Batman: The Ultimate Review

こちらへ引っ越し中です。 https://sylphy-bat.tumblr.com

Team Up 13に出ます!

今回も(!)Team Up 13に出ます。会場は蒲田に戻りました。
配置はT18となります。
新刊は3冊で、以下の通り。
●コミックレビュー本
・DK Universe (46p) \400
Year One, All Star Batman & Robin, DKR: Last Crusade, DKR, DKIII をカバー。Last Crusadeは書き下ろし。他はブログレビュー分再収録。
・Black & White vol.2 (36p) \300
短編作品のコミックレビューです。半分ほど書き下ろし。
●創作本
The Bat is Dead, Long Live the Bat (72p) \500
PixivやTwitter であげてたものを完成させました。以下作品を収録。
・On the Halloween Day
バットマンとスケアクロウ短編。
・A Promise
バットマン短編。ブルースが幼い頃に交わした約束の結末に...
・Crime and Punishment
Pixivでの書きかけ分を完成させたもの。バットマンとジョーカーの役割が入れ替わったら...
・The Bat is Dead, Long Live the Bat
バットマンは死んだ。ヴィランは何を思うのか。リドラー、トゥーフェイス、ペンギン...もちろん「彼」も。それぞれヴィラン一人称で書いたもの。
価格は予定です。
また、ペーパーとして、バットマンオススメ作品リスト(5p/\200)を配布予定です。映画、アニメ、コミック、ゲーム等をカバーしてますので、バットマンに興味はあるけどどこから見たら良いか悩んでいる方にオススメ。

イメージ 1
イメージ 2


たこの他、BvS考察本に寄稿してまして、T20の小澤さんのところで、配布予定です。(バットマンコミックから読み解くBvS、ということでコミック視点でのレビューとなっております。こちらも完全書き下ろし。)
また、今回の新刊、一応通販もやる予定です。
機会があれば足を運んでいただければ。
よろしくお願いします!

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

昨日なんとYahoo! ブログが今年一杯で終了との知らせ。長らく愛用してきたので、ちょっとショックですが、レビューもたくさんあってそのまま閉じるのはもったいないかなと思いまして、ブログサービスが終わる前に移行することにしました。
次の移動先は、Tumblrとなります。
https://sylphy-bat.tumblr.com

これから少しずつ過去の投稿をTumblr へ移していきます!また、コミック一作品だけでなく、気軽にリーフレビューや収穫物等もTumblr で上げられればいいなと...
もちろん、Twitter (@Sylphy_Bat)でも現行のコミックレビューをちょくちょく呟いたり、定期的にやっているバットマンを語る会などのイベントのお知らせをしておりますので、そちらも合わせてどうぞ。

あと、5月のTeam Up 13のお知らせは別途こちらで。(新刊のコミックレビュー本/創作本原稿、現在鋭意書いておりますのでお楽しみに。)

それでは、(ちょっと早いですが)今までこのバットマンコミックレビューを読んで下さりありがとうございました!更新超遅めで申し訳なかったです。またTumblr (とTwitter とイベント)でお会いしましょう!

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4



(写真はCollector’s Edition の表紙)
レビュー後半だが、今回は主に二つのテーマにフォーカスする。一つは、前半最後で触れたこの作品の中での「神」をどう捉えるべきなのか、そして2つ目のテーマとして、タイトルの「race」の意味を深く考察していきたい。

神とは、どうあるべきか。人々は何を神と呼び、何を求めるのか。この作品に限らず、人々は神を、自分たちの代わりに、導き、決断をしてくれる者、人間以上の力を持ち、人間の上に君臨する者、と捉えているように思う。前者はリーダー的存在の人間、後者はスーパーパワーを持った(人間ではない)者が役割としては果たすことは可能だろう。それでは人間、また何かしら超人的な力を持った者は神になり得るのだろうか。

映画バットマンvsスーパーマンでは、ルーサーの神についての議論がある。神は全能であれば、善であるわけがなく、その逆もそうだと。力がどこかで制限されれば、そこで全能ではなくなる。善が悪を「制限、禁止」するのであれば最大限の力というのはあり得なくなるからである(悪に使用しないから)。また、少なくとも神が善であるのなら、悪をなぜ許容するのか、または悪の境界すら判別できないからこそ、ありのままの世界を許容しているのか、という議論にもなってくる。神は審判者ではなく、ただの傍観者なのか?と。

