中世戦国

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武蔵滝山城

 関東管領上杉氏の重臣で武蔵国の守護代大石氏の居城。

 それまでは鎌倉街道が多摩川の渡しに差し掛かる要害に築かれた高月城を居城としていたが、

 時代が戦国へと突入するにあたり、大石定重が滝山城を築城し、ここに居する。

 その後、北条氏の影響下に置かれ、北条氏照が大石氏の養子となると

 築城の名手・北条氏による大リフォームが行われ、現在の複雑な縄張りへと至る。

 その後、豊臣政権と反目した北条氏により、さらに険峻な要害に八王子城を築き、

 氏照は居を移し、滝山城はその役目を終えた。

 以下、案内板より。

    
滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、

規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては

日本有数の遺跡である。

永正18(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後永禄元(1558)

年前後に定久の養子として入城した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。

侵食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、

特に北側は多摩川との比高50〜80mの断崖をなしていて、北から進入する敵に対しては鉄壁の備えと

なっている。城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置され、

外敵の侵入に備えた心くばりは実に見事である。

大石氏時代には、現在の本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までで

あったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代に拡張されたものと言われている。

永禄12(1569)年、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に、二万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め

寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれ

たという。しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正12〜

15(1584〜87)年ごろに、その居を移した。

    

                           二の丸を区切る空堀
イメージ 1


                             滝山城本丸             
イメージ 2

                            
                             北側の多摩川対岸方面 
イメージ 3

 

