全体表示

[ リスト ]

 元来、戦(いくさ)というものは、

 戦略を欠き数を頼りに驕る陣中ほど大敗を喫することこそ理(ことわり)なり。

 圧倒的な大軍で包囲しながらも酒色に耽り、陣中の沙汰を怠って敗北することは、

 河越(○北条氏康・北条綱成 → ●足利晴氏・上杉憲政・上杉朝定{戦死})

 厳島(○毛利元就 → ●陶 晴賢{自害})

 桶狭間(○織田信長 → ●今川義元{戦死})

 などに代表される。

 永禄13年から元亀元年にかけて行われた大友宗麟の龍造寺隆信攻撃も、

 戦国時代渦中としては上記に匹敵するほどの攻囲戦となった。

 九州北部は大内氏の後継として興隆した毛利氏が豊前・筑前の領有をめぐり

 大友氏と激しい戦闘を繰り返し、未だ勝敗の優劣つけ難く、

 反大友勢力の雄・筑前古処山城の秋月種実や宝満城の高橋鑑種の勢力に

 毛利氏の支援が加わって混沌としていた。

 肥前佐嘉城の龍造寺隆信は毛利氏と手を組み、

 大友氏に抗う立花城主の立花鑑載や妙見山城主の草野親忠らを支援したため、

 ついに大友宗麟と弓矢に及び、

 豊筑肥の大軍を佐嘉城下に招くこととなった。

 この大軍を前にして人望や人徳のない龍造寺隆信に従う者は、

 龍造寺一族や鍋島信房・鍋島信昌(のちの直茂)・納富信景・小河信友・百武賢兼・

 鴨打・徳島・倉町といった腹臣や譜代衆のみで、

 西肥から東肥一帯に至るまで全て大友氏の幕下へ散じた。

 大友宗麟は筑後の高良山に陣を張り、

 佐嘉へは猛将戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速を向かわせていた。

 しかしこの時は和議が成立し、秀島賢周が人質となり豊後府内へ行くことで決着した。

 ところが、元亀元年春先に秀島賢周が豊後府内を脱走し逃げ帰ったことから、

 宗麟の佐嘉攻めが復活し、本格的な龍造寺殲滅戦に取り掛かることとなった。

 大友宗麟は遠交近攻術に長け、毛利氏を霍乱させるために、

 尼子勝久や大内輝弘らを家名再興を餌に旗揚げさせたが、

 この時にも馬場鑑周や横岳鎮貞らに少弐政興を担がせ、少弐氏復興を掲げさせている。

 膠着状態に倦み始めた大友の陣に対し、宗麟は一族の八郎親貞を送り込み、

 一気に攻め滅ぼさんと佐嘉城西北の今山に陣を定めた。
 
 大友親貞から北方方面に戸次鑑連・吉弘鑑理・馬場鑑周・横岳親貞・江上武種・高木肥前・

 神代長良・犬塚尚家・臼杵鑑速・綾部鎮幸・姉川・八戸ら豊後・東肥の諸将が陣取り、

 西方方面には小田鎮光・鶴田前(すすむ)・後藤貴明・平井経治・有馬義純・大村純忠・

 西郷純堯ら西肥の諸将が陣取った。

 もはや風前の灯、轍中の鮒といった状況にさすがの隆信も弱音を吐き、

 評定の席もネガティヴになりつつあったが、

 鍋島信昌が提案した夜襲策に望みを繋げ、

 8月20日の夜明け、信昌・納富信景・成松信勝らが今山の大友陣へ奇襲を掛けた。

 親貞は肥満体をモノともせず、白い顔を紅潮させ太刀を振るったが、

 主従3人で峰伝いに落ちるところを成松信勝に遭遇し、その首を落とされてしまった。

 享年33歳。

 大友親貞の陣は周章狼狽し、これによってほぼ壊滅したが、豊兵はなおまだ健在で、

 特に猛将戸次・吉弘等の動きには油断できず、

 その後、宗麟が撤退するまでは臨戦状態が続いた。

 
 この今山の戦いは、その後の九州の勢力図を大きく変えるまでには至らないため

 大きく取り沙汰されることはないが、鍋島直茂の軍師としての器が光った一戦で、

 その後島原沖田畷の戦いで島津・有馬連合に敗れるまでの

 龍造寺氏の肥前領営の転換期となったことは間違いない。

 大友宗麟の肥前干渉もこれを機に潰えるのである。


 冒頭で示したように、大軍の驕りは得てして敗北を呼ぶもので、

 大内義隆の冨田月山城の尼子攻めや上杉謙信の相模小田原城攻囲なども

 質はことなるが類似の経過を辿っている。


 今山の陣は『九州治乱記』『歴代鎮西志』『肥陽軍記』などで詳らかである。


 

この記事に

閉じる コメント(5)

顔アイコン

確かに^−^。

2009/10/22(木) 午後 0:36 佐野雄人 返信する

顔アイコン

でしょ(^^)/~ >makuさん

2009/10/24(土) 午前 0:50 syogun443 返信する

顔アイコン

鍋島直茂は直江兼続なんかより優秀な武将ですね。 削除

2009/10/24(土) 午前 10:02 [ 伊勢守 ] 返信する

こんにちは♪

優秀な家臣を利用できたのが龍造寺家にとってはよかったと思います♪
何とか乗り切れば後は家はどんどん発展していくものですね。
その意味でもこの戦いは意義が大きいと思います。
もちろん主は鍋島にとって替わってますが(笑)。。。

大友側からだと調略で鍋島直茂をそそのかすのがよかったと思います。時間はかかるでしょうが。。。
ぽち★

2009/12/11(金) 午後 1:20 [ - ] 返信する

やまたろうさん、こんばんは。
豊臣政権になり使えない大名は家臣団の統制もあるために家中の実力者によって主君替えをされてしまいましたよね。大友義統がダメ当主なら立花宗茂に、龍造寺政家がダメ当主なら鍋島直茂に、というように。秀吉は自分の出自と主君織田信長の英断を目の当たりにして、実力主義を採った為、鎌倉以来の名族も一刀断ちにされてしまいましたよね。
大友宗麟はこの時期、もっとも実力を宿した時だっただけに意外と驕奢な態度に出ていました。

2009/12/14(月) 午後 11:58 syogun443 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事