ルーサーは、パーティーシーンで知識は力であるとも言うが、知識を得ている人間こそ力を持っているわけではない、弱い存在のままだと解釈している(それがパラドックスなのだ、と) 何をもって力と言うのか、という問いにもなってくるが、人々をコントロールできる支配権か、都市を破壊することができる怪力などの、人間が持ち得ない「フィジカルな」力、なのか。そしてそういう力があるから、「偉い」のか、人々の上に立つことが許されるのか。

DKシリーズに戻ると、力の話ではグリーンランタンの話がある(Dark Knight Universe: Green Lantern)。グリーンランタンの力は、言うまでもなく、指輪の力を使い、自分の意思の力でほぼ何でも作り出せるということである。この章では、Quarの妻たちが、神として人々の上に君臨するのなら、どのように支配するべきか問う場面がある。神に対して、人々は何を求めるのか。ここで興味深いのが、女性と男性、種族間の不平等性にも言及し、その階層は世界の支配には必要なのか、と問うのである。その「基礎」がなくても、「塔」を建てることは可能ではないか...Quarは確かに、独裁者にありがちな「服従か死か」の二択を迫る方式をとっているものの、その支配下の人々は平等であるべき、という考えが暗に読み取れる。そんな中で、ランタンの意思に呼び出されたハルは、グリーンランタンとして地球に戻り、Quarの妻たちに対峙するが、何の権限を持って自分たちに反抗できるのか、お前は神なのか、と問われ、グリーンランタンは答えを見出せないまま、彼女たちによって手を失い、のちに砂漠へ放浪の旅へ出ることになる。ここでグリーンランタン自身は力があるから権威の保持者であり、ヒーローであると自覚していたのだろう。そして神に近い者だと。ただそれだけでは人々はなびかない。何が必要なのか。それを知るために、彼は一度力を失う必要があったのである。

人々には何が必要なのだろう。DKシリーズを通して出てくる一般の人々は、よくインタビューシーンなどで意見の方向性が如実に表れるが、無関心な者と流行をただ追う者、大衆にただ流される者などの違いが浮き彫りになっている。どのDKシリーズ作品も、毎回細かいコマ割りでインタビューシーンやTV番組のシーンが挿入され、リーダーなき世界を映し出し、権威の不毛性を描いている。(前にフランクミラーがインタビュー記事に、毎回時代が大きく変わろうとしている時にDK作品を発表していますが、という記者の問いに、意図的ではない、と否定はしている)DKIIでは大統領はCG(!)であり、権威は空虚であるものの、人々がそれに真っ向から反抗すれば鎮圧されてしまう(特に影の権力者であるルーサーは、声高に大統領の虚構性を主張するジミー・オルセンを執拗に追っていたようだ)。だからある一定の虚しさが人々の中にあった。どうあっても何をやっても世界は変わらないはずだ、本当のヒーロー達は死んだのだ、と。本当のリーダーはどこにいるのかと。ブレイニアックとスーパーマンの戦いにしろ、仕組まれた戦いであった。だからこそ本当の、現実の世界を見せようとバットマンが奔走し、ヒーローをただの「カッコイイトレンド」から、変革のシンボルまでに復活させたのである。

権威さえあれば、また権威があると主張してしまえば、そしてその者の声が大きければ大きいほど、(それがどんなに間違っていたとしても)不思議と真実味を増すものである。DKIIIの世界は、IIと同じく権威はあってないようなかったが、新しい権威が取って代わろうとする。3日以内にクリプトン人のQuarを神と認めなければ都市が次々と破壊される。クリプトン人の脅威に晒された地球。力づくで人々の意思を奪おうとするQuar。Quarは人々に、より良い世界を約束し、彼を愛せ、と要求する。世界のリーダーたちが脅威を話し合うため国連での安全保障理事会を開いているが、無意味なことを話し合っているだけで、最終的に何もせずに「世界的降伏」を選ぼうとしていた。彼らはQuar以上に人々に何も与えられない者たちだった。