 滝山城を訪れる城郭ファンは多く、私が訪城した際にも熱心なファンの方が縄張り図を

 自前のスケッチブックに調査しながら記入していた。

 それもそのはず、この滝山城の遺構は本当に見事で、北条築城術の傑作が見られるのである。

 小田原本城、八王子城、松山城などに顕著な郭群と土橋、空堀は戦国時代を知る上で

 必見の城郭群遺構なのだ。                           
 天正元年7月18日、織田信長は遂に将軍・足利義昭を宇治填島城に攻めて追放する。

 4月に武田信玄が死去した報を確認した後の将軍追放劇によって

 信長包囲網は事実上崩壊し、その残党勢力の掃討作戦に力を注ぐ。

 長年の懸案だった江北・北国方面への本格的な攻略に出た織田信長は、

 浅井方の山本山城主阿閉貞征が味方に寝返ったとの報を受け8月8日に江北へ出陣した。

 大嶽砦を落とし、救援に赴いてきた朝倉軍が浮き足立つ間に朝倉追撃戦を展開。

 13日の夜には敦賀郡に侵攻し、17日には木ノ芽峠を越え、18日には越前府中の龍門寺に入り

 陣を構える。

 朝倉義景は本拠地・一乗谷を棄て、大野郡に朝倉景鏡を頼るが、

 景鏡によって自害を迫られ、ここに戦国大名朝倉氏は滅亡した。

 と、ここまでは信長の統一史の中で、さんざん語られてきたことである。

 が、その後、北陸方面指令軍の長として柴田勝家が北庄城に入国するまでの越前国内を

 描いたものは少ない。

 天正元年は、信長にとって最大の飛躍の年となったわけだが、

 武田信玄の死→将軍足利義昭の追放→朝倉義景滅亡→浅井長政滅亡→北勢長島攻め→

 三好義継滅亡という流れの中で、四周に散らばる反織田同盟の面々の掃討作戦に負われ、

 すぐに体制を整えられるほどの余裕がなかったのである。

 課題山積の中での越前国の領属化は頭脳明晰な織田信長を以ってしても悩ませた。

 結局、優秀な部将たちを逗留させることが適わない現状で、

 朝倉旧臣による越前国統治を委ねさせ、仮の体制を敷くことにした。

 逸早く信長に降参した前波吉継を守護に任命し、その下に本領を安堵された

 朝倉景鏡、朝倉景健、朝倉景盛、朝倉景泰、溝江長逸、魚住景固、富田長繁などを置き、

 合議制による織田体制でスタートすることとなった。

 しかし信長はこうした朝倉旧臣だけによる越前国統治には限界がくることを読み、

 さらには隣国加賀にも劣らない一向宗徒の王国である越前の統治は一朝夕には行かないことを

 すでに判断し、優先順位の高いほうからの統一戦線に着手していくのである。

 越前国は本願寺蓮如の開いた吉崎道場があることでも有名。

 伊勢長島の願証寺を中心にデルタ地帯に広がる一向一揆の討滅戦に出陣したり、

 三好・松永討伐や旧幕府勢力の掃討作戦、そして石山本願寺との戦闘が重なっている間、

 越前国内では早くも朝倉旧臣による合議制が破綻し始めていた。

 信長から守護を任命された前波吉継に対し、府中で反抗を始めた富田長繁とが対立したのである。

 天正2年1月、長繁は事もあろうか一向宗と結び、一乗谷を襲い吉継を殺害してしまった。

 このことを切っ掛けとして朝倉旧臣と長繁との対立に発展し、国内は大いに混乱し始めた。

 こうした越前国内の混乱を大坂の地から窺っていた本願寺顕如は、

 越前国内の門徒に対して檄を飛ばし、加賀国に次いで一揆持ちの国にしようと煽動する。

 加賀からは主戦派の坊主である七里頼周が派遣され、

 七里を中心とした一向宗は府中を襲い、富田長繁を討ち果たし、

 大野郡に侵み予てより対立していた平泉寺宗徒とともに景鏡までも屠ってしまった。

 ここに一瞬ではあるが、越前国も本願寺勢力下に置かれ、加賀に続く一揆持ちの国が誕生した。

 守護には下間頼照が任命され、各郡には下間頼俊・杉浦玄任・七里頼周が支配権を与えられ入国した。

 こうした状況に信長は動けず、天正2年は武田勝頼の美濃明智城攻めや遠江高天神城攻めに翻弄され

 かつ本願寺の陽動作戦などに終始する年となってしまった。

 天正3年に入ると信長の勢いが再び燃えあがる。

 4月に河内高屋城と本願寺を攻め、本願寺と結託する三好の棟梁である三好康長(笑岩)を降すと

 5月21日には三河設楽原でうるさい武田勝頼を完膚なきまでに叩きのめした。

 ここへ来てようやく信長は越前再攻略のために出陣をすることができた。

 朝倉氏を滅ぼして2年の歳月が過ぎようとしていた。

 8月12日、信長は殆ど全ての部将を連れ岐阜を立ち、14日には敦賀に着陣した。

 織田勢を迎え撃つ一揆方は調子に乗り、各城砦に守備兵を入れて迎撃体制を取っていた。

 15日、信長は柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀・細川藤孝・

 簗田広正・塙直政・蜂屋頼隆・稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元・北畠信雄・神戸信孝らを先発させ、

 一気に敦賀湾沿いを攻め上り、杉津砦・河野丸砦を襲撃した。

 戦闘のプロ集団である織田精鋭軍に対し、一揆方の貧弱な守備兵では話にならず、

 さらに杉津砦の一角を守る朝倉旧臣である堀江景忠が織田方に通じていたため、

 杉津はさっさと落城してしまった。こうなると河野丸砦も持たず即落城。

 海からは若狭の武藤舜秀が海上封鎖をしながら湾内を攻め込み、陸からの主導隊を補佐する。

 一揆方の大良城・河野城も早々に落ち、一向一揆方は退却した。

 先頭を進んでいた明智・羽柴両将はそのまま府中に雪崩れ込み、

 三宅権丞の守る龍門寺城を落とし、三宅を討ち取った上で占拠した。

 16日には信長本隊が出陣し、木ノ芽峠を越すと、周辺の鉢伏城・虎杖城・今庄城・燧城など

 一揆方の守備兵は雲散霧消し、府中へ向けて逃亡した。

 ところが開城逃亡した一揆方の兵が逃げ込もうとした府中はすでに明智・羽柴の勢力に占拠され

 ていたので、逃げ惑う間に悉く討ち取られてしまった。

 この後、信長は府中に入り、一揆方の殲滅作戦に出て、残党狩りを行った。

 「府中の町は死骸ばかりにて、あき所なく候。見せたく候」

 と信長自身が京都所司代の村井貞勝に書き送ったことは有名である。

 23日まで越前に留まった信長は、越前国の支配体制を整え岐阜へ戻った。

 新しい知行割は、越前八郡を柴田勝家に与え、二郡を佐々成政・前田利家・不破光治に、

 大野郡を金森長近と原政茂に、敦賀郡を武藤舜秀に与え、

 ここへきてようやく織田領属化に組み入れることとなった。

 こうして北陸方面への進出は柴田勝家を中心に北陸方面司令部が受け持ち、

 加賀の一向宗殲滅戦や上杉謙信との対決へと向かっていくこととなる。

 

