の原型は江戸時代、将軍綱吉の子徳松君の髪置きに始まったとされています。庶民など一般に広まったのは明治の初めといわれています。古くは、平安時代の公家の習慣である髪置き(かみおき)、袴着(はかまぎ)、帯解き(おびとき)に由来します。髪置きとは、誕生後初めて髪を伸ばし始める儀式で男女共に三歳の吉日を選んで行いました。袴着というのは、五歳の男の子が初めて袴をはく儀式です。碁盤(ごばん)の上に立って、吉方に向き、左足から袴をはいて、小袖を着て、扇を持ちました。碁盤の上に立つのは、宮中では、碁盤は吉方を占う道具であり、武家では碁盤の上の勝負を城取りになぞらえて、それに乗ることで天下を取ることを願ったのです。左から袴をはくのは、吉とされた陽の足から入れることに由来するものです。帯解きは、帯結びなどとも言われ、室町時代の上流階級の女の子が七歳になるまで着ていた着物から付け紐だけとって、初めて本格的な帯を締めることができるようになったことをいいます。「七つまでは神の子」といわれますが、七つになってはじめて社会からその人格が認められたのです。 七五三が十一月十五日に行われるようになったのは、その日が暦の上で満月に最も近い日であり、陰陽道(おんみょうどう)でいう最上の吉日とされているからです。稲の収穫を終え、比較的天候の安定した時期ということもあります。晴れ着を着て家族揃って神社にお参りし、長寿と健康の願いが込められた千歳飴をいただきます。 受験合格祈願
人生最初の試練 神さまどうかお見守り下さい 辛(つら)い受験勉強。受験生の負担は相当なものです。このような人生最初の試練に力を貸していただけるよう、試験に当たり合格祈願を致します。厳しい受験戦争に勝つため、お神札やお守りを受け、体調もよく、平常心で実力を発揮できるようお願いします。合格祈願は一般には天神さまが有名で、絵馬が沢山奉納されているのを見かけることがありますが、地元の神社にお参りすることが基本です。合格した折は、御礼参りをし、更なる学業成就をお願いします。就職祈願も同様です。 不幸にして不合格になっても、心新たに再挑戦する事を誓い、神さまのご加護をいただけるよう努力したいものです。 普段、何気なくあるいは当たり前のように行っていることが、実は昔からの伝統に従った理論・原則に基づく生活文化なのです。 情緒豊かな日本の生活文化を、今一度見直し、昔ながらの日本の風習、慣習に触れ、先人、先祖の子孫繁栄への思いを、次世代へと繋いでいきましょう・・・
投稿文字数に制限がありますので、次回は[大人の儀礼]について記載いたします。 参考文献 格「神社庁HP」より抜粋
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