ブルースは、ああいうリーダーたちこそ、危険に晒された時こそ保身へ傾き、一般市民を犠牲にするのだとキャリーに言う。それでは彼らを守るのは誰か。地位にしがみつくような「偉い者」たちではなく、一般市民の中から、彼らを率いようとする者だ。その中から立ち上がり、Go to Hell.と言える者だ。中盤あたりで、キャリーが “It’s you and me against the world, boss.” と言うのに対し、ブルースは、密かにこう思う。“No, it’s the world against you and me.” 我々が正しいのか、世界が普通なのか。ここに、ブルースは常に言ってきた、「我々は常に犯罪者でなければならない」というテーマが反映されているような気がする。世界を救うには、世界からいかに間違っていると言われようが、いかに反逆者であると言われようがやる。力があろうと、なかろうと。彼こそ、そして彼とともに戦う者こそ、真のリーダーとなれるのだろう。

ブルースは確かに常々、この世界は間違っていると言ってきた。キャリーにその真意を告げることはなかったが(Dark Knight Universe: Batgirl)、キャリーは後にブルースを理解したと言う。多分今の現実世界であれ、(実際作品の中には当時の大統領選挙を反映し、ヒラリーとトランプに似た者がいる) この世界自体が全て正しいとは言えないだろう。でも私たちはどうしようもないのだ。わかっていたとしても行動しようとしても世界が変わらないと思っているから。世界を変える力がないと思っているから。だから誰かに頼りたい。そう思うのは自然なのだ。市民の中でもQuarに恐怖から、やるせなさから従おうとする者も出てくる。もちろん強制された「信仰」は、既に信仰ですらなく、自由すら奪うものだとわかっているのに、人々は考える意思すら既に奪われてしまっているのかもしれない。様々なプロパガンダが既に流通する中で、彼らに残された選択がないからだ。だから自分たちの代わりに戦ってくれる者を熱望する。彼らが「何とか」してくれるから。それが神のような存在か...?

バットマンとともにQuarと戦うことを決断したスーパーマンは、全く別の者と戦うことを余儀なくされる。自分の娘である、スーパーガール、ラーラである。彼女は、前半のレビューで触れた通りクリプトン人側を選び、父親と戦うのだ(やはりイヤリングがKrなんですよね)。もちろんスーパーマンは戦うことを拒否し、ひたすら彼女の攻撃を受け続ける。DKIIのブレイニアックの攻撃に耐え続けたのと同じように。彼こそ、(後にフラッシュが悪戯っぽく言う通り)神に近い存在ではあるのだが、クリプトン人でありながら、人間世界で生きてきた。二つの世界に属し、でも完璧にどちらにもなれないことに、彼はどこかで悩んでいたのかもしれない。人間の支配者にもなれた彼が、人間に使われ、そして大事なものを守ろうとして失敗する。それをずっと彼は耐えてきたと思う。そして彼はこの時点では、はっきりとした選択をカーラに告げることはなく、自分の、種族に対する裏切りの罪を認め、暗黒物質に囚われるに身を任せるのである。グリーンランタンと同じく、彼も自分がどうあるべきかを悟る時間が必要だったのだ。グリーンランタンは後に、ホークマン、ホークガールに一部助けられながらも、以前は力そのものによって自分が支配されていたことに気づく。眩しい光の中で砂漠をひたすら歩く中、自分の弱さを理解した彼は、自分は単なる一守護者であると悟るのだ。そう気づいた時に、彼の力は戻ってくる。スーパーマンの場合も、特に、アクアマンの助けを借り、キャリーが音叉(のようなもの)を使って彼を助け出すシーンは、音叉によって闇の宇宙の中から一つの小さな小さな真実を見つけ出すプロセスと言える。自分が誰であるべきか。自分の弱さを認めた上で、どう戦えるのか。そこが重要になってくる。

そこが次のバットマンの語りにも繋がってくる。バットマンは恐怖が弱点であり、また強みでもある。自分の恐怖を認めることで、その恐怖を敵に注ぎ込む。恐怖が人間の純粋な本能であり、普段であれば出来ないことも可能にする。

Quarに向かって言っているであろうバットマンの内心の声は好きだ。
While you? Just look at you all― Fearless. You don’t stand a chance.
弱点を認めぬ者こそ、弱いのだ...