 

 

 
 羽州庄内の地は肥沃な平野が広がり、

 ここを支配していたのが武藤氏の流れを汲む大宝寺氏である。

 庄内平野の羽越ラインは越後との緊密性から

 揚北衆とは密接に繋がっており、

 特に秩父一族の本庄氏、色部氏、鮎川氏などとは親密な関係が保たれていた。

 出羽山形城の最上義光はこうした背景から、

 庄内地方への侵攻を図り、大宝寺氏の内紛を誘発させ大宝寺城を狙う。

 元来、出羽庄内地方は越後の影響を多分に受ける傾向にあり、

 室町後期においても越後の守護上杉氏と密接に繋がっていた。

 そうした折に、守護代長尾為景による下剋上により守護上杉房能が敗死すると、

 関東管領の上杉顕定も戦いを仕掛け、結果、敗死するに及び

 関東から越後までが混乱し、ついには庄内地方まで荒れ狂う状態となった。

 そうした中、最上氏の指嗾により大宝寺の一族である砂越氏が反乱を起こす。

 永正9年、砂越城主の砂越氏雄は勇然と酒田東禅寺城に攻め込み、

 大宝寺澄氏を敗走させたが、翌年、田川郡内での戦いで敗死してしまう。

 天文元年には砂越氏維が再度田川郡に攻め込み、土佐林の藤島城を落とし、

 ついには大宝寺氏は平城の大宝寺城を棄て尾浦城へと居城を変える。

 その後、上杉謙信の和平工作などにより、大宝寺の内紛は終息するかにみえた。

 大宝寺義増のあとを襲った大宝寺義氏は上杉謙信の威令のもとに

 庄内方面を掌握していたが、人心掌握には失敗し諸豪を傘下に収めたとは

 とても言えない状況にあり、

 藤島城の土佐林禅林、余目城の安保壱岐、砂越城の砂越氏長、朝日山城の池田綱景、

 新田目城の留守氏則、観音寺城の来次時秀などの諸氏とは一線を画していた。

 謙信が病没すると、大宝寺義氏の箔も剥がれ、それまで謙信の威を着て横柄に

 当たっていたことが災いする。

 天正11年3月、最上義光は秋田愛季らと結託し、大宝寺の家臣・前森蔵人らを背かせ、

 一気に大宝寺攻略のため挙兵する。

 前森らの軍勢が尾浦城を取り囲むと、それまで大宝寺義氏の家臣らも前森につき、

 土佐林だけを重用したことにより憤懣やるかたない家臣に見放されてしまった義氏は

 あっけなく自害して果てた。

 この時、最上氏や家臣に擁立されたのが、義氏の弟の大宝寺義興である。

 ところが大宝寺氏から独立し、勢力を伸ばそうとしていた前森蔵人(筑前守)は

 東禅寺城に入り、東禅寺義長と名乗り露骨に大宝寺義興と敵対してきた。

 その背後には越後村上城の本庄繁長の子・千勝丸が大宝寺氏に養子となる現状があり、

 東禅寺義長としては本庄からの養子に反対の立場であり、

 ついに謀反を起こしたということがある。

 さらに、上杉と最上という二大勢力によるバックアップも庄内を二分する要因となっていた。

 つまり、上杉景勝の重臣である本庄繁長の子を養子とした大宝寺義興に対し、

 最上義光の援助を受けたのが東禅寺義長であり、

 この両勢力の代理戦争として二分してしまったワケである。

 のちに関ヶ原の戦いにおいて、上杉景勝が最上義光を攻め立てた長谷堂合戦は

 この辺に端を発しているのである。

 最上勢によって攻め立てられた義興は上杉勢の援軍を得られぬまま尾浦城は落城し、

 義興は自刃してしまう。

 人心掌握に失敗し、かつ、大勢力の硲で葛藤していた大宝寺氏は

 ここで直系が滅亡しまったのである。

 のちに本庄繁長率いる越後勢が報復とばかりに庄内へ乱入し、

 東禅寺氏を滅ぼした上で、千勝丸を家督にすえ、大宝寺義勝と名乗らせるのである。
 
 能登の守護は畠山氏だが、永禄9年に当主の畠山義綱が重臣に追放されてからは、