だからこそ、普段であれば殴る相手であるはずの暴徒化した人々を引き連れ、クリプトナイトの雨を降らして、Yindel本部長やスーパーマンとともにQuarに戦いを挑む...この一連の流れが最高なのだ。神と名乗る者ですら、落ちるのだ...と(特にこの辺のバットマンの語り、カッコ良すぎてですね...と言うかとりあえず読んでください笑)

さて、ラーラはその間に少しずつ自分のアイデンティティについて悩み始める。Dark Knight Universe: Laraでは、Baalとの距離感に悩む。彼女は人間を蟻並みだとは思っているものの、冗談半分で命を奪うことに対して拒否するのだ。どこで境界を引くか。Baalとのキスの後に、I am an Amazon.という彼女であるが、愛の側に傾いた時にはアマゾン側になるのか。ここで彼女は3つの種族の間で揺れるのである。人間側か、アマゾン側か、そしてクリプトン側か。ただその後にWorld’s Finestの章では、母親であるワンダーウーマンと戦うことで、結局彼女はまたワンダーウーマンの元から、「娘」という足かせから逃れるために去ってしまう。ワンダーウーマンは彼女を娘として繋ぎ止めたいが故に反抗されるのだ。だがその後、Quarがさらに弟のジョナサンをも奪おうとしていると知った彼女。自分の身内を守りたい。でも自分の信念はどうするか。自分は誰か。何になれるのか。自分の力で何をしたいのか。アマゾン軍とクリプトン人がぶつかるのを目の当たりにして、彼女は何も出来ることはない。太陽から力を得るクリプトン人と太陽を神と信じるアマゾン人。その二つから、両方とも選ぶことはできない。これがまさにスーパーマンがずっと直面してきた問題であるとも言える。以前にスーパーマンは完全な自己犠牲の存在とも書いた。彼は見ず知らずの他人でも、本当に大切な者でも、救える可能性があるなら自分の身を犠牲にする。ラーラは、その迷いの中でグリーンランタンに助けられながら、最後に決断をしていく...

DKIIIの中で最大の見どころは、他でもない、バットマンの「死」と蘇りである。(率直に言ってしまうと、この設定はかなりの大反則のように思えるが、最高なシーンなので良しとする笑) Quarがバットマンとスーパーマンによってほぼ打ち負かされ、去って行く時、Quarのheat visionがバットマンの体を貫くのである。この「死」のシーン、鼓動音が弱まっていく場面が、冒頭のキャリーが話すブルースの死の場面と類似している。もちろん、DKRも。バットマンは一人で死を迎えるのだろうと彼自身想像していたはずなのだが(冒頭シーン)、毎回彼が死を迎える時は誰かが側にいるのだなと思う。Book 7のスーパーマンが意識を失ったバットマンを運ぶ中でのセリフは、特に興味深いものだ。Because I am not a bird or a plane... I’m only Superman.
これは実はDKIIの後半で、バットマンの説得以降、スーパーマンが人間からの隷属状態から脱し、彼の力を発揮して言うセリフ、I am no man. I am Superman. と完全に対照的である。DKIIIでの「Superman」は、神のごとき力を持っていた者でも、大事な友人すら救えないという力不足の意味を含み、「man」に力点が置かれているとも言える。ちょっと人間より強いから(Super)といって、全てが可能というわけではない、という力の限界だ。スーパーマンは神ではない。スーパーマンはスーパーマン「でしか」ないのだ。それが彼が悩み続け、見出した答えなのだろうと思う。

結局、スーパーマンはバットマンを救うためにある禁断の方法をとる。あのLazarus Pitである。スーパーマンはこれを使うために払う犠牲を分かっていた。怪物に飲み込まれようとする人間の彫像の柱をバックに、彼は深く思い悩む。もし彼が生き返ってこなかったら...生き返ったとしても正気を失ったままなら...何であれ、スーパーマンは結果を受け入れる用意は出来ていた。彼は狂気のブルースを受け入れ、抱きしめるのである。それはおそらく、今までの対立の過去を一旦置き、お互いがやっとお互いの必要性を認めたとも言えるのだろう。この世界には、スーパーマンもバットマンも必要なのだと...

なので、長年積み重ねた知恵と若き身体を手にしたバットマン、と言う最高の設定が生まれてしまったわけだが(笑)、ただ彼が手にしたのはそれだけではなかった。謙虚さ、である。おそらく彼はキャリーから少しずつ感化されていたのかもしれないが、俺はバットマンだ、だから俺の考えが全て正しいに決まっている、という傲慢さが消え、新しいことを学ぶ姿勢が顕著になったようだ。(もちろん、蝙蝠にQuarたちを襲わせるという古い手は生きているが) 特に最後のスーパーマンとBaalやその配下の者たちが戦う様子を見て、彼はやっと自分の未熟さを痛感している(これまでのシリーズでどれだけスーパーマンは俺より劣ってると言い散らしてきた彼が、である)。スーパーマンが効果的に敵にダメージを与える様子は、確かにバットマン以上であった。

最後に世界が滅ぼされる危機に再度陥りそうになりながら、何とか帰ってきたアトム、そしてスーパーガールの最後の判断が、世界を救う。ラーラは、やっと何を守るべきかを学んだのである。

彼ら。ヒーローたちとは、何者か。彼らは神ではない。(Dark Knight Universe: Action Comics) 力を使うことが彼らを神にするわけではない。彼らは守護者であり、救うために戦い続ける者。人間とともに生き、彼らを鼓舞し、より良い世界にしようと自らを犠牲にし、戦い、努力する者たちだろう。彼らは導き手ではあるが、神は、その上で、人々を見守る者なのかもしれない。世界をコントロールしようとするわけでもなく...アトムがBaalにつぶやく通り、God willing. 神は我々とは理解し得ない部分で、この世界を見つめ、世界にとって最善の方法(それがもし悪と見られても)にしようとしているのだろうか。

では結局Master Raceとは何だったのだろうか。Raceにはまず種族という意味が思い浮かぶ。Quarのクリプトン人、アマゾン人、人間たち...そして人間の中でも多くの種族がいる。スーパーガールは作品の中で、この3つの種族を振り子のように揺れ動く。彼女はそれぞれの要素を全て持ち合わせているからだ。Quarは我こそが一番優れた種族で、神となるべきだという考え方だった。アマゾン人もまた普通の人間以上に戦闘に優れた種族。人間は地球をほぼ覆いつくし、繁栄しているが、戦争が絶えない。Master Raceは、「最良の種族」になるための戦いでもあったのだろう。おそらく勝利者は人間だと言ってもいいのだが、だからと言って人間が一番優れているわけではない。最後にスーパーガール、ラーラはその人間の良さと弱さを確認しつつ、クラークと学んでいくのだが、全ての要素を持ち合わせた彼女が全てを学び終えたときこそ、master raceとなれるのではないのだろうか。

Raceにはもう一つ意味がある。競争だ。バットマンが一旦「死んだ」後に、キャリーとフラッシュが交わす会話に興味深い考え方がある。キャリーは、「死がレースのゴール」と言うのに対し、フラッシュは「死は自ら向かっていくものじゃない、逃げるものだ」と言う。私たちは生きるためのレースをしているのだ。レビューの冒頭でも書いた通り、バットマンはいい死に方を探していた。バットマンは自ら死に向かって生きているのだ。だが、その死はいつも彼にとって結局はゴールにはなり得なかった。彼は死と戦い、どこかで運命に抗い、そして死そのものを倒してしまう。(バットマンだから?) DKRで死に、DKIIIで2回死んだ彼が、最後に自ら死を求めることを諦めた。彼は救われたからだ。世界が、「生」が彼を手放さないから。そう、死を乗り越え、彼はmaster raceとなったのかもしれない。ゴールを探すのではなく、レースを越えて、走り続け、戦い続ける人生を。これからの新しい生を、ロビン、キャットガール、バットガールから成長したキャリー、バットウーマンとともに。
It’s going to be a better life.

また、どこかで、若き二人の活躍を見たいものですね...


イメージ 1

開く コメント(0)

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事