 後継の畠山義慶の実権もなくなり、

 遊佐・長・温井・三宅・平氏などの重臣が合議制で治めていた。

 やがて織田信長の勢力が越前から加賀へ侵攻するようになると、

 加越能の勢力に加担する形で越後の上杉謙信が北陸方面へと西南下する動きに出、

 織田・上杉の2大勢力の間で二分するようになる。

 そんな中、守護畠山氏の能登・越中の両国では重臣や地域勢力が分裂し大混乱に陥った。

 天正5年閏5月、上杉謙信は能登七尾城攻めのため出陣すると

 七尾城内では上杉に誼を通じる遊佐続光や温井景隆と織田に付くべきとする長綱連が対立。

 綱連は信長に援軍を要請するため、弟である孝恩寺宗?莚を安土城へ派遣する。

 信長に謁見した宗?莚ではあったが、上杉討伐軍としての援軍が出発するより以前の

 9月15日に七尾城内で遊佐・温井らの謀略によって、

 兄の長綱連、父の長続連、弟の長連常、長連盛や幼い子供たちが殺されてしまった。

 長一族が滅亡の危機に瀕したことで、宗?莚は還俗し長好連と名乗り

 仇敵である遊佐・温井らへの復讐に燃えるのである。

 越中の神保氏張の元で能登回復の機を虎視眈々と狙い、

 ついに天正6年8月14日、鳳至郡穴水城奪回の兵を挙げる。

 もともと畠山氏が能登国守護として守護代遊佐氏等を引き連れ能登に入国する前から

 能登の在地勢力として土着していた長(長谷部)一族だっただけに、

 長好連が旧臣を糾合すると500の兵が集まり、その足で穴水城を落とす。

 穴水城は長氏の居城でその勢力下にあるの縁の地で、好連は足掛かりにするため本拠とした。

 しかし、敵中で孤軍奮闘するには難しく、11月には穴水城を放棄し再び神保氏張の元へ去る。

 たびたび安土へ援軍を要請するが、当時の信長は別所長治や荒木村重の謀反鎮圧と

 大坂石山本願寺との戦闘状態で忙殺され、なかなか能登救援まで手が回らなかった。

 天正6年3月13日に越後の上杉謙信が急死すると
 
 春日山城内を舞台に上杉景勝と上杉景虎が家督を争う御館の乱が勃発し、

 越後国内が大混乱となるが、

 能登や越中は上杉重臣の河田長親や鰺坂長実らの活躍により混乱を最小限に留めていた。

 天正8年、長好連は名前を長連龍と改め、その年に一気に能登へ攻め込む。

 この年3月に信長と本願寺顕如との和睦が成立し、長きに亘った一向宗本願寺との決着をみた

 織田信長は、柴田勝家に命じ加賀の一向宗残存勢力を攻めさせ、

 11月までには一揆の首魁である若林長門や別宮城の鈴木義明らを討ち滅ぼした。

 長連龍はそうした情勢の中、逸早く柴田隊に呼応し、

 3月の飯山の戦い、5月の菱脇の戦いで上杉方の温井景隆を破り、羽咋郡・鹿島郡を制圧する。

 この凄まじい織田方の長連龍の攻勢に七尾城の温井や三宅らは降参し、

 能登は織田領に編成されることとなった。

 能登での活躍の第一に信長から最高の評価を得た連龍は一族惨殺の怨嗟を心に秘しながらも、

 信長の上意であるが故に、遊佐や温井ら降将を受け入れるしかなかった。

 しかし、そんな連龍の思いを理解していた信長は、

 密かに上杉景勝と音信している遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らの粛清を決意、

 菅屋長頼を実行者として能登七尾城へ送り込む。

 このとき、最もその機会を待ち望んでいたのは、間違いなく連龍だったであろう。

 三宅長盛は越後へ逃亡し、温井景隆も逐電したが、

 遊佐続光は嫡男の遊佐盛光とともに長連龍に捕縛され討ち果たされた。

 (一説には長頼に処刑されたとも)

 その後、温井景隆は上杉方として本能寺の変の際に能登へ侵攻してきたが、

 織田方の佐久間盛政や前田利家の軍と戦い、敗死した。

 おそらくこの時、前田の与力となっていた能登福光城主の長連龍も駆けつけ、

 存分の働きがあったものと思われる。

 信長の運の良さはこうした思いもかけない勢力の活躍によって統一戦が進行したことも

 加わっていると思う。

 越中にしても富山城主とした神保長住しかり、備前美作にしても宇喜多直家しかり、

 また旧守護家内での分裂による勢力拡大の例としては、

 近江の六角家中や但馬の山名家中の両垣屋・太田垣・田結庄・八木の各氏などが挙げられる。

 こうして信長の配慮によって連龍は一族の仇を取れたのである。

 その後の長連龍および長氏は加賀藩前田氏の下で家老を務める栄誉を得ている。
 天正10年6月2日、天下布武をスローガンに掲げ、

 武力で日本を統一しようと戦いを続けてきた織田信長が、

 重臣で最も信頼をおいていた明智光秀の謀反に遭い、業火の中、落命した。

 前回、この『本能寺の変』が勃発した原因は土佐の長宗我部元親との盟約を反故にされ

 元親と親密な関係を築いていた明智光秀が家臣の斎藤利三やその兄・石谷頼辰の要望により

 織田信長を討ったと述べた。

 ところが、光秀がこの時、命を懸けても信長を討たねばならない最大の理由が別にあったのだ。

 天正10年3月、木曽福島城主の木曽義昌の内通をきっかけに

 織田信忠・滝川一益の軍勢が一気に信濃・甲斐に攻め込み、武田勝頼を滅ぼすと

 織田領は旧武田領を併呑し、遂には関東にまで及ぶこととなった。

 この武田攻めに際し信長は、駿河へは徳川家康、上野へは北条氏政を動かし、

 多方面から袋の鼠とばかりに同時に攻略させている。

 戦国最強を誇った甲斐武田氏を滅ぼした織田信長はその後の天下統一構想を

 富士遊覧を含めたこの時期に練っていた。

 武田氏が滅亡し、当面織田家に敵対する勢力としては、越後の上杉景勝、

 安芸の毛利輝元、土佐の長宗我部元親となっていた。

 が、信長の頭の中にはそれらの勢力とは別の勢力への措置を考えていた。

 上杉へは柴田勝家、毛利へは羽柴秀吉、そして今回の四国・長宗我部へは

 新たに方面指令軍を組織した織田信孝・丹羽長秀・津田信澄を向かわせており

 順調に成果を上げていたため問題はない。

 信長が武田氏を滅亡させた後に残った課題とは、つまり東海一円に勢力を持つ

 徳川家康の存在だったのである。

 信長は超合理主義で、使える者はたとえ謀反人や仇であっても登用し、

 使えない者は尾張時代からの忠臣でもあっさり切り捨ててしまう、

 凄まじい脳裡の持ち主なのだ。

 そのためその非情なまでの辣腕ぶりに、恐怖心や不安感、または疑心暗鬼など

 様々な理由で数々の人心を掴み損ね、果ては背かれていった。

 江北の浅井長政、大和の松永久秀、播磨の別所長治、摂津の荒木村重etc

 そして最大の強敵として浮上してきたのが室町幕府最後の将軍である足利義昭で、

 傀儡に甘んじないこの将軍とも敵対し、

 かつ言いがかりをつけて理不尽な攻撃を仕掛けた越前の朝倉義景との抗争など、

 義昭を中心に義景、幕府と密接に繋がっている本願寺、一向宗の一揆勢力、

 松永久秀の傀儡として動きを共にした河内若江城の三好義継、

 本願寺一向宗と連携した武田信玄といった諸勢力とも対峙することとなった。

 その苦境を共に戦い、かつ利用し、武田氏の抑えとして三河・遠江の地に封じていた

 同盟者の徳川家康であったが、武田氏が滅亡した段階で信長は対家康への作戦を始動させる。

 よく裏切りが常の戦国の世にかくも長く織田・徳川同盟が続いたな、と

 両者の関係を美徳とする声も聞かれるが、

 実はまったく当人たちにしてみればそうではなかったのである。

 信長は家康を武田の抑えとして利用していたに過ぎず、武田亡きあとの家康を

 体良く移封させるか、あるいは本能寺に招きよせ家康を襲い追放させることすら

 考えていた節があるという。

 そしてそのことは、絶対の信頼をおいている明智光秀だけに相談し、

 光秀が元親だけでなく家康までも理不尽な手討ちにしてしまうことへの反対を表明

 したことから信長の折檻に遭い、家康への同情の念から彼と結託するようになる。

 
イメージ 1

                               明智光秀

 家康を騙し討ちにするという最悪の手筈まで調えようとした信長であるが、

 光秀が自らに不信感を抱いていることまでは喝破できずに作戦通り家康を本能寺に招き、

 信長自身は家康の警戒心を解くために小姓衆など僅かな人数で本能寺に待機し、

 光秀や細川忠興の軍勢で家康一行を襲う予定でいた。

 信長が自ら仕掛けたこの作戦に、家康は光秀と結託し元親も含めた新勢力で天下を動かす

 ことを確認し光秀の謀反へと突き進んだ、というのである。

 騙すつもりが騙されてしまっていた信長は最期に「是非に及ばず」と森乱丸に伝えた。

 つまり、信長は明智の謀反と知った時、家康討伐に異を唱え、長宗我部討伐にも慎重な

 姿勢を崩さなかった光秀の顔を浮かべ、自分で自分を屠ったと悟ったのだ。

 結果、光秀は信長を倒し、予想外に京に残っていた嫡男信忠を討ち、

 いよいよ朝廷を中心として家康や元親などの同盟者と結託しようとしていた矢先、

 影の仕掛け人である秀吉の超スピードの大返りによって山崎に落命するのである。

 家康は光秀救援の軍を起こすが、本能寺の変を予想していた秀吉のスピードに適わず、

 尾張から三河へ軍を戻し、信長に宣戦布告された報復とばかりに

 織田家の所領となったばかりの信濃や甲斐を侵略して行くのである。

 秀吉が最期まで油断できなかった存在にこの時敵対した徳川家康と長宗我部元親があったのだ。

 光秀によって救われた家康と元親は秀吉の治政の元に組み込まれ、

 信長亡きあとの織田家から天下を簒奪した秀吉に貢献した形になったワケである。

 信長は天才であったが人間的にかなり欠陥があったと言われ、

 天下を治めた秀吉にしても良く言ってはいないし、

 ましてや命を狙われかけた家康の開いた徳川幕府ではまったく冷遇されていった。

 まぁ、たしかに足利義昭が頻繁に連絡を取り合っていたかつての恩人ってだけで

 義景を疑い、理不尽にも攻撃を仕掛けたり、さんざん四国のことは好きにせよ!と

 言っていながら、三好康長を登用*した途端、讃岐と阿波は返せと言いがかりをつけ、

 そのことに激怒した元親を逆ギレして討ち滅ぼそうなどとする当たりに問題があったと言える。

 (*三好康長は本願寺に影響力を持ち、かつ四国戦略では元親と敵対関係にある三好家中の

 長老的存在で、信長の眼鏡に叶った人物だったようである。)

 そうしたことも踏まえての「是非に及ばず」であったのだ。

 明智光秀の正義感によって助かった家康は、見殺しにしてしまった盟友・光秀のために
 
 感謝の意を忘れず、明智の重臣で謀反の首謀者とされた斎藤利三の娘・福を

 孫の三代将軍徳川家光の乳母(教育係)として江戸城の大奥を取り仕切らせた。

 利三の子や孫も多くは徳川幕府に取り立てられ、光秀にも敬意を表していった。

 孫の竹千代が元服するに当たり、家康は薨去する直前に光秀の一字を享け

 「家光」と名乗らせたという。

 光秀の子孫は家康が発見することができず、登用できなかったという。


 以上、本能寺の変の真相を明智光秀の子孫である明智憲三郎氏の説に基づき解説をさせて頂いた。

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